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奴隷

 ――くさい。……嫌いなにおいがする。

 朝起きて一番初めに抱いた感情は『不快』。昨日も、今日も、明日もずっと。

「いつまで寝てやがるっ! さっさと羊の世話をしろガキ!」

 なにも言い返さない。言い返せないんじゃない。無駄なことをしないだけだ。

「ったく……使えねぇ奴隷だ。たまったもんじゃねぇよ」

 愚痴を溢しながら男が馬小屋から消えると、カルルはもそもそと起き上がって背筋を伸ばした。

 そして、ため息。

 家畜の糞尿の臭いが染み付いた寝床が、今度は仕事場になる。

 仕事場と言っても、給金を貰って稼いでいるわけではない。馬車馬のように使われ、怒鳴られ、腹を蹴られ、いつしか夜になっている。

 好きでこんなところに居るわけではない。この村は人さらいに遭った子供が連れてこられ、様々な用途の奴隷として取引されてから使役される。

 そして自分と同じような境遇の者は皆、目が死んでいる。最初はなんとか脱出しようと頑張るのだが、口数が減り、次第に表情が消えていき、瞳から光が失われて虚ろな目をするようになっていく。

 自我を失って本当に家畜と同じになる者。悲観して泣きながら体中を噛んで死のうとする者。

 今では見ただけで、その子供があとどれくらいで諦めるかがわかるようになっていた。

 誘拐されて七年も生き長らえた奴隷は初めてだと、誰かが話しているのを聞いた。

 きっと、自分は運が良かったのだ。

 すごく嫌なことをされても、その気持ちを和らげてくれる『拠り所』が自分にはあった。

 それのおかげでどんなに辛くても歯を食いしばることが出来た。

 このオカリナを胸に抱くだけで、思い出が嫌なものをひと時だけ忘れさせてくれる。

 吹くと持っているのが知られるから、毎晩指だけ動かしたりして思い出に浸った。

 名前も知らない少女の笑顔。

 お互いに吹きあっては笑いあった記憶。

 それだけがカルルを認めてくれた。どんなに軽蔑されても、それがあったから聞き流すことができた。

 その夜は珍しく、酒に酔った家の主人が鼻歌を歌いながら馬小屋にやってきた。

 ろれつが悪く言っていることは半分ほどしか理解できなかったが、どうやらこの家の奴隷は長持ちだから買い替える金がかからなくて羨ましいな、と誰かに言われたそうだ。それと酒の酔いも相まってか「褒めてやろう」などということらしかった。

 ……なんとくだらない。

 最初はあまりの馬鹿馬鹿しさに、呆気に取られて舌の回らない男の話を聞いていた。

だが、ふと気づく。そして短い葛藤のあとに覚悟を決めた。 

 カルルは立ち上がると両手を繋ぐ枷の鎖を男の首に巻きつけ、交差させながら思い切り締め上げた。 男の反応は鈍く、思ってもみなかったほどに非力だった。

 ろくに体を動かすことがなく、よく肥えた首の肉に錆を擦りつけながら鎖が深く巻き付く。

「あ……やめろ、やめ……おっ……やめぇぁ――」

 あのふんぞり返って大きく見えていた奴が、実際は自分よりチビの禿げ頭でしかなかった。

 ――こんな奴に……っ!!

