3話 赫く水底より、泳ぎみるもの1
黄と赫と。変色した木の葉が舞い、瘴気が妙覚山の山肌を舐めてゆく。
ざあと木立の新緑が戦慄き、季節外れの病葉が一斉に朽ち堕ちた。
赫く輝く闇の底で、白と黒に彩られた小山の如き蛞蝓の巨躯が悠然と蠢く。
感情を持たない柄目が、それでも確かな意思を宿して晶たちを捉えた。
戦慄くように僅か、悍ましい体躯が身を低くする。
「避けろ!」「――うんっ」
攻撃の予兆に、夜劔晶と輪堂咲の呼吸が交差。紅と菫の精霊光を残して、2人は左右へと跳躍した。
次瞬。穢レの巨躯が跳ね、月下の下へと躍り出る。
残炎を軌跡に駆ける少年は肩越しに、華宵に露わとなったその異形を視界に収めた。
その巨躯はどう見ても、蛞蝓のそれ。だが、脇から生える隆々とした六つ肢が、その印象を全て裏切っていた。
肢と書いたが、軟体や昆虫のそれではない。人の手足を想起させる形状のものに、滑ついた青白い鉤爪を備えている。
正者の倫理を嗤うような凶ツの産物が、頭から地表へと落ちてきた。
――見た目に騙された。
これは、晶たちの良く知る蛞蝓の速度ではない。
地を蹴立てて急停止し、晶は丹田から精霊力を練り上げた。
奇鳳院流精霊技、中伝――。
「十字野擦!」
―――■■ッ!!??
吼える声と共に、少年の太刀が舞う。
焔が渦巻き、墜ちてきた穢レの顔面へと十字に火閃が奔った。
爆炎、轟音。堪らず、蛞蝓の頭部が仰け反る。
生まれた刹那の間も赦さずに、晶は下弦の構えへと太刀の刃を返した。
奇鳳院流精霊技、連技、――乱れ三毬打。
―――■■■!! ■■? ■■!!?
少年の太刀を中心に、幾重にも爆炎が踊り狂う。
痛覚があるのか、それとも本能か。直に浄滅の炎に爆ぜ灼かれ、蛞蝓の悶えるさまが晶の視界に映った。
「咲! 脇から回り込めっ」「――判った!」
阿吽の呼吸で咲が応え、大きく回り込むように弧を刻む。
奇鳳院流精霊技、初伝、――現神降ろし。
少女の体躯が刹那に加速。菫の精霊光が尾を曳き、蛞蝓との間合いを詰めた。
狙うは、胴体から生えた六つ肢。滑るように中段から、全力の平突きを一気に突き込む。
奇鳳院流精霊技、中伝、――啄木鳥徹し。
収束する爆炎の刺突が、穢レの前肢へと直撃。隆々とした前肢が肘を逆にくの字へ折れ曲がり、そのまま爆炎を振り払った。
――無傷。
「効いてない!?」
颶風を伴う一撃を転がって回避し、咲は吃驚を漏らした。
啄木鳥徹しは、奇鳳院流の中で最も突破力に優れた精霊技である。
防御は本質的に関係ない。連続する爆炎そのものが、対象の表面を液化して穿つからだ。
無傷とは云え、癇には触ったのか。蛞蝓の腹足が波立ち躯体を大きくうねらせた。
触覚から伸びる柄目が、ぬめりとした感情のまま咲を注視した。
精霊技を放った直後の隙、咲は動けない。だが動揺もなく、少女の視線は蛞蝓の背を越え、
――月下の夜天へと視線を向けた。
華宵を透す仄蒼い月暈の下、浄滅の紅を宿した少年が跳躍する。
甲種精霊器の太刀から精霊力の尾を曳いて、少年はその一撃を叩き墜とした。
奇鳳院流精霊技、止め技――。
「石割鳶!!」―――■■■■■!!!
