3話 赫く水底より、泳ぎみるもの2
暗く屯所にある阿僧祇厳次の机上を、チリチリと蝋燭の灯影が揺らす。
書類の上に奔らせていた万年筆を止めて、厳次は視線を不意に上げた。
間を置かず、屯所の扉が開く。少年少女の肩を並べて入室する姿。
2人は迷うことなく一直線に、阿僧祇厳次の前に立った。
机を挟んで片方の夜劔晶が、隊長であった壮年の男と険しい視線を交わす。
「晶。帰着しました」
「応。山狩りはどうなった」
「恙なく。……とは行きませんでしたが」
苦いその表現に、厳次は重く嘆息を吐いた。
晶の反応は予想通りだが、長年の付き合いからそれだけではないと判る。
「報告を聞こう。――何があった?」
「化生が出没しました。かなり強いヤツです」
「妙覚山でか!?」
返ってきた完全に予想外の応えに、長年に渡って妙覚山を抑えてきた第8守備隊の隊長は吃驚を漏らした。
南葉根の連峰から華蓮へと続く妙覚山はこれまで、穢レこそ多いものの化生が出没した事例は少ない。
その前例を覆す報告に、厳次は背を乗り出した。
「蛞蝓の化生だと? 有り得ん」
「小父さまも知らないってことは、あれは化生じゃないの?」
「南葉根の奥から来た新手の怪異ってなら考えられんでもないが、にしたって蛞蝓だぞ?
あれに、そんな知恵があるはずもないだろう」
訥々と語られる晶の報告もやがて終わり、厳次は大柄な背を背凭れに預けた。
勢い込む輪堂咲の言葉に首を横に振り、愛用の万年筆で書類を小突く。
「……て云うか、蛞蝓って精霊が宿っているのかな」
「生きちゃいるから、広義ではそのはずだが。まぁ、蛞蝓が精霊力を行使したなんざ、とんと聞いた事もない。
穢獣ってんなら溝の片隅で偶に見るがな」
「しかも、脇から六つ肢を生やしていました。化生にしても異質です」
蛞蝓の穢獣は、穢獣の中でも特に弱い。毒もなく鈍重で、子供たちが溝浚いに踏み潰すのは、華蓮市中でも良く見られる光景であった。
化生。それも小山の如き巨きさの蛞蝓など、厳次をして初めて聞く存在である。
蟀谷を掻きつつ、厳次は思考を整理した。
この処、問題ばかり起きてくれる。その極めつけと云ってもいい新種の穢レの報告に、厳次は鼻息荒く愚痴を零した。
「何か起きると思っていたが、見たことのない穢レが降りて来るなんざ、予想外にしても程があるだろうに」
「小父さまは、何か気づいていたの?」
「真逆。俺が危惧していたのは、真桑達の方だ」
咲の台詞に、厳次は少年たちを見渡した。
問題は穢レばかりではない。寧ろ守備隊の内側にこそ、問題は山積しているのだから。
「神無月の頃からか、古参の防人達の動きが妙でな。
まぁ、毎年の事なんだが」
「春ですからね」
――そう云えばそんな時期か。
厳次の困り果てた様子に、晶は苦笑で追従した。
守備隊の改編は毎年、弥生の下旬に発令される。
特に昨年は、沓名ヶ原からの百鬼夜行に加えて、守備隊総隊長である万朶鹿之丞の不祥事と、兎に角、話題に事欠かない一年だったのだ。
功罪の乱高下も著しく、誰がどんな野心を燃やしていてもおかしくない。
「そいつもあるが、――原因の多くはお前だぞ。晶」
「俺ですか?」
完全に想像していなかった厳次の指摘に、少年は鸚鵡返しに聞き返した。
自分の事は、誰も判らないものである。
厳次は自重めいて、晶に苦笑を返した。
「平民が見做しの防人になったと思えば、その数カ月後にゃあ八家さまに昇り詰めたんだぞ。牛蒡抜きされた防人連中が、序列を盾に騒ぎたてる理由にはなる」
「俺にとっても事情はありますが」
「外野からすれば、見えん事情は最初から無いもんだ。
真桑達に至っては、第8守備隊の隊長にはなれると思い上がってくれた」
それが、今回の戦功焦りの原因である。
身の程を知らない戦功を求めて、晶を巻き込んで無茶を仕出かそうとしたのだ。
真桑の狙いは半ば成功したが、流石に新種の穢レを討滅した功まで含む訳にはいかない。
今回の戦功も、主の討滅が良くて精々だろう。
「小父さまから見て、向こうの実力はどうなの?」
「防人としては充分だ。……が正直、中伝を数発撃てば息切れするような十把一絡げだ。
団栗の背比べを一々気に掛けるほど、俺も暇じゃない」
世間話のようにそう評する厳次の双眸に、鋭く眼光が奔った。
本題はここから。その気配を察し、少年たちも居住まいを正す。
「お嬢から聞いちゃいるだろうが、済まなかったな。
お前を阿僧祇の内情に巻き込む前に、兄上と話し合いで決着させたかったんだが」
