第22話 躍進の陰と忍び寄る不穏
南東アジアの大規模物流ルート再編プロジェクト――その運命を左右する現地企業との歴史的な本調印式から数日が経過した。
菊池貿易の社内は、かつてないほどの活気と熱気に包まれていた。主要な経済紙やビジネスニュースのトップ記事には、弱冠二十代半ばにして巨大プロジェクトを堂々と成功に導いた新社長・菊池美月の写真が躍り、株価は連日で年初来高値を更新していた。
「菊池社長、本日の取締役会における南東アジア案件の最終進捗報告、各役員からも異論なしとの全会一致で承認されました。社内の若手社員たちの士気も一段と上がっております」
社長室で報告を行う経営企画部の幹部は、誇らしげに顔をほころばせていた。
デスクの前に腰掛ける美月は、スマートな端末に映し出された業績グラフを見つめながら、凛とした表情で優雅に頷いた。
「ありがとうございます。ですが、ここからが本当のスタートです。現地での物流拠点の整備と、アセアン各国への配送網の最適化を急いで進めてください」
「畏まりました! すぐに各部へ指示を出します!」
幹部が晴れやかな表情で退出していくと、美月はそっと背もたれに体を預け、深く息を吐き出した。
その胸の中には、言葉にできないほどの大きな達成感と自負が満ち溢れていた。
(おじい様……見ているかしら。私はやり遂げたわ。社内の誰にも文句を言わせない成果を、自分一人の力で出してみせたのよ)
祖父が亡くなってからというもの、彼女の肩に圧しかかっていた重圧が、少しだけ軽くなったような気がしていた。自分は一人で立てる。亡き祖父の遺志を受け継ぎ、この巨大な企業を先頭に立って引っ張っていく能力が、自分には間違いなく備わっているのだと確信していた。
だが――そんな美月の輝かしい心地よさを冷ますように、社長室の隅のソファから、静かなページをめくる音が聞こえた。
三日月朔夜
彼は今日も完璧なダークスーツに身を包み、変わらぬ静謐な佇まいで古い洋書に目を落としていた。相変わらず社長室の「置物」としてそこに存在し、会社の躍進にも、社員たちの熱狂にも一切関心を示さずに佇んでいる。
美月はチラリと彼に冷ややかな視線を送ると、小さく鼻を鳴らした。
(調印式の時もそうだったけれど……この人は本当に、最初から最後まで何もしなかったわね。会社を守るための『盾』だなんて、本当におじい様の見誤りだったんだわ)
美月にとって、ミカヅキへの評価は完全に固まっていた。
顔と立ち居振る舞いだけは完璧だが、経営の実務には一切関与できず、ただ祖父の遺言に守られて菊池家に居座っているだけの不気味で無能な男。
「三日月さん」
美月の冷ややかな呼びかけに、ミカヅキは静かに本から目を上げ、どこまでも澄んだ藍色の瞳を美月へと向けた。
「なんだね、美月さん」
「南東アジア案件の第一段階は無事に完了いたしました。ご覧の通り、会社は過去最高の業績に向かって順調に動いております。……あなたに手助けしていただくような危機など、最初からどこにもありませんでしたわ」
美月の言葉には、隠しきれない勝ち誇ったような響きが含まれていた。自分一人で会社を守り抜いたのだという自負を、彼に見せつけてやりたかったのだ。
対するミカヅキは、眉ひとつ動かさなかった。表情を変えることもなく、美月の誇らしげな視線を静かに受け止めるだけだった。
「……そうか。君が自らの手で成果を上げたと思えているのなら、それに越したことはない」
「強がりをお言いにならないで。あなたが毎日、そこで古い本を読んでいるだけの間に、私は寝る間も惜しんで働いていたのですから」
美月は吐き捨てるように言い放つと、手元の作業へと意識を戻した。
ミカヅキは反論することもなく、静かに立ち上がると、いつものようにガラスポットでお湯を沸かし始めた。やがて、小さな湯気を立てるカップが、トレイに乗せられて美月のデスクへと運ばれてくる。
トントン、と置かれたカップから立ち上ったのは、レモンバームと薄荷が爽やかに香る、どこか気持ちを落ち着かせるハーブの香りだった。
「……勝利に酔い、足元をすくわれないことだ。光が強くなればなるほど、影もまた濃くなる」
ミカヅキの低く静かな声。
美月は出されたカップを見つめ、うんざりしたように眉をひそめた。
「またハーブティーですの? 毎度毎度、要らないと言っているでしょう。それに……『足元をすくわれる』なんて、縁起でもない言い方はやめてくださる?」
「助言だ。大木を倒すのは巨木ではなく、根を食い荒らす小さな虫なのだから」
ミカヅキはそれだけ言い残すと、カップを置いたまま、引き下がって再びソファへと戻っていった。
美月は差し出された温かいハーブティーを意地でも口にしようとはせず、冷めていくカップから視線を逸らした。
(なによ……自分の存在感を示したいからって、人が成功した途端に不吉なことばかり言って……。本当に嫌な人)
美月は苛立ちを打ち消すように、画面上のデータに没頭した。