少年の号声と声なき穢レの抗いが交差。直撃の寸前に、蛞蝓の躯体そのものが逆に折れ曲がった。
蛞蝓の頭部から上腹までが、墜ちる熱量の前に露わとなる。
大方の生物にとって、内臓から皮一枚を隔てた腹部は護るべき弱点のはずだ。
蛞蝓の意図も掴めぬまま、それでも晶は構うことなく炎の一撃を叩き墜とした。
――どぱり。そうとしか云いようのない粘質の音を立てて、蛞蝓から赫く汚液が溢れた。
じゅうり。灼熱が触れたと同時、腐臭と共に汚液が沸き立つ。
熱量は疎か、衝撃すらも呑み込んで、汚液の大半が周囲へと飛散。残った汚液を越えて、少年の太刀は蛞蝓の頭部へと到達した。
威力に割り振った石割鳶が無効化されたのは驚いたが、太刀が生身に到達したならやりようは幾らでもある。
奇鳳院流精霊技、中伝――、
じゃりぃ。精霊力を太刀に注ぎ込むべく晶が柄を握り締めると、異様な手応えが返った。
硬いというより、砂に刀身を包まれたかのようなそれ。
手元を見下ろすと、鑢のような肉質が太刀の切っ先を包んでいるのが見えた。
生物であれば、それは口の部分。
「食性まで、蛞蝓かよ!?」
「晶、逃げて!」
蛞蝓は消化液を吐いて、溶かしたものを舌歯でこそげ喰らうと云う。
刀身を引き抜こうと力を籠めても、しとどに削れる感触だけ残して、蛞蝓は太刀を放そうとしない。
咲が警告を放った次の瞬間、蛞蝓は頭部ごと勢いよく、晶を地面へと叩きつけた。
奇鳳院流精霊技、初伝、――現神降ろし。
常人であれば地面の染みと変わる衝撃を、少年は強引に足から耐え抜いた。
少年の足を中心に地面が罅割れ、余波で羽織が背に踊る。
蛞蝓の勢いを利用して太刀を引き抜き、晶は迷いなく距離を取った。
「大丈夫!?」「……太刀はあの世に行った」
先細りに目減りした刀身を鞘に戻し、蛞蝓の穢レを睨みつける。
向こうも警戒しているのか、蠢くばかりで積極的に距離を詰める様子は見られなかった。
――ある程度の、知能はあるらしいな。
ガタつく納刀の感触越しに、その太刀が限界に近いと、晶は思考の片隅に浮かべた。
「精霊技を無効化。あれ、本当に化生なの?」
「瘴気濃度は85。高濃度だけど、瘴気溜まりを呑み込んだほどじゃない。怪異なら、もっと出力が出鱈目だ」
2人肩を並べ、油断なく蛞蝓を観察する。
穢レの能力は大方に理解がついた。問題はその厄介さだろう。
「骨格は無い。肢に見えるのも、ただ生前の記憶を模倣しているだけ。
その肢で跳ねる事はできるが、本質的には蛞蝓のそれだ」
「軟体だから、躯を半分に折ることができるのね」
「厄介なのはあの粘液だな。高濃度の瘴気でできているから、大抵の精霊技は届かない」
「啄木鳥徹しも石割鳶も無効化されるなら、打つ手はないんじゃない?」
「……いいや。瘴気溜まりを呑み込んでいないなら、遣りようは有る」
言外に撤退を匂わせる咲の意見に、晶は頭を振った。
怪異が強大とされている所以は、その体内に瘴気溜まりを吞み込んでいるからである。
瘴気溜まりとは、瘴気に堕ちた風穴そのもの。怪異はつまり、無尽蔵とも云える瘴気の塊だからだ。
眼前のそれがそうではない以上、瘴気のそこに限界は必ずある。――加えて、
「躯総てを瘴気で覆って、更に撒き散らしている。怪異の真似事でこれだけ無駄遣いしているなら、今でもかなり消耗しているはず」
「はずでも何でも、晶の見立てを信じる。
最悪、神器もあるし。……期待して良いのよね?」
「ああ。手間取って、人目が集まる方が悪手だ。今のうちに、一気に畳み掛けるぞ」
「上等!」
短く少年たちが打ち合わせた直後、穢レが大きく巨躯を波打たせた。
滑ついた体表を中心に瘴気が地面を覆い、茫漠と六つ肢が瘴気を蹴立てる。
赫い輝きを昏く裂き、小山の如き巨躯が瘴気の浅瀬を泳ぐ。
素早い。その思考を置き去りにして、晶と咲は穢レを両脇から挟み込んだ。
奇鳳院流精霊技、初伝――。
「「――雲雀突き!!」」
奇鳳院流最速の一撃が、左右同時に穢レを襲う。
どれだけ軟らかくとも、左右から圧し潰されれば、逃げる場所はない。
―――■■■■!!