「夜劔の封領である、谷戸領の事情も絡んできています。どの途、避けては通れない問題だったかと」
厳次の謝罪を、晶は首を振って受け容れた。
気にしていないと返したのは本音である。そもそも、長屋の人攫いから状況は悪化する一方なのだ。
雁字搦めになる前に相手の間合いへ踏み込む判断は、戦術としても理に適っている。
こういったものは大抵、逃げようとするほど身動きが取れなくなるものなのだから。
長屋の件も、既に報告を受けているのだろう。肯いを1つ返して、厳次は口を開いた。
「誰かは判らんが、東部封領を喪った華族を纏め上げている輩がいるらしい。
東西の鉄道利権を洲議に売り渡す事で、再開発の資金繰りに充てている最中だ」
「空手形を売り抜いているのですか」
「己の財布も痛まん、巧くすれば失った領地が返ってくる。売り口上の旨さに誰もが飛びついている」
「疑いたくはありませんが、阿僧祇雅哉殿の策というセンは」
「十中八九ない。
――そもそも兄上は、自分の領地について余り興味を持っていなかった。」
晶の疑念も当然のものだが、それでも厳次は首を横に振った。
身内贔屓からではない。阿僧祇雅哉が、幼い頃から華蓮に強い憧れを持っている事を知っていたからだ。
「兄上は華蓮住まいの憧れから、猛勉強をして大学まで入った筋金入りだぞ。
――今回も、東西に渡る鉄道利権が絡まなければ食いつきもしなかったはずだ」
厳次は反古の余白に、万年筆を走らせた。
東部華族、洲議の文字。その中間に、万年筆の先を落とす。
じわりと洋墨が溢れ、黒く余白を染めた。
「東部華族出身の洲議だから、兄上が今回の纏め役として担ぎ上げられたんだろうな。
お陰で俺とお前が、戦力として供出を命じられた」
更に華蓮と名瀬領の文字を描き留め、一直線で結ばれる。
「策としては、以前からある。東部の瘴気溜まりは、風穴の何れかから吹き溢れていてな。そいつさえ塞げば、後は陰陽師たちで浄化できる」
「風穴を塞げば、龍脈に瘴気が逆流しちゃうんじゃない?」
「それがこれまで、この策が採用されなかった理由だな。――兄上曰く、それらを解消できる画期的な手段が見つかったらしい」
それが判れば対策の立てようもあるが、流石に阿僧祇雅哉も口にしなかったか。
応える厳次の口調も苦く、苛立ちが濃く含まれていた。
「俺と晶に頼まれたのは、瘴気の源泉である風穴を探す強行軍だ。
――洲議たちも財貨を蕩尽しているらしくてな、断り切れなかった」
「第8守備隊の装備が充実していたのも、その伝手ですか」
「これを逃せば破産だからな、向こうも必死だ」
妙な装備の充実具合に得心がいき、晶が首肯した。
これを機に吹っ掛けてやったと、第8守備隊の隊長である男も苦笑を返す。
「長屋の件は聞きましたか?」
「元高から聴いた。今回の一件には関係ないと思いたいが、時期が時期だけに疑うのは当然だな。――犯人から接触は?」
「……いいえ。何の目的で攫ったのか、皆目見当もつきません」
それもそうか。粗く嘆息を吐いて、厳次は悩まし気に腕組みをした。
人攫いは、余人が思うよりも割に合わない犯罪である。人質の管理から金子との交換に至るまで、兎に角、跡が残り易いからだ。
それが長屋丸ごととなると、手間と報酬の採算が合わなくなってしまう。
身動きもできず、もどかしい表情の少年を眇め見て、厳次は立ち上がった。
「元高のヤツにも忠告されただろうが、取り敢えず下手に動くな。下手人が有利なのは、俺たちが判らないからだ。正体さえ掴めれば、一気に形成を逆転できる」
「……押忍」
苦く応じる少年の肩を叩き、厳次は羽織を手に取る。
ばさり。重く翻る羽織の裾に、少年たちの付き従う気配。
「とは云え、待ちの一手は辛いな。……夜劔には、何か切れる手札は無いのか?」
「一応。とは云え、これも連絡待ちですが」
「ほう」
期待していなかった意外な反応に、厳次は片眉を上げて興味を浮かべた。
何かと問おうとしたのか、それでも堪えて視線を戻す。
何処から情報が漏れるかも、判っていない状況。手札の曝し合いは、急所になりかねないからだ。
有るの一言だけ信頼されていると理解を示し、厳次は屯所の外へと歩き出した。
♢
――珠門洲洲都、華蓮。鳳山、奇鳳院本邸。
華蓮の灯が煌々と、街とそこに息衝く人の営みを浮かび上がらせる。その光景を背に奇鳳院紫苑は、つい先刻に華蓮へと到着した客を迎えていた。
「お久しぶりです。天領学院での生活はどうですか」
「皆さん、良ぉしてくれています」
「それは重畳です」
紫苑の手元にある蝋燭の灯が、小柄な少女の影を浮かび上がらせる。