 自分の両手首を背負い込み、肩越しに力任せに引き上げる。

 カルルが本気を出しきるまでの間、気持ちの悪い静寂があった。

 そして、蚊の鳴くような断末魔を耳元で聞くと、腐った木の枝が折れるような感触を得たのだった。



「――っ!」

 勢い良く体を起こし、隣にいた誰かに掴みかかっていた。

「はあっ……はあっ……!」

 ようやく自分が寝惚けていたことを理解してアカシアの体から手を離した。抜きかけた短剣を収めると彼女は言った。

「かなり、うなされていたぞ。怖い夢を見たんだな」

「夢……? ……いや、……夢じゃない……」

「どうした?」

「…………」

 忘れることはできるのだろうか。

 今までに受けた苦痛はそのうちに薄れていくだろう。だが、一線を越えた事実は決して消えることはなく、記憶の付箋として残り続ける。

「大丈夫だ。何も怖いことなどないぞ」

 頭を優しく撫でられた。

「ところで。……君に聞きたいことがある」

 ずい、と顔を寄せられて思わず身構える。落ち着いてきた呼吸が別の意味で乱れそうになる。

「ハロッサ、という町を知っているか?」

「――! …………」

 知らないわけがない。七年もの苦痛な歳月をそこで過ごしたのだから。

 どんな顔をすればいいのか、そして自分は今どんな顔をしていたのか。悲しそうなアカシアの表情に申し訳ない気持ちが溢れてくる。

「……そうか。やはり、そういうことか」

 推測が正しかった、とアカシアは声を落とす。

「君が気を失って、介抱しようとして見つけてしまった。その手首の跡は……見覚えがある」

「…………」

 自分の手首を目でなぞった。外してから間もない鉄の枷の跡はまだはっきりと焼き付いたように赤く痣として残っている。

「君が都へ急ぐ状況も理解した。……だからこそ、頼む。君に降りかかる火の粉は私がすべて払う。だから」

「――わかりました」

「……ん?」

「いいですよ。もう、おまかせします」

「カルル……?」

 アカシアに背を向け、荷馬車から降りて夜の草原のしじまの向こうを見据える。

 ハロッサから逃げ出したあたりから、薄々わかっていた。

 都に帰ったところで、思い出を取り返すことなど出来はしない。ましてや、あの時の少女との再開など夢に妄想もいいところ。

 自分が木の枝で叩かれていた間に、少女は様々な経験をして喜怒哀楽を育み、素敵な女性になったのだろう。

 あのひと時の幸福感を与えてくれた笑顔すら、実はもうおぼろげにしか思い出せない。


「…………?」


 オカリナの音色がして、ふり返った。

 粗末な荷馬車の上、月明かりに照らされながらオカリナを吹いている者がいる。

 それは彼女しかありえないのだが……そうではない、この吹き方を自分は知っているのだ。

 ――いや、それ以前にこの旋律は……。

 一息分ほどの演奏が終わると、彼女はオカリナを唇から離して呟いた。

「……不思議な感覚だ。すっかり忘れていたと思っていたのに、指が憶えている。耳が思い出して、また次の音が頭に浮かんでくる。とても心地が良い」

 巧いか下手かではない。

 その短い演奏にカルルは涙が溢れていた。

「ああ、……すまんな、話の途中に。懐かしくてつい、手に取ってしまった。――って、おい、どうした?」

 鼻声になるのが嫌で、黙って首を横に振る。

「大事な物だったのか……。悪かった」

「違うんです、そうじゃない……」

「では、どうしたと言うんだ? なぜ泣いている」

「あなたは……その曲をどこで?」

「――曲? あ、ああ。今のはな? 私が幼いころに、ある少年から教わった曲なんだ」

 ぐっ、と胸が詰まる。

 そんなまさか。

「変な話をするが……私は戦災孤児でな。両親ともに失って、王都の孤児院で暮らしていたんだ。いつも一人で過ごしているような子供だったよ。同じくらいの年の子ともあまり遊ばないで、いつも形見のオカリナを吹いていたんだ」

