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月を喰む夜に、君を娶る  作者: 冬馬美沙
第2章 友人との出会いと約束
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第12話 月影の顧問

 東京湾を行き交う大型コンテナ船の汽笛が、曇り空の向こうで低く尾を引いていた。


 バブル経済の熱狂が虚妄のように弾け飛び、日本全体が重苦しい停滞の沼へと沈み込んでいた1990年代半ば。金融機関の貸しはがしや相次ぐ企業の破綻劇が連日のように紙面を賑わす過酷な大不況の中で、菊池政臣が率いる「菊池貿易」は、業界の誰もが目を疑うほどの目覚ましい躍進を遂げていた。


 東京臨海部に新設されたビルの七階。かつて湾岸のコンテナヤードにぽつんと置かれた三坪のプレハブ小屋から始まったその城は、いまや何十人もの社員が慌ただしく行き交う活気にあふれたオフィスとなっていた。


 カタカタと音を立てて絶え間なく打ち出されるファクス用紙、幾重にも重なる電子着信音、そして英語や東南アジア各国の言語が飛び交う国際電話のハスキーな音声。全国各地の志ある職人たちが精魂込めて切り出した高品質な木材や建材を、中間搾取を排した独自ルートで海外の成長企業へ直接届ける――その愚直なまでの信頼のビジネスモデルは、時勢の悪風を跳ね返し、強固な城壁となって会社を守り育んでいた。


 かつて政臣が失意の底にいた頃、冷淡に融資を打ち切った大手銀行の支店長が、いまや仕立てのいいスーツを着込み、汗を拭いながら頭を下げて追加融資の相談に訪れる。政臣はそのすべての書類に静かに目を通し、奢ることもなく、されど決してかつての屈辱を忘れることもなく、淡々と、しかし情熱を持って決裁の印を押していった。


 「社長、来期の東南アジア向け新規物流ラインの最終計画書です。北陸の港を経由する小口枠も、先方の承諾を得て二倍に拡大できました」


 専務の肩書がついた健一が、すっかり板についたスーツ姿で社長室へ入ってきた。荒削りだった職人の顔つきには経営者としての鋭い風格が加わっていたが、政臣を見るその瞳には、あの台風の夜から変わらない絶対の信頼が宿っていた。


 「よくやってくれた、健一。現地工場との連携も抜かりないな?」


「はい。親方たちも『菊池の顔を潰すような真似は絶対にせん』と、昼夜を問わず検品に当たってくれています。……それと、社長」


健一はそこでふと声を落とし、どこか緊張と、言葉にできない畏敬の混ざった複雑な面持ちでドアの向こうを振り返った。


「……『例のお方』がお見えです」


政臣は書類を繰る手を止め、ゆっくりと顔を上げた。


「通してくれ」


健一が丁寧に扉を開けると、そこへ静かな足取りで入ってきた一人の男がいた。


落ち着いたダークグレーの仕立ての良いスーツを纏い、人間離れした静寂と、息をのむほどに美しい気品を漂わせる青年――。

彼の名は三日月朔夜、あのミカヅキである。


数年前、あの嵐の夜に竹林の闇の中で出会った時と、何一つとして変わらない姿。人間なら誰しもが逃れられない歳月の刻印――目元の小皺も、肌の衰えも、時間の経過を示すあらゆる微細な変化すら、彼という存在だけを綺麗に避けて通り過ぎていた。


三日月朔夜は、表向きは「菊池貿易・特別顧問」という肩書で、月に一度か二度、予告もなくふらりとオフィスに姿を現すようになっていた。


社内では「元・大手商社の重鎮である海老沢の強い推薦によって招かれた、海外市場とリスク管理の伝説的な専門家」として説明されていた。だが、彼が気まぐれのように提示する市場の潮目の変化、あるいは海外の政情不安に対する予見は、恐ろしいほどの精度で的中した。


「あそこに投資するのはやめろ。来月、現地の通貨が暴落する」

「北米のこのルートは閉じろ。遠からず港湾労働者の大規模なストライキが起きる」


まるで未来の歴史書をあらかじめめくっているかのような彼の助言によって、菊池貿易は幾度となく巨大な経済の陥穡を未然に回避し、未曾有の大不況下でありながら無傷どころか着実な成長を続けていたのだった。


