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その名前は捨てました。辺境食堂で幸せを打ち込む、元悪役令嬢の開拓暮らし  作者: 乾為天女


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32/32

第32話 白梢の谷で、いただきます

 戦いのあとの朝は、派手な勝ちどきでは始まらなかった。


 雪へ半分埋もれた桶。

 ひっくり返った木箱。

 火をかぶって黒ずんだ庇。

 寝転んだまま動けなくなっている若い衆の足先へ、アンナが容赦なく毛布を投げつけている。

 白梢の谷の勝利は、きらびやかな鐘ではなく、まず片づけの音でやってきた。


 「死んでないなら起きる! 凍ったらあとで面倒だよ!」

 その一声で、前庭のあちこちからうめき声が返る。

 「勝った直後くらい優しくできねえのか」

 雪の上へ大の字になっていたミルコフがぼやくと、アンナは鼻で笑った。

 「優しくしたら寝るだろうが」

 「寝たいんだよ」

 「診療所の寝台で寝な。ここで寝るとただの雪だるまだ」


 レクシーは煤で灰色になった帳簿を抱え、半泣きの声で叫んでいた。

 「勝ったならまず誰が何を壊したか申告してください! あと貸した桶! 誰が持ってるんですか貸した桶!」

 「今それなの?」

 プラチャンが呆れる。

 「今です! 今やらないと絶対なくなります!」


 ユノとトトは、煤けた頬のまま庇の焦げ跡を見上げていた。

 怖がっているのかと思ったら、トトがそっと訊く。

 「……これ、なおる?」

 「直る」

 ネマーニャが答えた。

 まだ声は掠れていたが、昨夜みたいな遠さはもうない。

 「焼けたところは削る。梁は残っている。看板も、掛け直せる」

 「じゃあ、だいじょうぶだ」

 ユノがすぐに頷く。

 子どもの判断は、案外正しい。直ると大人が言ったら、その日から本当に直り始める。


 セシリアは前庭の中央へ立ち、深く息を吸った。

 焦げた木の匂い。雪の匂い。夜通し煮続けた鍋の、少し甘い匂い。

 全部混ざっているのに、嫌な匂いではなかった。

 守りきった匂いだ、と胸の奥で思う。


 「まず、食べましょう」

 彼女が言うと、皆が一斉にこちらを見た。

 「片づけはそのあとです。空っぽで動くと、勝ったあとに倒れます」

 「賛成」

 アルベルトが珍しく即答した。

 濃紺の外套の袖は煤だらけで、王族らしさより徹夜明けの護衛頭みたいな顔になっている。

 「私はもう空腹で、気高く立っている自信がない」

 「最初からそんなに気高くなかったですけどね」

 プラチャンが言い、アルベルトは疲れた顔のまま笑った。

 「反論できん」


 それで、白梢の谷の戦後最初の朝食は、戦勝会ではなく、へとへとの顔で大鍋を囲むところから始まった。


     ◇


 鍋の底には、昨夜の祝福の余熱がまだ残っていた。


 セシリアは残りのスープへ湯を足し、塩を見て、油を一匙だけ落とした。戦いの直後に濃すぎる味は足へ来る。けれど薄すぎれば、勝ちきった身体がしょんぼりする。眠りかけた肩と、まだ少し戦場を引きずっている神経の、そのちょうど中ほどへ落ちる味がいる。


