2話 行き交う人の、日々を護らんがために1
耳朶を打つ鳥の囀りに、夜劔晶の意識がゆっくりと浮上する。眠気に瞬くも、少年は布団からゆっくりと身体を起こした。
居慣れぬ客間をゆっくりと見渡す。六畳しかないそこは、無人となった長屋の件が片付くまで住むようにと宛がわれた、武藤元高の屋敷の一間だ。
がらりと板戸を開くと、続く小さな中庭から雀が数羽、慌てて空へと消えていった。
上がり框から庭へと下り、碧く晴れた青天を見上げる。
手洗いの脇に盛られた塩で歯を磨く傍ら、横に立つ誰かの気配。
視線を遣ると、久し振りに会った顔見知りの少年が、慣れた手つきで竹串を口の端に噛んだ。
御井陸斗。警邏に務めている少年が、視線の先で片手を上げて見せた。
「よぅ」
「久し振りだな、陸斗。お前も居るって聞いちゃいたけど、……昨日は?」
「警邏の遅番。ってか、師匠の指示で周囲の長屋を虱潰しのガサ入れだな。
――長屋の件も聞いたよ」
「ああ」
その少年の慰めに、晶は言葉少なく応じた。が、やはり堪えているのか、その手は遅い。
もたつく少年を急かすことなく、陸斗は先に支度を終えた。
嗽で塩を洗い流し、踵を返す。
「朝餉の準備は終えてある。取り敢えず、何か腹に放り込もうぜ」
「進展があったのか?」
「飯の楽しみにしてろ。そうすりゃ、少しは食欲も湧くってもんだろ」
晶の住む長屋には、昨年の葉月に陸斗も身を寄せていたことがある。
他人事の警邏の本音よりも、住民たちを知る少年の一言は晶に沁みた。
庭の手洗いから土間へと、陸斗の背が消える。
その一拍後を置いて、晶は勢いよく口に残った水を総て吐き出した。
土間から上がった居間の卓上には、味噌汁と白米が3人分。
ゆらりと揺らぐ湯気に誘われるようにして、漸く家主である武藤元高が姿を現した。
徹夜だろうか、見るからに起き抜けの表情は優れていない。
「――眠れたか?」
「何処でも寝られるってのが、取り柄でね。……昨日は助かった」
「事件現場の長屋に放置できる訳も無いからな、気にするな」
「――そうそう。屋敷もこんなに広いんだ。余分に居座った程度じゃ、屁でもない」
「お前はもう少し遠慮しろ、陸斗。書生の癖に、三杯目もそっと出しやしない奴が」
「書生ってか、師匠の弟子って扱いっすよね。俺? 警邏の薄給じゃあ腹は満たせないんで、高級取りの師匠をアテにはさせてもらいますよ」
米櫃から白米を掬いつつ、青年の面影が見え始めた陸斗も、負けじと応じて見せる。
空の茶碗に白米が盛られては戻る傍ら、武藤は卓の端に置かれた拳2つ分の大きさの箱に手を伸ばした。
「ラヂオか」
「給料2か月分を叩かされたよ」
正面の抓みを捻ると、雑音が流れ出す。慎重に抓みを捻る男の手に従って、やがてその向こう側から人の声が明瞭に浮き上がった。
ラヂオの本放送は、昨年の弥生頃。家庭でも講談が愉しめるとあって、50円前後と高価ながらに爆発的な人気を得た最新家電である。
「流石は御大尽、随分と新しいものを持っている」
「報道に歌謡。欲を云えば真空管のものが欲しかったけどさ」
「――鉱石式の雑音が、盗み聞き対策に最適だからだ。
それだけの価値はあったと、信じたいね」
晶の呟きに窓側へとラヂオを寄せ、武藤は卓上へと身体を乗り出した。
柵と庭に遮られているが、相手が判らない以上、用心するに越したことは無い。
ラヂオの雑音は、盗み聞く相手から会話を誤魔化す、良い隠れ蓑になってくれるからだ。
「奇鳳院さま方には連絡をしておいた。晶の意を汲んで、大事にはしないとの仰せだ。
必要なものがあれば直ぐに用意するとも、託っている。……何かあるか?」
「今の処はない」
