第二話
「……おい。起きろ、邪神」
頬をペチペチと叩く感触に、ヴェル・ザハールは重い瞼を開けた。
視界に飛び込んできたのは、ステンドグラスから差し込むやわらかな光と、見覚えのある白い修道服。見習い修道女のルチアだ。
(……生きている? いや、封印されたはずでは……?)
混乱しながら己の体を見下ろしたヴェル・ザハールは、絶句した。
かつて世界を激震させた漆黒の巨体も、無数の不気味な触手も消え去っていた。そこにいたのは、手のひらに収まるほどの、丸くて黒い、もちもちとしたナマコのようなナニカだった。
「な、なんだこの姿はーーーッ!?」
高らかに叫んだつもりが、口から出たのは「キュ〜〜〜ッ!?」という情けない裏声だった。
「騒がないでください、ヴェルちゃん」
「ヴ、ヴェルちゃん!?」
ルチアは小さな台座の上にのったヴェル・ザハールを、慈愛に満ちた(しかし目は笑っていない)瞳で見下ろしている。
「私たちの厳格な封印術の副産物ですわ。魔力を極限まで削ぎ落とし、無害な存在へと再構成したのです。今のあなたは、ちょっと魔力が残っているだけの『神聖な文鎮』と同等です」
「文鎮だと……!? ふざけるな! 吾輩は漆黒の虚無、暗黒の支配者ヴェル・ザハールだぞ! 今すぐ元の姿に戻せ!」
ポヨンポヨンと跳ねながら威嚇するが、ルチアは「あら可愛い」とでも言いたげに、人差し指でヴェル・ザハールの頭(らしき部分)を突っついた。ぷにっと凹んで元に戻る。屈辱的すぎる。
そこへ、あの大槌を構えていた老院長が歩み寄ってきた。
「ルチア、その邪神の経過はどうですか?」
「はい、院長様。魔力出力は平時の0.001%以下。害はありません。予定通り『奉納の試練』に移れそうです」
「ほう……奉納の試練とな?」
ヴェル・ザハールは身構えた。邪神の誇りにかけて、どんな凄惨な拷問だろうと耐えて見せる。爪を剥がすか? 聖水で煮やかすか? 望むところだ!
しかし、ルチアが差し出してきたのは、見たこともない四角い布切れだった。
「今日からあなたには、この修道院で『雑巾がけ』をしていただきます」
「……は?」
「神聖な聖堂の床を磨き、己の犯した罪を清めるのです。ほら、この布を抱えて、あちらの廊下の端から端まで!」
「だ、誰がそのような屈辱的なーー」
「あ、やらないなら今すぐ聖水漬けにして漬物石にしますけど?」
ルチアがニコッと笑い、脇から巨大な聖水樽を取り出した。樽からはシュワシュワと邪気を溶かす泡が立っている。
「……キュ(やります)」
邪神ヴェル・ザハールは、生き延びるためにプライドを捨てた。
小さな体で小さな雑巾を抱え、ペタペタと床を滑っていく。持ち前の(わずかな)魔力を足裏から放出し、ホバークラフトの如く高速で廊下を磨き上げた。
「……ふはは! 見たか虫ケラども! 吾輩の完璧なる雑巾がけを! ピカピカにしてやったぞ!」
「あら、素晴らしい速さと輝き! ヴェルちゃん、筋がいいですね!」
ルチアに頭を撫でられ、ヴェル・ザハールは不覚にも「キュ〜///」と声を漏らしそうになり、慌てて口を塞いだ。
(いかん! 吾輩は邪神だ! この程度の懐柔策に屈してなるものか……! 今は牙を隠し、油断を誘い、力を蓄えるのだ……!)
「ではヴェルちゃん、ご褒美に今朝絞ったばかりの『聖なる特製ミルク』をあげますね」
「ふん、神聖なものなど吾輩の毒に……」
一口舐めた。
「……!!? (な、なんだこの濃密で甘やかな味わいは……! 闇の果てでもこんな美味なものは食したことがないぞ……!?)」
「お気に召しました? 明日も廊下と大聖堂の掃除をしたら、もっとあげますね」
「……キュ!」
即答だった。
こうして、かつて世界を滅ぼしかけた邪神ヴェル・ザハールは、修道女たちの圧倒的な武力と、絶品のご飯(と適度な労務)によって、着々とマスコット掃除係としての道を歩み始めたのである。
世界の平和は、今日も修道院の床の輝きと共に保たれている。




