草原の出会い
緑の海。……と言うそうだ。実際の海を見たことはない。
見渡す限り、視界には草原がどこまでも広がっている。
肌を焼く日差しは暑いくらいだが、風がなんとも心地よく吹いている。秋は近いらしい。
緑色をかき分けた目の前の一本道は朝からずっと変わらないが、景色の中で太陽だけが段々と低くなってきていた。
自分がいなくなったことで、今ごろ村は大騒ぎだろう。
だが、もうそんなことはどうでもいい。あんな村に縛られることがなくなり、ようやく自分は自由を手に入れたのだから。
ふと、空を仰ぐ。
青と白だけの空を、こんなにも美しく綺麗だと感じたのはいつ振りだろうか。
その天井が赤みを帯び、太陽が地平の境に沈んでからはあっという間に気温が下がり始めた。
――そろそろ夜の準備をしたほうがいいのだろう。
なにぶん旅は不慣れなのだ。漠然とした不安があってなかなか気楽にはなれない。
こんな時にはどうする、程度の知識があるだけで、具体的な経験というものはまったくない。
「冷えこんできたな……」
苦労してようやく火がついたころには、もう空と雲の判別が怪しいくらいにまで暗くなってしまっていた。
「これだけだもんな……。さすがに心もとないよなぁ」
一頭の馬が余裕を持って引ける大きさの荷馬車。これにカルルのすべての持ち物が積み込まれている。
干した肉とライ麦の黒パンを齧って腹を満すと、カルルは毛布を掴んで荷台に上がり、寝転がって星空と向きあった。
「綺麗だ……」
それ以上の言葉はなく、そういえばと体を半分起こした。
「火、大丈夫かな。離れてるから燃え移りはしないと思うけど……大丈夫だよね」
焚火の火は獣除けになると聞いたことがある。薪はこの草原では貴重だが、なるべく火は絶やさないほうがいいだろう。
また横になって目を閉じた。すると耳が冴えるのか、風の音も普段より聞き分けられるような気がした。
「…………?」
今のは何の音だ?
風の音にまぎれて一瞬、何かを感じた。音ではなかったのかもしれない。
再び体を起こし、月明かりしかない薄暗い草原を見渡した。
「……気のせい、かな」
結局何も見つけられず、やがて睡魔に負けてカルルは深い眠りに就いた。
「…………?」
今の音はなんだろうか。
さっきも同じようなことがあった気がする。
だが、確かに今しがた、獣の鳴き声のような……。
――強く砂利を踏む足音。
次いで、獣の悲鳴。
「――っ!」
カルルは跳ね起き、周りを見た。
誰かが、誰かの背中が見える。暗くてよく見えないが、何をしているのかはすぐにわかった。
ようやく目が暗闇に慣れてくると、三頭の狼がそこにいた。頭を低くし、唸り声をあげてその人物を遠巻きに威嚇している。
自分なら早々に腰が抜けてしまう状況なのだが、その後姿の人物は臆することなく凛と拳を構えていた。怖くはないのだろうか。
そして、あっという間もなく一頭の狼が飛び掛って――と思った時には、すでに引いていた拳でその鼻先を迎え撃っていた。
――すごい。
思わず見惚れていた。
しかし次の瞬間に別の狼が襲い掛かり、その者の太ももに獣牙を喰いこませた。
「――っ」
好機とばかりにもう一頭も続き、わき腹にぶらさがるように食らいつく。
悲痛な声に我に返ったカルルは、何か武器になりそうなものはと荷台を見渡し、それを見つけた。
長剣。
護身にとカルルが前の家から持ち出したそれ。未だろくに素振りすらしたことがなかった。
……だからと言って、いざ実戦となるとこんなにも重く感じられるのだろうか。
これを持って野生の狼に挑み、その毛皮を切り裂き、肉を断つ。
怯えているのが自分でもよくわかる。
怖い。狼は怖い。そんなのと命を懸けて戦うのはもっと怖い。自分はなんと臆病なのだ。このままでは……。
「――――っ!!」
その結果にこそ、カルルは一番恐怖を覚えた。
「……う、……わああああぁぁぁっ!!」
暗闇で鈍く光る長剣を握り締め、荷台を飛び下り、地面を蹴った。そしてすぐにその瞬間は訪れた。
突然の雄叫びに狼はカルルの存在に気づいたが、獣の性か簡単には咬みついた顎を離そうとはしなかった。獣の黄色い目がぎょろりと彼を睨み付けるが、それに怯むほどの思考の余裕はもう残っていない。
――たとえ剣としては使えなくても……!
ドゴッ、というどちらかといえば打撃のそれに近い音のあと、足に咬みついていた狼が白目をむいて倒れた。
まさか本当に倒せるとは、とカルルが驚いている数秒の隙にもう一頭の狼は離れてこちらの様子を伺っていた。
「……っ、君……」
「え?」
よく通る、澄んだ声だった。それ以上の感想を述べることに意味はなく、狼に目を向けたまま返事をした。
「だ……大丈夫ですか?」
大丈夫なわけがないだろう、とわかっていたがそう言うしかなかった。
カルルから詰めれば二秒か、狼からなら一瞬で詰められるであろう間合い。
不意打ちならばともかく、まともにやりあって勝てる可能性などない。
「くそ……」
「剣を――」
「え?」
「剣を。私に」
その騎士はいつの間に隣に立っていたのだろう。
ちょうどその時、すぅと月の光が雲の隙間から闇の中へと注いだ。
その美しさに子供のころに見た天使が光の中から降りてくる絵を思い出す。
淡い月光に映える長い金色の髪。短く切り詰められた甲冑は傷こそ少ないが使い込まれた歴戦の貫禄がある。そしてその凛とした翡翠色の双眸。……美しい横顔だった。
思わず息を呑んだカルルは女性の言葉を忘れてしまっていた。
「剣を。私にまかせてくれ。きっとあれを倒して見せよう」
我に返ったカルルは狼に注意をむけたまま慎重に剣を渡した。
まともに使われたことなどない真新しい剣を見つめて、一言。
「――少年。逃げることを恐れた臆病者のことを、人は英雄と呼ぶのだ」
その時、弾けるように鋭く――狼が跳び上がった。
一瞬の出来事だった。
薄いマントを翻らせ、まるで舞踏でも踏むかのように騎士はそれを真っ二つに斬り伏せていた。
「……私は成り損ねたがな」