しかし――ミカヅキの忠告は、決して嫌がらせなどではなかった。
――同じ頃。都内高級料亭の密室。
薄暗い室内には、重苦しい沈黙と、焦燥感に満ちた煙草の煙が立ち込めていた。
集まっていたのは、菊池貿易の専務である黒川をはじめとする、社内の反乱分子である重役たち数名だった。
「クソッ……! あの小娘め、まさか本当に現地企業との契約を完遂させるとは……!」
黒川専務は激しい怒りに顔を歪め、湯呑みをテーブルに叩きつけた。
本来であれば、南東アジア案件の調印式直前で罠の覚書を突きつけさせ、菊池貿易に巨額の負債を背負わせるはずだった。そして混乱に陥った会社を救うという名目で美月を社長の座から引き降ろし、黒川たちが実権を握る手筈になっていたのだ。
しかし、なぜか土壇場で相手側が裏切り、完璧な条件で美月に協力してしまった。
「黒川専務、どうするおつもりですか! このままでは新規ルートが軌道に乗り、あの娘の社内での地位は不動のものになってしまいますぞ!」
「我々が今まで裏で蓄えてきた裏金や、関連会社との不透明な取引の存在が発覚するのも時間の問題です!」
動揺を隠せない重役たちに対し、黒川は目を血走らせながら獰猛な笑みを浮かべた。
「黙れ! まだ終わったわけではない……! 表のビジネスで崩せないなら、別の手を使うまでだ」
黒川は懐から一冊の古いファイルを叩きつけた。そこには、菊池貿易の過去の海外取引における不透明な資金移動の記録と、政臣会長の時代から続く「隠された口座」に関する情報が記されていた。
「美月が無傷でいられるのも今のうちだ。政臣の遺した『過去の闇』を暴き、あいつを背任と脱税の容疑で社会的に抹殺してやる。あの小娘に、菊池家の重みに耐えられるかな……」
黒川たちの醜い野心と陰謀が、美月のあずかり知らぬところで、再び黒く蠢き始めていた。
その夜。
菊池邸の離れ。
自室で明日の会議資料を読み込んでいた美月は、ふと喉の渇きを覚え、階下へと降りていった。
離れの静かなキッチンを通った時、ふと裏庭へ続く勝手口のドアが微かに開いているのに気づいた。
(……え? 風かしら……?)
不審に思った美月が足音を殺して勝手口から外を覗き込むと、月明かりが照らす小さな庭の隅に、人影があった。
ミカヅキだった。
彼は月光を背に浴びながら、庭の一角に並べられた幾つもの小さなプランターの前に、静かに佇んでいた。
彼の長くて美しい指先が、プランターに植えられた緑豊かなハーブの葉を、まるで愛しいものに触れるかのように優しく撫でている。ミカヅキはそこで、ミントやカモミール、レモンバームといった様々なハーブを自らの手で丁寧に育て、土の湿り気や葉の生育具合を一つひとつ確認していたのだ。
(……なにをしているの、あの人は……?)
美月は物陰からその光景を呆然と見つめた。
昼間は社長室で何もしない「置物」のように冷たく澄ましている男が、夜更けの庭で、一人静かに植物の手入れをしている。その横顔は、どこか途途方なく深く、悲しい孤独を纏っているように見えた。
その時、ミカヅキがふっと手をとめ、振り返ることもなく静かに呟いた。
「……夜風は冷える。そんな薄着で立っていると、また明日の朝に頭痛がするぞ、美月さん」
「っ……! 盗み見していたわけではありませんわ!」
美月はハッとして身を引くと、慌てて気丈な態度を装って勝手口の前に立った。
「あなたがこんな夜更けにコソコソと何をしているのか不審に思っただけです! ……こんなところで植物なんて育てて、一体何のおつもりなんですの?」
ミカヅキはゆっくりと立ち上がると、月光を浴びながら美月の方へと歩み寄ってきた。その藍色の瞳には、一切の動揺も浮かんでいない。
「何でもない。ただの趣味だ」
「趣味……? あなたのような冷酷で得体の知れない人が、ハーブの栽培なんて……本当に理解できませんわ」
美月はフンと胸を張ると、彼から視線の逸らした。
「明日も朝から重要な役員会議がありますの。あなたの不気味な趣味に付き合っている暇はありませんから、失礼します」
美月は踵を返し、早足で自室へと戻っていった。
一人残された暗がりの中、ミカヅキは静かに自分の掌を見つめた。
プランターで育つハーブたちは、美月の日々の疲労、ストレス、目の下の隈、そして微かな体調の変化に合わせてブレンドを変えるために、彼が毎日欠かさず手入れをしてきたものだった。
だが、それを彼女に知られる必要はない。
感謝されることも、夫として認められることも、最初から望んではいなかった。
「……それでいい」
ミカヅキは夜空に浮かぶ冷たい月を見上げ、ポツリと呟いた。
「君はただ、自分自身の力で光の中を歩み続ければいい。闇の底に蠢く毒は……すべて私が喰らい尽くす」
黒川専務たちが企む新たな陰謀の影。
何も知らずに己の誇りを胸に突き進む美月。
そして、一切の手柄を語らず、影の中から彼女を守り続けるミカヅキ。
静かな夜の闇の中で、新たな波乱の芽が静かに吹き出そうとしていた。




