第13話 時代の落日と遺言
三十年という時の流れは、ひとつの時代を静かに、けれど容赦なく塗り替えていった。
かつて日本中を覆っていたバブルの熱狂とその崩壊の残り香は過去の歴史となり、手のひらサイズのスマートフォンや薄型のディスプレイが当たり前のように溢れる時代となっていた。
東京湾の臨海部にそびえるビルの高層階。かつて三坪のプレハブ小屋から始まった「菊池貿易」は、いまやグローバルな総合流通企業としてその名を馳せ、多くの社員が洗練されたオフィスで忙しく立ち働いている。
だが、東京郊外の静かな小高い丘の上に佇む菊池家の古い邸宅だけは、時代の急速な移ろいを拒むかのように、変わらぬ静謐を保ち続けていた。
落ち葉が庭の苔を赤く染める秋の夕暮れ。
しんと静まり返った和室のベッドの上で、菊池政臣は深く、途切れ途切れの呼吸を繰り返していた。
かつて東京湾のコンテナヤードで泥にまみれ、不当な不条理と戦い抜いて会社を再起させた不屈の男も、いまや七十代半ばとなった。病魔によって痩せ細った肉体、白雪のように真っ白になった髪、落ち窪んだ目元。医療機器の電子音が、この男の命の残り時間がわずかであることを静かに告げている。
「……政臣」
静寂を破り、すっと枕元に人影が立った。
三十年前のあの日と、何一つとして変わらない姿。
傷一つない透明感のある肌、深い夜の闇を宿した藍色の瞳、そして仕立ての良いダークグレーのスーツを纏った青年――三日月朔夜。
彼だけが、この世界の時間から切り離されたように、三十年前のあの夕暮れのオフィスで交わした言葉のまま、そこに佇んでいた。
政臣は重い瞼をゆっくりと開け、落ち窪んだ瞳に穏やかな光を宿した。
「……来て、くれたか……三日月……」
「当たり前だ。お前がこの地上で命を燃やし尽くすその瞬間まで見届ける……そう約束しただろう」
三日月は静かな足取りでベッド脇に歩み寄り、そこに置かれた椅子に深く腰掛けた。
政臣は枯れ枝のように痩せた右手をゆっくりと持ち上げようとしたが、重力に逆らえずシーツの上に力なく落ちた。三日月はその手を取ることもなく、ただ静かに彼の老いた顔を見つめている。
「……早いものだな。お前とあの夜に出会ったことが、まるで昨日のことのようだ……」
「人間にとっては三十年など途方もない年月だろうが、私にとっては一瞬の微睡みに過ぎん」
「ふふ……相変わらず冷徹なことを言う……。だがな、三日月……この三十年、私は実に幸せだったよ。健一や仲間たちと会社を揺るぎないものにできた……」
政臣の途切れ途切れの声には、一片の後悔も存在しなかった。
自らの足で立ち上がり、血と汗を流して大切な絆を守り抜いた男だけが持つ、深く澄み切った満足感がそこにあった。
だが、政臣の表情にふと微かな陰りと、切実な苦悩の色が差した。
彼は胸の奥に押し込めてきた最後の願いを吐き出すように、かすれた声を絞り出した。
「……三日月……。最後にひとつだけ……私の一生で最後の……『頼み』を聞いてはくれないか」
三日月はかすかに眉をひそめた。
「頼み、だと? 政臣……お前はもう『3枚目の短冊』を使ってはいない。あの竹林でお前に渡した三枚のうち、二枚はお前が己の意志で使い切った。最後の三枚目は……お前自身が二度と奇跡に頼らぬと誓って、神棚の奥深くに封印したはずだ」
「ああ……そうだ。あの短冊の力には……もう頼らない。これは奇跡を願うものではなく……人間として、私の生涯を共にした『友人』としての……お願いだ」
政臣は落ち窪んだ瞳に、最後の生命の灯火のような強い光を宿らせた。
「……私の孫娘……あの子が独り立ちするまで、夫となって支えてはくれないか」
「……夫となって支える、だと?」
三日月の表情に珍しく驚きが走った。政臣は苦しい息の中で頷いた。
「あの子は……幼い頃に両親を事故で亡くし、私が手塩にかけるように育ててきた……。まっすぐで優しく……だが、どこか不器用で傷つきやすい。私が逝けば……あの子はこの広い世界で、本当の意味で一人きりになってしまう……」
政臣の痩せた手が、シーツの上でぎゅっと固く握られた。
「会社も引き継ぎの詳細も……すべては顧問弁護士に預けてある。だが、形だけの遺産や役職などでは……群がる金の亡者や邪心を持った者たちからあの子を守りきれない。だから三日月……形だけでいい。あの子の夫となり、盾となり……あの子が自らの足で立ち、一人前の経営者として独り立ちするその日まで……そばで支えてやってほしいのだ……」
三日月は無言のまま、政臣の言葉を聞いていた。
部屋を満たす重苦しい静寂の中で、心電図の電子音がひときわ高く響く。
「不老の私に……人間の娘の夫になれと言うのか。なぜそこまであの子に執着する?」
「あの子は……私の魂の器だ……。私がこの世で生きた証そのものだからだ……。三日月……お願いだ……っ」
政臣の目から、一筋の涙が静かに頬を伝って枕へと落ちた。
それまで冷徹な仮面を崩さなかった三日月の瞳の奥で、かすかに藍色の光が大きく揺れた。
千年の孤独を生き、人間の生滅をただの泡沫として眺めてきた男の胸に、三十年間ともに過ごした絆という名の確かな重みが押し寄せていた。
三日月は深く静かな息を吐き出すと、ゆっくりと立ち上がった。
「……良いだろう、政臣」
三日月の澄んだ声が、静まり返った室内に深く染み渡っていく。
「お前が己の命をかけて築いた信頼と、私に捧げた三十年の友誼に免じて……その約束、引き受けよう。お前の孫娘が独り立ちするその日まで、私が夫としてその身と会社を護り抜く」
「……本当か……! ありがとう……三日月……っ……!」
「だが、勘違いするな。私が差し伸べるのは生温い助け舟ではない。その子自身が試練を乗り越えるための『糧』となるだけだ」
「ああ……それでいい……あの子なら……きっと乗り越えられる……」
政臣の顔からすべての緊張と苦痛が消え去り、安らかな、この上なく穏やかな笑みが浮かんだ。
窓の外では、茜色の夕暮れがゆっくりと深い群青の夜へと溶けていく。
薄れていく意識の中で、政臣は静かに目を閉じた。
ピー――……。
心電図の音が、永遠の平坦なフラット音へと変わっていく。
「……さらばだ、菊池政臣。地上での唯一の友人よ」
三日月朔夜は、息を引き取った男の穏やかな死に顔を見つめた後、静かに深々と一礼した。
不老の男と、有限な命を駆け抜けた人間。
三十年にわたる男たちの固い絆と友情のドラマは、ここにひとつの美しい終止符を打った。
そして物語は、残された誓いを果たすため――新たなる時代の主役、孫娘美月と三日月の物語へと受け継がれていく。
第2章 友人との出会いと約束<完>