 戦災孤児。

 王都の孤児院。

 カルルにも懐かしい言葉だった。

 夜中にトイレに起き出して、部屋に戻る途中でさらわれるまでは、カルルもそこで暮らしていた記憶がある。

「それで、私のことをじっと見つめている子供がいたんだ。新しく入ってきた子で、話を聞くとその子も私と似たような境遇だった」

 その時はきっと、さぞかしモノ欲しそうな目で彼女のことを見ていたのだろう。オカリナを胸に抱えて警戒された覚えがある。

「聞けばその子も母親がよくオカリナを吹いてくれたらしい。その時にあの子から教わった子守唄、それがいま、私が吹いた曲なんだ」

「……その子とは、それから……?」

「ん、ああ……居なくなったんだ。ある日突然、ぱったりと。迷子では……ないだろうな」

「じゃあ、その子の名前は」

「いや……。思えばなぜ聞かなかったのだろうか。あんなに仲良く……していたのに」

 手に持った白い陶製のオカリナを見つめ、アカシアは思い返した。

 そうだ、あの時は貸したまま別れて、それであの子は居なくなってしまった。あの時は形見を盗まれたと大泣きしたが……。

 そういえばあのオカリナによく似ているなと思い、何となくそれを裏返してみた。

 すると、見覚えのある一対の剣の紋章に目を奪われた。

 とある貴族が戦での功労に剣の誉れとして王から授かった名誉ある家紋だ。

「…………………………え?」

 それを見た瞬間、走馬灯のように記憶の断片が次々と甦った。

 転んで危うく割ってしまいかけた時の傷や、それを隠そうと不器用な母が塗ってくれた、少し色の違う白色。

 そして確信した。

「これは……」

 間違いない。

 これはあの時に失くしたオカリナだ。

「それをあの子に返すことだけを考えて、今日までなんとか生きてこれました」

「カルル……」

 信じられないという顔でこちらを見つめる騎士は、あの立派な出で立ちを忘れてしまうほどに幼く見えた。その姿に当時の記憶が重なり、再び涙が滲んできた。

「それはお返しします。何度助けてもらったかわからないけど……もう、無くても大丈夫だから」

「そうか……君はあの時の……あの時の…………そうなんだな……?」

 頷く。

 言葉はなかった。口を開くよりも早く抱きしめられ、言葉が言葉にならなかった。

 肩の後ろから声がする。目の前には暗い草原が広がっているだけ。何も見えないが、とても温かく心が安らぐ声だった。

「良かった……生きていた……生きてた……」

「……死んだと思ってましたか」

 そう言うと、アカシアは肩を掴んで向き合う姿勢で言った。

「ばか、あんな小さな子供が急にいなくなったりしたら……、そう思ってしまうだろう……ばか」

「そんなに泣かれると……僕も困ります」

「……感情に我慢はしない主義なんでな」

 鼻をすすりながら開き直っても様にはならない、とは言わずにおいた。

「そうか……うん、良かった。よし、――寝ようか」

「え?」

 背を向けてひとりで荷馬車にもどると、アカシアは半分だけふり向いてバツの悪そうな顔で返事をしてきた。

「いやはやなんというか……恥ずかしくてな。人前で泣いたことなんて本当に孤児院以来なのだ。寝て、今のは忘れてくれるとありがたい」

 思ったことをすぐに口に出す――と言えばまあアレだが、ここまで素直に感情を晒す人も珍しいのではないだろうか。案外、中身は昔のままなのかもしれない。

「なんだか想像してたのと違うなぁ……」

 しかし、思い出は思い出のまま美しくあればいいではないか。 

 運命は数奇なものと言う。その一端と納得すればそれまでのこと。

 親を失ったこと。誘拐されて売り飛ばされたこと。人を……殺めたこと。

 ならば思い出の少女が狼を切り伏せる騎士になっていたくらい、なんということはない。

 と、納得することにした。

「何の話だ?」

「いえ。なんでも。それより星が……綺麗ですよ」

「ん? ――ああ、そうだな。まるで降ってくるようだ。すこし怖いくらいに」

「…………」

「くあ……おやすみ」

「おやすみなさい」

 しかし残念なことにカルルにまどろみが訪れたころにはすでに空は白み始めていて、疲れもろくに取れていないと不機嫌に唸るアカシアには寝惚けて顔に蹴りを入れられた。

 気まずそうに荷台で剣の手入れをする騎士という新しい荷物を乗せた荷馬車は向きを反転させ、新しい旅にカルルは手綱を打ったのだった。


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