 ミルコフの椀には肉を多めに入れる。

 アンナには生姜を足す。

 レクシーには塩気を少しだけ強くして、帳簿へ戻る気力を持たせる。

 アルベルトには疲労で甘みがわかるよう、煮崩れた玉ねぎを多く掬う。

 ユノとトトには、具を小さめにして冷ましやすくする。


 最後に、ネマーニャのぶんをよそう時だけ、手が少し止まった。


 昨夜、彼が戻ってきた時の声がまだ耳に残っている。

 打てた、ではない。

 帰ってこられた、と彼は言った。


 「……何か違いますか」

 気づいた本人が、食堂の戸口からこちらを見ていた。

 髪はまだ少し乱れていて、眼鏡の端にも煤が残っている。けれどその目は、昨夜よりずっとこの場にいた。


 「違いません」

 セシリアは慌てて首を振った。

 「ただ、少しだけ、考えていました」

 「鍋のことを?」

 「はい」

 「私の椀だけ難題が入っている顔です」

 「そんな顔でした?」

 「少し」


 言いながら近づいてきた彼の歩幅は、昨夜より確かだった。

 セシリアは椀を差し出す。


 「では、先生のぶんは、帰ってきた人の味です」

 「ずいぶん抽象的ですね」

 「でも伝わるでしょう」

 「……伝わります」


 ネマーニャは椀を受け取り、湯気の向こうでほんの少し笑った。


 前庭へ、木箱と樽を並べた即席の食卓ができる。

 誰かが座り、誰かが立ったまま食べ、誰かは鍋の見張りをしながら掻き込む。

 それでも、皆で同じ湯気を囲むだけで、昨夜までの緊張が少しずつほどけていった。


 「生きてると腹が減るな」

 ミルコフが言う。

 「それはよかったです」

 セシリアが返す。

 「食堂としては、かなり」

 「感想が店側なんだよ」

 アンナが吹き出した。

 「でもまあ、その通りだね。死にかけたあとに食う一椀ってのは、だいたい本音が出るし」

 「じゃあ本音を言います」

 アルベルトが椀を抱えたまま真顔で言う。

 「王城の料理長へ少し申し訳なくなるくらい、いま美味い」

 「少しで済むんですね」

 レクシーが帳簿から顔も上げずに言う。

 「全部申し訳なくなると、今後城で食べにくい」

 「王族も大変ですねえ」

 プラチャンが適当に言う。

 「君ほどではない」


 くたびれた笑いが、鍋のまわりでぽつぽつ弾けた。

 笑える。

 そのこと自体が、昨夜にはなかった余裕だった。


     ◇


 三日後、谷へ正式の使者が来た。


 白梢の谷の外縁には、まだ魔物の足跡がいくつも残っていたし、南柵は仮修復のまま歪んでいる。食堂の庇も半分だけ新しい板へ替わり、半分は焦げ跡を削って白木がむき出しだ。けれど使者の馬車は、その不揃いな景色を見ても引き返さなかった。


 王都から来たのは、王立記録院北方出張所の書記官二名と、土地管理局の若い監督官、それから護衛を兼ねた伝令騎手が三人。

 先頭の書記官は馬車を降りるなり、前庭へ並ぶ板束と桶と子ども用の雪靴を見て、目をぱちぱちさせた。


 「……ここで合っていますか」

 「合ってますよ」

 レクシーが胸を張る。

 「食堂も読み書き教室も診療所も遊技庭園も、だいたいこの周辺です」

 「だいたい、とは」

 「来るたび増えるので」

 「増えるのですか」

 「増えます」


 書記官は困ったように監督官を見たが、監督官の方は妙に感心した顔で周囲を見回していた。

 「利用実績がある共同体というのは、だいたい現場がうるさいのです。静かな方がむしろ書類だけです」

 「身も蓋もないですね」

 アルベルトが横から言うと、監督官はぎょっとして一歩下がった。

 「で、殿下」

 「今日は立会人ではない。北方支援の確認役だ。続けてくれ」

 「は、はい」


 荷台から下ろされた木箱の中には、封蝋つきの書面が何枚も入っていた。


 ひとつは、王前審理の確定副本。

 ひとつは、妨害行為に対する追加調査命令。

 ひとつは、白梢の谷の土地管理についての新しい告示。

 そしてもうひとつ、厚手の紙へ別封されていたのが、共同体移管証だった。


 前庭へ長卓が運ばれ、住民たちがぞろぞろ集まる。

 ミルコフは槍を杖代わりにしながら最前列へ立ち、アンナは「長い話なら先に言いな」と最初から不機嫌な顔で椅子を引き、プラチャンは伝令騎手の荷車の車輪幅を見て勝手に路面事情を推測し、ユノとトトは使者の帽子の羽根が気になって仕方がないらしい。


