第23話 潰された平穏と濡れ衣
南東アジア案件の成功に沸いていた菊池貿易の社内に、突如として冷たい亀裂が走ったのは、ある雨の降る木曜日の朝のことだった。
「菊池社長! 大変です、臨時取締役会の招集通知が全役に提示されました! 発起人は黒川専務です!」
社長室のドアが勢いよく開かれ、顔を蒼白にした経営企画部の若手幹部が飛び込んできた。
美月は洗練された端末からゆっくりと顔を上げ、不快感を露わにして眉をひそめた。
「臨時取締役会……? 黒川専務がどのような権限と名目でそんなものを招集したというのですか? 今期の業績は過去最高を記録しているはずですわ」
「それが……『前会長・菊池政臣氏の時代から続く海外ダミー会社を通じた不正資金流出、ならびに現社長・菊池美月氏への裏金還流疑惑に関する緊急監査請求』……と記載されております!」
「……なっ……!?」
美月の手に握られていたペンが、カタリとデスクの上に落ちた。
頭を鈍器で殴られたような衝撃。一瞬、息の仕方を忘れるほどの激しい動揺が美月の全身を駆け抜けた。
(おじい様が……不正資金流出……? そして私に裏金……!? 冗談じゃないわ、そんな事実、天地がひっくり返ってもあるはずがない!)
「黒川専務はすでにコンプライアンス委員会および主要な社外取締役を巻き込んでおり、本日午後の取締役会で社長の職務執行停止動議を提出する構えです!」
「……くっ……!」
美月は固く拳を握りしめ、震える唇を噛み締めた。
南東アジア案件での成功を打ち消し、自分を社長の座から引きずり下ろすための、黒川たちのなりふり構わぬ卑劣な罠。しかも、亡き祖父の誇りと名誉まで泥で汚すようなやり方に、美月の胸の中で激しい怒りと不条理への憤義が燃え上がった。
(許さない……。おじい様の名誉を傷つけ、私からこの会社を奪おうなんて……絶対に許さないわ!)
「広報部と法務チームを大至急集めなさい。黒川専務の主張する『過去の資金流出データ』の出処を特定し、捏造であることを今すぐ証明します!」
美月は凛とした声を張り上げ、必死に自分を鼓舞した。
だが――その渦中の部屋の隅で、ミカヅキは静かに応接ソファから立ち上がっていた。
彼はいつもと変わらぬ静謐な足取りでサイドボードへ向かうと、手際よくティーポットでお湯を沸かし始めた。やがて、小さな湯気を立てるカップが、トレイに乗せられて美月のデスクへと置かれる。
トントン。
静かな音とともに広がったのは、すっきりとしたタイムとラベンダーが混ざり合った、どこか澄み渡るハーブの香りだった。
「……取り乱せば、相手の思うツボだ。怒りは判断力を濁らせる。まずはこの茶を飲み、呼吸を整えるといい」
ミカヅキの、深海のように低く静かな声。
だが、極限の混乱と焦燥の中にいた美月にとって、その落ち着き払った態度は火に油を注ぐものでしかなかった。
「三日月さん……! あなた、いま自分が置かれている状況が分かっているのですか!?」
美月は立ち上がり、机を叩いてミカヅキを睨みつけた。
「おじい様の名誉が汚されようとしているのですよ! 私が裏金を受け取っていたなんて、ありもしない濡れ衣を着せられて会社を追われようとしているのですよ!? なのにあなたは何ですか……! のんきにお茶なんて淹れて……本当に能天気で、何の役にも立たない人!」
美月の瞳には、怒りと悔しさによる微かな涙が浮かんでいた。
一人で闘わなければならないプレッシャー。祖父の遺した会社を守らなければならない重圧。そのすべてが彼女の心を押し潰そうとしていた。
「お願いですから、私の視界から消えてくださらない? あなたのような『置物』に構っている余裕は一秒もありませんの!」
美月は出されたハーブティーのカップを強く押し返し、二度と彼を見ようともせず、手元の端末へとしがみついた。
ミカヅキは、刃のように鋭い美月の拒絶を正面から受け止めた。
彼の深い藍色の瞳には、悲しみも怒りも浮かんでいない。ただ、静かな夜の暗闇のような深遠な光だけが宿っていた。
「……そうか。だが、君の手が及ばぬ闇もある」
「なんですって……?」
「何でもない。……無理はするな、美月さん」
ミカヅキは短く告げると、それ以上一言も発することなく、静かに社長室のドアを開けて出て行った。
残された美月は、激しい息を吐きながら、誰もいなくなった社長室で一人、必死に財務データの精査に没頭した。
自分が潔白であることを証明しなければならない。おじい様の名誉を守らなければならない。自力で、自分の力だけで、この陰謀を打ち砕くのだと――。
しかし、美月は知らなかった。
黒川専務たちが用意した「政臣前会長の不透明な口座」は、精巧に作られた捏造データなどではなく、海外の暗黒街の銀行口座を偽造して作られた、個人の力では追跡不可能なほど複雑な国際工作であったことを。
法務チームや公認会計士の調査程度では、黒川たちが仕掛けた仕込みを看破することなど到底不可能であったということを。
――そして、社長室を出たミカヅキの足取り。
彼はエレベーターに乗り込むと、迷いのない手つきで地下駐車場へと向かった。
黒のロングコートを羽織り、暗闇の広がる駐車場へと足を踏み出した彼の表情からは、昼間の「置物」としての温厚さは完全に消え去っていた。そこにいたのは、千年の刻を生き、闇の底で政臣との約定を守り続けてきた、冷徹な保護者の顔であった。
「……政臣。美月さんに泥を塗ろうとする愚か者が、また現れた」
ミカヅキは懐から、漆黒の古いスマートフォンを取り出した。画面には、黒川専務が都内の料亭で海外の裏社会の人間と接触している映像と、資金ルートの解析データが映し出されていた。
「裏口座の真の持ち主、そして黒川が蓄えてきた裏金の全容……すべて今夜中に暴き出す」
ミカヅキの眼光が、冷ややかな藍色の炎のように怪しく揺らめく。
「美月さん。君はただ、明日も誇り高く社長の椅子に座っていればいい。君の光を濁す悪意は……私が残らず引き裂いて捨てる」
雨の降る東京の夜の闇の中へ、ミカヅキの影が静かに溶けていく。
美月の預かり知らぬ場所で、会社の命運と祖父の名誉を賭けた、本当の暗闘が始まろうとしていた。