蛞蝓の体躯が縦に拉げる。体液の代わりに、瘴気の粘液が体表へ溢れ出した。
刃零れも著しい晶の刀身に、紅く穢れた汚液が垂れる。
その瞬間に限界を迎えたのだろう。
ぽき。何とも云えない脆音を残して、晶の刀身が麩菓子の如く折れた。
予定通りの結果に、晶は虚空へと掌を差し伸べる。
穢レ越しに遠ざかる咲の気配。後顧の憂いなく、晶は心奧に納刀められたその柄を握り締めた。
「絢爛たれ」
解き放つは、日輪を遊弋する鳳の玉体。
少年の掌から朱金の神気が溢れ、地を覆う赫を塗り祓う。
一歩。己の消滅を理解したのか、眼前の穢レから慄く気配が伝わった。
「――寂炎雅燿」
逃げ場所など与えない。浄滅の極致たる刀身が、容易く蛞蝓の皮膚を切り裂いた。
―――■■■■!!! ■■■■!!? ■■、 、 、
次瞬。それまでの抵抗が嘘のように、蛞蝓の巨躯が弾けるように消し飛んだ。
痕跡など、何も残っていない。その唐突な終わりに、少年たちは呆気にとられた。
「え? 終わり」「……かな」
瘴気の残り香が漂う向こうで、拍子抜けに肩を撫で下ろす咲が見える。
困った表情で応じる晶は、それでも油断なく木立の向こうを睨んだ。
陰陽計を眇め見る。急速に下がってゆく針は、やがて通常よりも低い数値で落ち着いた。
どうやら、今夜はこれで終わりらしい。
釈然としない感情を抱えたまま、少年は踵を返した。
かさり。足元で微かに、乾いた何かを踏む音。何となしに手を伸ばし、少年はそれを抓み上げる。
「………………これは」
掌中に僅かと残ったそれを見下ろし、晶は苦く呟いた。
♢
―――……■■■!!? ■■、 、 、
妙覚山から吹き付ける声なき颪に、第8守備隊の隊長代理である真桑は陰陽計から視線を上げた。
「終わったな、……予定通りだ」
「隊長。本当に宜しかったのですか? 一歩間違えれば、背反行為に取られかねませんが」
「構うな。衛士殿は古巣が大切らしいからな、俺はその意向を汲んだだけに過ぎん。
手を下したのも向こうなら、我々に疑われる余地などない」
「であれば、宜しいのですが……」
気遣いにも動じることは無い。真桑陣伍の泰然とした姿勢に安心したのか、部下も云い募る事なく退き下がった。
幕下を潜り、月下の灯りへと己の影を落とす。
「御大の見立てが確かなら、数体程度は此方に流れるはずだ。そいつを狩れば、普段よりも大きな戦功が望める」
「済んだこととは云え、あれが此方に流れれば、その比では済まない被害になりますが」
「その辺り、御大には自信があった様だ。言下に否定されておられた」
「実戦投入の序でに、此方が始末されていた可能性もありますが」
「君には、我々の予定を総て伝えたはずだが?」
背に付き従う部下を、真桑は冷ややかに見下ろした。
危ない橋を渡っている自覚はある。だが、それでも抗いきれない魅力が、向こうの提案にはあった。
「その通りにあります」
「なら、黙して従え。最終的に切り捨てる心算でも、必要と思っている間は協力してくれる」
腕組みをして、真桑は視線を山頂へと向けた。
その気配は察せたのだろう。部下からも、それ以上の抗弁は上がらなかった。
ざあ。瘴気交じりの風が、木立の奥から戦ぎ渡る。
「来たな。――砲兵、銃列を組め」
「銃ぅーー列っ、構えェっ」
真桑の号声と共に手旗が振られ、一糸乱れぬ動きで正規兵たちが隊列を組む。
手にした長銃が銃口を擡げ、平行に並んだ。
直後。猪が数十頭、転がるように斜面から現れる。
腐臭と共に瘴気が靡き、その先頭で猪の主が凶声を吠えたてた。
―――犠イイィィィッッ!!