現状であれもこれもと考えない程度には、晶の頭も冷えている。
頭を振る少年の表情に、そう武藤は大きく安堵に息を吐いた。
混迷のまま素人に走り回られるほど、厄介なことは無い。が、その経験則も、今回は不必要そうだが。
「洲議辺りが妙な動きを見せていてな。奇鳳院さまも断りにくい案件を、要求してきていた」
「断りにくい案件って?」
「洲鉄の利権に絡んだ再開発だな。――阿僧祇雅哉って名前に覚えは無いか?」
「阿僧祇って事は、隊長の親族か」
「実兄殿だ。御方がそれを奏上してな、洲議どもが乗っかってきたらしい」
武藤の返事に、晶は記憶の片隅を弄った。
阿僧祇厳次に兄がいると云う事は、別に隠されている訳ではない。事あるごとに厳次も口にしていた為、そうなのだなと晶も知っている程度には大っぴらにされた事実であった。
だが、云ってしまえば、知っているのはそれだけだ。
「お会いしたことは無いし、何なら洲議ってのも初耳だぞ」
「厳次の奴とは付き合いも長いが、私も雅哉殿にはお会いしたことは無いな。
何かあれば、手掛かりになると思ったんだが」
「――年齢が離れていれば、兄弟でも骨肉の争いだぞ。家督が絡めば特にな」
「離れてなくても争うさ。その当人だった俺が保証する。
……それで? その洲議殿が、この件にどう関わってくるんだ?」
白湯で茶碗の米粒を浚いながら陸斗が口を挟み、晶が返す。互いの事情をそれなりに知る武藤は、その言葉に腕を組んだ。
「要求してきたのは洲鉄東西に渡る線路の利権だが、これには珠門洲東部の再開発が必須条件になる」
「……待てよ? 東部って確か、瘴気に沈んでいるんじゃなかったっけ」
「そうだ。百鬼夜行が引き起こした大規模な瘴気溜まりに東部の半分近くが沈んで、もう20年になるか。そいつに焼け出された元封領華族たちが裏にいるらしい」
封領華族とは、領地を持つ華族の総称である。
位だけの華族と比べて高く扱われるが、逆に領地を喪えば名ばかり以下の華族として一段低く見られる立場だ。
東部を襲った百鬼夜行に領地を喪った華族は多く、冷や飯食いの立場に甘んじていると聞いた事がある。
「今更になんで、そいつらが囀ってんだ?」
「昨年に、お前さんが滑瓢を浄滅したのが切っ掛けだ。東部の百鬼夜行がそいつの仕業だと、何処かから漏れた。名ばかりで燻っていた連中が、洲鉄の利権と引き換えに協力を求めてきた」
「洲鉄の利権は良いけど、長屋の1件にどう関わってくる?」
洲鉄の利権が莫大な金子を生むのは、久我家の繁栄ぶりを見れば理解はできる。
だが、長屋の1件とはどう考えても繋がらない。
今一つ理解に及ばない状況に、武藤は箸で晶を指してみせた。
「お前だよ。阿僧祇雅哉の提案には、滑瓢を浄滅せしめた立役者である夜劔当主の出陣が含まれていた。
長屋に、洲議。特に珠門洲東部を壊滅させた瘴気溜まりは、奇鳳院家にとっても懸案だ。断り切れん」
「罠かな?」
「十中八九、な。少なくとも、私はそう見ている。――先に云っておくが、拒否は難しいぞ」
表面上に関係が無いのなら、拒否するのも選択肢の1つか。
そう思考に翳る晶の眼差しに、先回りで武藤は結論を口にした。
選択肢を潰された晶の無言の反駁に、それでも武藤は頭を振って見せた。
拒否するだけなら可能だが、状況は断れない方向に複雑に入り組んでいる。
特に、提議を働きかけた洲議の中心が、阿僧祇雅哉だと云うのが不味かった。
阿僧祇家は、嘗ての東部の百鬼夜行で焼け出された元封領華族の1つだ。
次男であり華蓮に根を下ろした阿僧祇厳次と違い、家督を継いだ阿僧祇雅哉の領地奪還への執着は想像に難くない。