 ネマーニャは長卓の端へ魔導タイプライターを置いた。

 公的書面の読み上げと、必要ならその場で控えを打ち出すためだ。

 昨夜の炎の前で止まった手が、今日は迷わず紙を揃えていく。その様子を見ているだけで、セシリアの胸は静かに熱くなった。


 書記官が咳払いを一つし、読み上げを始める。


 「王前審理確定後の執行告示に基づき、北方開拓地白梢の谷について、旧管理名義による実質支配を停止し、現住者共同体へ土地利用および施設運営の第一次管理権を移す」


 ざわ、と人の息が揺れた。


 「共有井戸、共同食堂、診療所、遊技庭園、学習小屋、共同浴場、保管倉については、共同体評議の合議運営を認める。責任名簿は本日付で暫定作成、春季査定後に本登録とする」


 ミルコフがぽかんとした顔になる。

 「……つまり?」

 アンナが小声で訳す。

 「追い出されないってこと」

 「最初からそう言え」

 「公文だから無理だよ」


 書記官は気を取り直して、次の紙を読んだ。


 「なお、共同食堂については正式登録者セシリア・ハクショウを営業主体と認め、食糧配給・炊事・共同利用の中核施設として継続許可する」


 そこでようやく、谷じゅうの理解が追いついた。


 「本当に、通ったのか」

 レクシーが呟く。

 「通った」

 ネマーニャが短く答える。

 「しかも共同利用の中核施設扱いです」

 「それって、すごい?」

 「かなり」

 「かなりか……」

 レクシーはその場でしゃがみ込み、顔を覆った。

 「よかった……ほんとによかった……」


 ユノがトトの袖を引く。

 「ねえ、ちゅうかくってなに」

 「まんなか、じゃない?」

 「じゃあ、うち、まんなか」

 「うち、まんなかだ」

 二人は嬉しそうに顔を見合わせた。

 その理解で、だいたい合っている。


 最後に監督官が前へ出て、移管証へ仮責任者名を書き込む手順を説明した。

 共同体評議の構成員。

 井戸担当。

 保安担当。

 診療担当。

 物流担当。

 学習担当。

 食堂主体者。


 「学習担当?」

 ネマーニャが反復する。

 「制度上はその呼び方になります」

 監督官が答えた。

 「読み書き教室、日常文書補助、住民識字の継続支援を含みます。現地での呼称は任意です」

 「任意」

 アンナがすぐに面白そうな顔をした。

 「じゃあ、先生でいいじゃない」


 前庭が一瞬、静まり返る。


 ネマーニャは書面から顔を上げた。

 アンナはまるで何でもない話のように肩をすくめる。


 「だってそうだろう。学習担当なんて固い名前より、皆ずっとそう呼んでる」

 「私は賛成です」

 レクシーが間髪入れずに言う。

 「帳簿にも、その方がわかりやすい」

 「おれも」

 ユノが手を挙げる。

 「せんせいがいい」

 「おれも、せんせい」

 トトも続く。

 「ミルコフは?」

 アンナが振ると、彼は少しだけ眉を寄せ、咳払いした。

 「……今さら別の呼び方を覚えるのが面倒だ」

 「賛成ってことですね」

 プラチャンがにやにやする。

 「うるせえ」

 「では多数決成立です」

 アルベルトが妙に楽しそうに言った。

 「学習担当ネマーニャ、通称・先生」

 「殿下まで乗らないでください」

 ネマーニャは本気で困った顔をしたが、誰も引かなかった。


 監督官は少し迷った末、書面の余白へ補記した。

 『現地呼称 先生』

 それを見た瞬間、前庭にどっと笑いが起きる。