「久しぶりだな、菊池政臣」


三日月は低く澄んだ声で呟くと、誰に促されるでもなく窓際へ歩み寄り、ガラス越しに眼下に広がる東京湾の巨大な港湾風景を見つめた。


「ああ、三日月……いや、顧問。わざわざ足を出向かせてしまってすまない。君が先月指摘してくれた東南アジアの法改正の件、まさに言った通りの展開になった。おかげで現地法人の設立を無事にクリアできたよ」


政臣は社長椅子から立ち上がり、心からの感謝を込めて深々と頭を下げた。三日月は振り返ることもなく、ガラスに映る夕暮れの街並みを見つめたまま、かすかに口元を緩めた。


「礼には及ばない。私はただ、地上の人間たちが己の浅はかな欲望と、泥臭い絆の狭間でどのように足掻き、のたうち回るのかを愉しんでいるに過ぎん。……だが、お前はよくやった。あの二枚の短冊の力に依存することなく、自らの足で立ち上がり、自らの血と汗でこの城を築き上げた」


「私一人では何もできなかった。健一や海老沢さん、全国の職人たちや社員たちがいてくれたからだ。彼らの想いに応えようとした結果に過ぎない」


「それが、お前という人間の持つ本質的な力だ」


三日月はゆっくりと旋回するように振り返った。その瞳は、室内を照らすオレンジ色の夕陽を浴びて、妖しいまでに藍色に煌めいている。


「人間とは不思儀な生き物だ。己の命が有限であり、いつか必ず終わりが来ることを知りながら、なぜこれほどまでに先へ先へと物を積み上げようとするのか。お前が築いたこの会社も、集めた財も、お前が死ねば何一つあの世へは持っていけぬというのに」


静かだが、世界の理を問うような三日月の言葉に、政臣は一瞬息を呑んだ。

自分の目の前にいる男が、千年の時を老いることも死ぬこともなく生き続けてきた「永遠の住人」であることを、政臣は改めて突きつけられる。


自分が歳月を重ね、少しずつ白髪を増やし、体力の衰えを感じていく中で、三日月朔夜という存在だけは不変の孤独の中に佇んでいる。


政臣は呼吸を整えると、窓際に立つ三日月のまっすぐな視線を逃げずに受け止めた。


「確かに、私は死ねば何も持っていけません。私の代で積み上げた富も名声も、私個人にとってはここで終わりです。……ですが」


政臣は自分の胸に手を当てた。


「私が残した『意志』や『信頼』、そしてこの会社で働く人間たちの生活と未来は、私が消えた後もこの地上に残ります。人間の一生は短い。瞬く間に過ぎ去り、儚く消える。だからこそ……短いからこそ、人は誰かのために何かを残そうとし、次の世代へと想いを紡いでいけるのだと、私はこの歳になってようやく分かりました」


「……次の世代へ、紡ぐか」


三日月は静かにその言葉を噛みしめるように呟いた。

その淡い呟きの中には、永遠の時間を生きるがゆえに決して手に入れることのできない「有限な生の美しさ」に対する、かすかな憧憬と哀愁が混ざり合っているように見えた。


三日月はふっと目を細めると、政臣に向かってゆっくりと一歩を踏み出した。


「政臣。私はこれからも、お前を見守ろう。そして、お前が自らの命を燃やし尽くし、その生涯を終えるその瞬間まで……お前が次の世代へ遺そうとするものを、この場所で見届けさせてもらう」


「……ああ。よろしく頼む、三日月。私の最高の顧問であり、相棒」


夕陽が完全に落ち、東京湾の夜景がオフィスビル群の灯りとともに煌めき始める。

不老の時を生きる神秘の男と、限りある命を泥臭く燃やし続ける人間。

会社の目覚ましい成長という光の影で、二人の間には、言葉を超えた揺るぎない魂の絆が静かに、そして強固に結ばれていった。


――そして物語は、三十年という悠久の歳月を一気に飛び越え、運命の結末へと踏み出していく。


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