「にしても、回りくどいな」
「そこがミソだ。誰だは判らんが、お前の周辺を能く調べている。
1つ1つ、断言できない程度の理由を付けて、居場所って呼べる場所を潰して回っているんだろうな」
「って事は、最終的な目的は晶の居場所を奪う事か?」
「そうだ。と云っても、奇鳳院家に対して危ない橋を渡るほどの価値はないと思うがね。
恐らくは阿僧祇雅哉殿も、踊らされたクチだろうさ」
陸斗の推測に、武藤は首肯を返した。
これだけ周到な相手だ。奇鳳院家に対して、敵対に近い行為を働いている自覚ぐらいは期待できる。
「阿僧祇雅哉が首謀ではないと?」
「この時点で取引材料に持ち出した相手なら、ただの手駒程度が精々だ」
晶の念押しに武藤元高はそう応え、話は終わりとばかりにラヂオを切った。
静けさを取り戻した部屋の窓を少し開け、袂から煙草を取り出す。
「これから暫くの予定は立っているのか?」
「――明日辺りから、第8守備隊で山狩りに入る予定だな」
「て事は、明日の一晩は不在か」
これ見よがしの声と共に、武藤の口から紫煙が窓の外へ流れた。
一息に紫煙が尽き、煙草に残る橙色を揉み潰す。
どうやら、誰かに言葉を聞かせたかったらしい。
武藤の意図を悟った晶が、鋭く視線を向けた。
「誰かに聞かれていたのか」
「さてね。何方にしても、少年の予定は奴らに筒抜けだ。
――その一押しになってくれれば、充分ぐらいだな」
剣呑とした晶の視線に、武藤は軽く肩を竦めて見せる。
「向こうさんはどうやら、お前を政治で潰したいらしい。もう幾つか手掛かりを残してくれたら、尻尾程度は掴めるはずだ」
「それまでは静かに過ごせと?」
「こう云った輩が、最も嫌がる相手の対応って何だか判るか?」
そろそろ時間だ。狩猟帽を目深に被り、武藤は気障に片目を瞑って見せた。
「平然と日常を過ごされる事だ。手間暇かけてまで相手をしてやっているってのに、どこ吹く風でのんびりされてみろ」
危ない橋を渡っている自覚があるなら、尚更に。相手が釣り出せなかったら、動かざるを得なくなるほどに焦ってくれるはずだ。
晶が動かないほど、気を惹くためには動かざるを得なくなる。
「これは我慢比べだよ。向こうが焦れば、それだけ不利になるからな。
――そう云えば、そろそろかな」
「何が?」
窓の向こうに踊る、仔馬結びの尻尾の先。特徴的なそれを認めて、武藤が独り呟いた。
余程に焦っていたのだろう。呼び鈴が鳴り響き、間を置く事なく玄関が引き開けられる音が響いた。
突然の来客に、戸惑う少年たちの視線が交差する。
「晶! 居るの!?」
「咲!?」
思いもしなかった少女の声に驚く少年へと、武藤元高は悪戯っぽく微笑んで見せた。
「華蓮へ戻ってきてからこっち、碌に逢う余裕もなかっただろう? 相手に対する牽制がてら、暫くは一緒に居とけ」
♢
「何で教えてくれなかったの!?」
「そんな余裕はなかったんだって。発覚したのは昨日の遅くだし、下手に騒げば向こうの思う壺なのは判るだろ」
「それにしても!」
苛立ちも露わに、輪堂咲の歩みは止まることが無かった。
晶の弁明も言い訳じみて弱々しく、遅れがちの歩幅を少女のそれに合わせてゆく。
「武藤殿から、長屋の件を聞いて吃驚したわ。って云うか、色々と納得できる動きが輪堂の本家でもあった」
「武藤殿からもそれとなく聞いたな。――何があった?」
「私の釣書をお母さまが周囲に送りつけたって。輪堂家でも断るのが難しい御家が乗り気だと、お父さまが連絡してきたわ」
「輪堂のお方さまに? 入れ知恵をした相手は聞いたか」
晶の視線の先で、咲は軽く頭を振った。