 ネマーニャは眼鏡の位置を直し、逃げるようにタイプライターへ紙を差し込んだ。

 「控えを作ります」

 「逃げましたね」

 セシリアが小さく言う。

 「違います。業務です」

 「その言い方、だいぶ怪しいです」

 「……少しだけ怪しいかもしれません」


 けれど彼の耳が、少し赤かった。


     ◇


 告示のあと、谷は忙しかった。


 正式に追い出されなくなったからといって、板が自分で立つわけではないし、鍋が勝手に磨かれるわけでもない。むしろ「ここにいていい」と紙で決まった途端、人は遠慮なく明日の話を始める。


 南柵の補修日程。

 共同浴場の薪当番。

 遊技庭園の春向け改修。

 井戸まわりの転倒防止。

 診療所の棚の増設。

 雪解け後の畑割り。

 保存庫の鍵の本数。


 そして、食堂の再開日。


 「どうせなら、ちゃんと開けたいんです」

 セシリアが言うと、レクシーはすでに仮台帳を二冊抱えていた。

 「わかります。ですが『ちゃんと』の定義を先にください。私はその言葉で三回泣かされました」

 「そんなに?」

 「看板の位置、椀の数、食札の形」

 「細かい」

 アンナが笑う。

 「でも必要」


 ネマーニャは焦げた看板を外して、新しい板へ打ち直す準備を始めた。

 最初にこの谷へ来た日に打った「食堂」の二文字は、板ごと少し焦げている。燃えなかったと言えば聞こえはいいが、実際には火の粉にかじられ、右下の角は黒く欠けていた。

 それでも捨てる気にはなれない。


 「残しますか」

 セシリアが訊く。

 「はい」

 ネマーニャは焦げ跡を撫でた。

 「最初の約束なので」

 「では、新しい看板は」

 「新しい約束にします」


 その言い方がうれしくて、セシリアは少しだけ笑った。


 新しい看板は、前の板よりひと回り大きくした。

 遠くからでも見えるように。

 子どもでも読めるように。

 吹雪の日にも、ここへ灯りがあるとわかるように。


 食堂の二文字が、青白い光で板へ沈んでいく。

 その下へ小さく、『共同食堂』の補記。

 さらに端へ、営業主体者の登録名。

 『セシリア・ハクショウ』

 打ち出された文字が板へ定着した時、自分の名なのに、初めて店の灯りと一緒に見えた気がした。


 「似合ってます」

 ネマーニャが言う。

 「看板に?」

 「ええ」

 「私ではなく?」

 「両方です」

 さらっと返されて、セシリアは危うく板を落としかけた。

 「……最近、前より急にそういうことを言いますね」

 「前は言っていませんでしたか」

 「言っていません」

 「では、改善です」

 「改善」

 「言い方がまずかったら修正します」

 「修正は不要です」

 思ったより強く返ってしまい、今度はネマーニャが少し黙る。

 その沈黙を、横で木釘を数えていたプラチャンが面白そうに見ていた。

 「おい、今のとこだけ別紙で保管しとくか?」

 「しなくていいです」

 「帳簿に恋の項目はありません!」

 レクシーまで叫んで、前庭にまた笑いがこぼれた。


     ◇


 再開日の前日、遊技庭園へ新しい旗が立った。


 旗といっても、王都の儀礼用みたいな立派な織物ではない。

 診療所の端切れと、古い外套の裏布と、壊れた寝台の棒を組み合わせて、皆で作ったものだ。

 白地の真ん中へ、ユノが白梢の枝を描き、トトが大きな匙を描き、レクシーが「勝手に描き足さないで」と言いながら小さく帳簿の罫線みたいな飾りを足し、アンナが火傷しない程度の赤糸で縁を補強した。