「主か。予想外だが、これは戦功が捗ってくれるな」
欲得尽いて歯を剥き出しに嗤い、真桑は挙げた手を振り下ろす。
「――撃てェェェッッ」
直後、幾重にも銃声が鳴り響き、猪の左右から砲火が交差した。
部下の翻す合図に従い、長銃から火閃が迸る。
効果は絶大だった。闇夜を裂く銃火の線が交わり、歪に生まれた四角の中で穢獣の影が棒立ちとなる。
銃砲が鳴り響いたのは、恐らく1分にも満たない間だったろう。
砲火が鳴り止む頃、動いている穢獣は残っていなかった
「銃列を組み、火線を線として殲滅させる面を構築する。
キリングゾーンとか云ったか? 西巴の知識も中々に侮れん」
「お見事に御座います、真桑隊長」
「世事は不要らん。とは云え、この結果なら、御大にも満足いただけるだろうさ」
くつりと、湧き上がる愉悦に咽喉を鳴らし、真桑は沈黙を思い出した空間を闊歩する。
真桑は暫く歩き、堆く積む死骸の前で立ち止まった。
気付かれたと理解したのだろう。熱と死臭に紛れていたその気配が、死骸の底からゆっくりと立ち上がった。
「流石に主と云うだけある。しぶとさは一級品だな」
―――犠、 、 、悪ォ、 、 ォ。
猪の主だ。鼻面から銃弾を受けたからだろう。
左右から銃火に曝されて、躯から血潮が溢れている。
血走る凶ツ眼は息も絶え絶えで、四肢で立っているのも漸くの様相を呈していた。
「穢獣風情に贅沢な末路だが、正々堂々と頸を墜としてやる。
じっとしていろよ? ゆっくりと、丁寧に、――最後まで苦しんでくれ」
にこやかに嗤いながら、真桑は太刀を引き抜いた。
見せびらかすように精霊力を籠め、己の胴体ほどもあるその頸へと突き立ててゆく。
飛沫く血のそのままに、喜々と真桑は刃を翻した。
猪の苦鳴が絶えるまでのかなりの時間の後、真桑は刀身を血振い立ち上がる。
その光景に何も思わないのか、部下も砲兵も意見を舌に乗せることは無い。
ただ静かに、撤収の準備を始めた連中たちを見渡して、真桑は漸く山頂を見上げた。
事態の終息を受けたのだろう。合図の笛が、そこかしこから上がり始めていた。
余人に聞こえぬよう、咽喉が鳴る。
「精霊などという時代遅れに縋る、人がましい奴ばら共。誰がその足元で支えているのか、いま一度思い出させてやる」
己もその恩恵に与っているという現実を都合よく忘れ、真桑は大きく両腕を広げた。
読んでいただきありがとうございます。
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