相手の固い返事を、紫苑はにこやかに流した。
「いきなり呼び立ててしまって、申し訳ありませんね。――状況は?」
「うちん長屋が神隠しに遇ぅたて聞けば、何でん居ても立っても。
それに、頓挫したはずの東西路線が再開したち、どう無理を利かせたんですか?」
「それは今、洲議たちの要求に乗じて、晶さんが探りを入れている最中です」
紫苑はそう伝えながら、手元の書類に視線を落とした。
長い年月に風化したそれらは、時代に取り残されたかのような手書きのもの。だが土地の取得を認める、間違いなく正式な書類であった。
――知られず探し出すのには苦労したのだ。その分の価値は有ると信じたい。
「あの土地は、夜劔の先代当主である夜劔政尚が買い上げたものですね。
盲点でしたよ。東部の一領主が死んだ後に備えて、自領の民を逃す先を作っていたとは」
「……お父ぅは、自分の死も予見しとりましたけん」
「お陰で、貴女と云う奇貨を、今に繋ぐ事ができました。――夜劔雪乃さん」
本題に入る気配に、夜劔雪乃は緊張の面持ちで首肯を返した。
珠門洲東部を襲った百鬼夜行と瘴気溜まりだが、それから既に数十年の時が経っている。
途絶した家門も多く、その状況を記憶しているものが少ないほどだ。
嘗ての大災害の詳細を、それも当時のままに記憶しているものなど貴重どころではない。
その例外中の例外こそ、奇鳳院紫苑の前に立つ夜劔雪乃と呼ばれる少女であった。
「敵は政治的に、晶さんを包囲しています」
「奇鳳院家が下知ば賜れば、その程度、撥ね除けられるんやないですか?」
「不可能ではありませんが、相手の見えない段階で強権の濫用は控えるべきでしょう。
相手は恐らく、神無の御坐を知っていますから」
紫苑が告げた言葉の意味を理解するにつれ、雪乃の表情が強張った。
相手は徹底的に姿を隠して、人の世の理屈を利用して晶を包囲しているからだ。
政治や人の情は、神無の御坐であっても無視はできない。
この世の自由を認められた神無の御坐だが、それでもただ人である事実は変わらないからだ。
それは、縛れないはずの神無の御坐を縛る、人の知恵である。
「政治的な無理は、此方も避けなければなりません。そこで、貴女の出番となります」
「奇鳳院家や神無の御坐ば、知っていたん。けど数十年前から目覚めた小娘までは、流石に予想はできなんと」
「ええ。この件に於いては、知られていない貴女だけが自由に動けるでしょう。
この件が良しなに終われば、貴女の望み通り谷戸領の恢復を確約いたします」
「ご配慮いただき、感謝します」
居住まいを正す少女に、奇鳳院紫苑は漸く口元を綻ばせた。蝋燭の灯が揺れ、天領学院の制服が浮き上がる。
央都から急いで帰ったのだろう、手には最低限のものしか持っていない。
「必要なものは此方で準備しましょう。――何かありますか?」
「主家さまからの心遣いち、遠慮のぉ期待させてもらいます」
「我が家の財貨を侮らないとは嬉しい限り、前金代わりに存分に頼ってください」
攻勢は静かに。奇鳳院紫苑は、最初の一手となる少女を見上げた。
雪乃が紫苑と正面から会えるのは、本当に知られていないこの一回が最後となる。
夜劔雪乃もそれは理解しているのだろう、透くような笑顔を浮かべてみせた。
TIPS:夜劔雪乃
書籍版4巻に登場した少女。
珠門洲東部に位置する、谷戸領を納めていた夜劔家の後裔。
父親であり前当主となる夜劔政尚の手により、谷戸領の風穴に禁術で封じられていた少女。
谷戸領の神器、夜刀の所有者。上位精霊を宿しているが、陰陽師として育てられた珍しい経歴を持つ。
精霊技を学んでない代わりに、陰陽術に長けている。
父親である夜劔政尚と晶の祖母である雨月房江は、兄妹の関係である。
その為に晶とは従祖父母と云うべき関係になるが、流石に見た目の年齢的に無理があるので従姉か親戚で強引に通している。
4巻の一件以降、領地を治めるための箔付けの意味合いもあり、天領学院に編入していた。
料理はできるが、焼くと煮る程度で非常にワイルド。
主に政尚直伝だからと言い訳しているが、絶対に性格からだろう。
だって、猪を狩ってくる処から始めているのだから。
因みに得意料理は牡丹肉の味噌焼きだから、真実は推して知るべしである。
久々のTIPS。書籍版未読の方の為、簡易ではありますが人物紹介を挟みました。
読んでいただきありがとうございます。
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