 「なんだこの柄」

 ミルコフが腕を組む。

 「枝と匙と……これ、何だ」

 「かまどの火です」

 トトが胸を張る。

 「それと、せんせいのうつやつ」

 ユノが空中で四角を描く。

 「ああ、鍵盤」

 「みんな入れた」

 「欲張りだな」

 「だめ?」

 「いや」

 ミルコフはしばらく旗を見て、それからふっと鼻を鳴らした。

 「いい。強そうじゃねえか」

 その一言で、子どもたちの顔がぱっと明るくなる。


 旗を上げる役は、ユノとトトと決まっていた。

 遊技庭園の端、雪を均して立て直した滑り台のとなりに、新しい旗竿が立つ。前は王族の子どもが半日遊ぶためだけに使われた場所だったのに、今は谷の子どもたちが毎日走り回る場所になった。


 「せーの、で引くんだぞ」

 プラチャンが紐を持たせる。

 「せーの」

 ユノとトトが一緒に引く。

 するすると布が上がり、冷たい風へ白い旗がひらいた。


 白梢の枝。

 大きな匙。

 小さな火。

 そして少し曲がった四角い鍵盤。


 完璧ではない。

 けれど、それがよかった。

 誰かの見栄のための旗ではなく、ここで暮らす人の手がみんな混ざった旗だと、ひと目でわかるからだ。


 「遊技庭園、再開!」

 トトが叫ぶ。

 「まだ雪が深いです!」

 レクシーがすぐ叫ぶ。

 「走るなら順番!」

 「はいはい、台帳係」

 アンナが笑う。

 「ほら、転ぶ前に見ときな。あれ、なかなかいい旗だよ」


 セシリアはネマーニャの隣へ立ち、風に翻る布を見上げた。

 「最初に見た時は、古い遊び場でした」

 「ええ」

 「今は、ちゃんと今の場所ですね」

 「今の場所です」

 ネマーニャは頷いた。

 「そして、あなたが最初に直した場所の一つでもあります」

 「私一人では無理でした」

 「知っています」

 彼は言う。

 「だから、いいのです」


     ◇


 再開当日の朝、営業許可証が届いた。


 封筒は思ったより薄かった。

 命を変える書類というものは、たいてい拍子抜けするほど薄い。けれど、その薄さの中へ、人が何度も寒さを越えて積んだものが詰まっている。


 王立記録院北方出張所。

 共同食堂継続営業許可。

 営業主体者名。

 セシリア・ハクショウ。


 そこまで読んだところで、セシリアの手が止まった。


 旧家名はない。

 暫定の番号だけでもない。

 誰かの娘としてでも、誰かの婚約候補としてでもない。

 白梢の谷で食堂を営む者として、自分の名が載っている。


 「……届きました」

 声が、少し震えた。


 ネマーニャは隣から書面を確かめ、確認印の位置まで見たあと、静かに言った。

 「正式です」

 「正式」

 「はい。今日からこの食堂は、あなたの名で火を入れられます」


 その一言で、胸の奥にあった何かがゆっくりほどけた。


 王都を出た朝。

 灰色の木札。

 数字だけの登録番号。

 家名のない軽さと、どこにも属さない頼りなさ。

 あの日からここまで来た。


 セシリアは許可証を胸へ抱えた。

 紙なのに、泣きそうなほど重い。


 「おめでとうございます」

 ネマーニャが言う。

 形式ばった祝辞ではなかった。

 寒い朝に、ようやく湯が沸いた時みたいな、静かで確かな言い方だった。


 「ありがとうございます」

 セシリアは答えた。

 「……でも、ここまで来られたのは」

 「あなたが鍋をやめなかったからです」

 「先生が、紙をやめなかったからです」

 すぐに返され、二人とも少し黙った。


 その沈黙を破ったのは、戸口へ突っ込んできたトトだった。

 「みせて!」

 続いてユノも覗き込む。

 「これ、ほんもの?」

 「本物ですよ」

 レクシーが後ろから言う。