元から期待もしていない。少年と少女の歩みが雑踏に紛れ、路面電車の向こうへと流れてゆく。
「東部に縁のある家門を中心に出回っているみたい。
お父さまと連絡を取ったんだけど、晶くんの後見の隙を突かれたって」
「輪堂家の後見で、何か問題でもあったのか?」
やがて、3区へと続く舘波見川の橋桁で、咲は晶へと視線を巡らせた。
「輪堂家の後見はちゃんと書類が通っているわ。……問題はもう1枚、後見の届け出があって、そっちも通っていたってこと」
「俺の後見が二重にあったって事か。だけど、それがそんなに問題か?」
怪訝な少年の眼差しも当然のものだろう。
後見とは、庇護者の居ない華族の責任を肩代わりする、云わば親代わりだ。
とは云え、二重に書類が通ったとしても、あまり意味はないと思えるが。
今一つ理解に追いつかない晶へと、それでも咲は頭を振って見せた。
「後見は基本的に格下の華族に対するものだし、本来ならそう。
でも、晶の場合は違う」
1年も経たないこの間に、数多の戦功を立てて八家にまで上り詰めた。その実力は誰しもが認めざるを得ないものであり、後見も晶の方にとっての重荷と化しているのが現状だ。
そして、最大の問題がもう一つ。
「晶の年齢は、数えでもまだ14歳でしょ。八家は内定しているけど、書類上はまだ認められていないのよ」
「って事は、俺の家格は」
「書類上は無位のままって事。今なら、どの家格だって晶よりも高い。後見元の意向となったら、どうしても無視できない」
それは、後見と云う制度が抱えた、構造上の隙とも云えた。
親代わりと云うことは、暫定的に主家と認めたと云うことでもある。晶はこの時点、輪堂家ともう一家の陪臣として、責任を果たす義務があるのだ。
「本来なら、八家当主であるお父さまの意向が優先されるんだけど、私の縁談騒ぎで身動きが取れてないの。お母さまが乗り気だから、余計にややこしくなっているみたい」
「つまり、もう1家とやらが、俺の主家って扱いになるのか」
咲の無言の肯定を受けて、漸く晶は事の重大さを理解した。
輪堂家以外のその1家の意向を、晶は決して無視することはできない。
それはつまり、八家を凌駕する戦力を、その家門は好きにできると云う事だ。
「どの家門か、判っているのか?」
「輪堂家は沓名ヶ原の怪異の後に書類を通したんだけど、その家門はその前に提出しているの。――憶えている?」
「いや」
窺うような咲の視線に、それでも晶に思い当たる節は無い。
頭を振る少年の仕草を予想していたのか、咲も首肯を返すだけ。
仕方は無い、あの時は誰もが忙しかった。
向こうにしても、ただの善意でしかその書類を提出していなかっただろう。
――そう願い出た、咲自身も忘れていた程なのだから。
「晶と初めて逢った日の事。阿僧祇の小父さまに、晶くんの推薦をしたでしょ」
「――ああ!」
それは、晶が己を知る総ての発端となった、神学校への進学を巡る話であった。それに必要となるのは、氏子籤祇と華族の後見だ。
その書類を用意して、晶が直ぐにでも動けるように手配してくれていたのが。
「阿僧祇家が、晶くんのもう片方の後見なのよ」
それは有り難く、――そして、手掛かりが振り出しに戻った事実をも意味していた。
何時も読んでいただき、ありがとうございます。
申し訳ございません。
誠に勝手ではございますが、来週の更新を休ませていただきます。
2月と云うことを忘れていました。
必死に書類を準備せねばなりません。、先延ばしにしていたツケですね。
去年も同じ事をしたような。……いや、考えるのを止めよう。
思い当たる方々も、共に乗り切りましょう。
それでは、次の更新も宜しくお願いします。