 「だから折らないでください。油のついた手で触らないでください。あと床へ置かないでください」

 「むずかしい」

 「大事な紙はいつも少し難しいんです」

 「じゃあ、むずかしいけどすごい紙」

 「そう、その理解でいいです」

 レクシーは頷き、それからセシリアへ向き直った。

 「額、作りましょうか」

 「額」

 「壁に掛けるんです。店が潰れるまで」

 「潰しません」

 プラチャンがすぐ口を挟む。

 「だったら百年掛けとけ」

 「そんな丈夫な額、先に用意してください」

 「まかせろ」

 なぜかそこだけ頼もしい。


 朝から前庭は騒がしかった。

 けれどその騒がしさは、以前の不安の音ではなく、暮らしが動く音だった。


     ◇


 昼前、読み書き教室の看板が打ち直された。


 元の板は、角が欠け、何度も書き足しと削り直しを繰り返してきたせいで、表面が波打っている。そこへネマーニャが新しい薄板を重ね、釘を打ち、紙を差し込む。

 まわりには見物人が集まりすぎていた。


 「そんなに見られる必要がありますか」

 ネマーニャが言う。

 「あります」

 アンナが即答する。

 「今日は歴史的瞬間だから」

 「大げさです」

 「先生って自分で書くんだろ」

 ミルコフが腕を組む。

 「見ない理由がない」

 「私も見ます」

 アルベルトまで言う。

 「北方行政資料として」

 「絶対違いますよね」

 プラチャンが笑う。

 「半分は本当だ」


 セシリアは板を押さえる役を引き受けた。

 彼の手元がいちばんよく見える位置だ。

 紙の上へ、最初の文字が打たれる。


 『読み書き教室』


 子どもたちが「おお」と小さく声を漏らす。

 次に少し間が空いた。

 ネマーニャの指が、ほんの一度だけ止まる。


 わかっていた。

 いちばん難しいのは、そこから先だ。


 ずっと周囲が呼んできた名。

 何度も助けられ、何度も逃げかけて、それでも最後には帰る場所として受け取った呼び方。

 それを、今度は自分で板へ刻む。


 ネマーニャは小さく息を吸い、鍵を打った。


 『先生 ネマーニャ』


 青白い光が板へ沈む。

 その瞬間、誰より先に歓声を上げたのはトトだった。

 「せんせい!」

 「ほんとに書いた!」

 ユノも飛び跳ねる。


 アンナが鼻の奥を鳴らす。

 「ほら、似合うじゃないか」

 ミルコフは何も言わなかったが、耳がまた少し前を向いた。

 レクシーは感極まった顔で拍手し、プラチャンは「板代はちゃんと取るからな」と台無しのようなことを言い、アルベルトは妙に真面目な顔で頷いていた。


 ネマーニャは、歓声の真ん中で少しだけ困った顔をした。

 けれど、逃げなかった。


 「……今後も、続けます」

 彼は板を見たまま言う。

 「字を教えることも、紙を整えることも。必要なら、名を書けるようになるまで何度でも」

 「はい、先生!」

 ユノとトトが声を揃える。

 その返事を聞いた時のネマーニャの横顔は、前より少しだけ、自分の居場所へ慣れた人の顔になっていた。


 セシリアは板の端を押さえたまま、どうしようもなくうれしかった。

 この人は、呼ばれるだけでなく、自分でその名を持ったのだ。


     ◇


 そして夕方。

 再開した食堂の最初の客は、結局、町の人間全員だった。


 開店札を掛ける前からもう席は半分埋まり、裏口ではアンナが「診療所の分を先に取っといて!」と怒鳴り、プラチャンは配達用の木札を増やせと騒ぎ、レクシーは新台帳の最初の頁へ『再開初日』と書いて早くも涙ぐみ、ミルコフは「見張り組の席は壁側だ」と当然のように配置を変え、ユノとトトは遊技庭園で走った勢いのまま「きょうのおすすめはなに」と厨房まで顔を突っ込んでいた。


 「外へ出て」

 セシリアが押し戻す。

 「危ないです」

 「でもいいにおい」

 「知っています。作っているので」

 「きょう、なに」

 「今日は、白梢の谷の再開の日ですから」

 セシリアは鍋の蓋を少し持ち上げた。

 「全部入りです」

 「ぜんぶ!」

 「雑な料理名だな」

 ミルコフが呆れる。

 「でも、今日には合っています」

 ネマーニャが言った。

 「誰のための皿か、全部入っているので」

 その言い方に、セシリアは頷く。


 鍋は二つかけた。

 一つは、戦いのあとで疲れた身体を戻すための白い煮込み。

 麦、豆、鶏、干し茸、玉ねぎ、根菜、少しの乳。

 もう一つは、寒さを押し返す赤い煮込み。

 鹿肉、豆、香辛、乾燥果実、最後にひと掬いの獣脂。

 どちらも、ここまで出会った人たちの好みと必要を少しずつ拾ってある。


 壁には新しい看板の控え。

 柱には営業許可証を入れた仮の額。

 窓の向こうには、遊技庭園の旗。

 裏手には『先生 ネマーニャ』の板。


 食堂の中へ、これまでの冬が全部持ち込まれて、それがようやく一つの場所に落ち着いたみたいだった。


 セシリアは配膳の合間、ふと入口を見る。

 最初の日と違って、もうここへ入る人はおずおずしていない。扉を開け、湯気へ顔を緩め、勝手知ったる様子で席を探す。誰かが席を詰め、誰かが椀を運び、誰かが後ろの子のために椅子を一つ空ける。


 待つ人のいる店になった。

 名を持つ店になった。

 帰る場所と呼ばれる店になった。


 それだけで、胸がいっぱいになる。


 「セシリア・ハクショウさん」

 背後から呼ばれ、振り向く。

 ネマーニャだった。

 厨房の熱の中でも、彼の声だけは妙に静かに届く。


 「少しだけ、外へ」

 「今ですか」

 「今です。……鍋は、アンナさんが見てくれます」

 「見ますよ」

 いつの間に聞いていたのか、アンナが当然のように言う。

 「こういう時に厨房へ立てないほど鈍くない」

 「聞かないうちから話が進んでいますね」

 「行っといで、店主」

 アンナは柄杓を振った。

 「冷める前に帰ってきな」


 押し出されるように裏口へ出ると、夕方の空は薄青く、雪原はもう夜の手前の色をしていた。

 遊技庭園の旗が、風に軽く鳴る。

 新しい読み書き教室の板が、戸口の横でまだ少し青く光っている。


 ネマーニャはしばらく黙っていた。

 何かを言おうとして、言葉の位置を探しているのがわかる。

 セシリアは待った。

 この人が言葉を探す時間は、急かさない方がちゃんと届くと、もう知っているから。


 「営業許可証」

 ようやく彼が言った。

 「似合っていました」

 「それは昼にも聞きました」

 「では、もう一つ」

 彼は少しだけ目を伏せ、息を整えた。

 「先生という板も、私には、たぶん似合っていました」

 「はい」

 セシリアは頷く。

 「とても」

 「自分で書くとは、思っていませんでした」

 「私も、自分で名を選ぶとは思っていませんでした」

 「そうですね」


 短い沈黙が落ちる。

 食堂の中から、皿の触れ合う音と、誰かの笑い声が聞こえた。

 生きている場所の音だ。


 「セシリアさん」

 「はい」

 「私は、あの夜のあと、自分が何者かを決めるのを、先送りにしていました」

 ネマーニャはゆっくり言う。

 「打鍵術師ではある。けれどそれ以上を名乗ると、また失う気がした。だから、必要なぶんだけ打って、必要なぶんだけ助けて、必要以上は持たないようにしていたのだと思います」


 白い息が、言葉のあとへほどける。


 「でも、あなたが来てから」

 彼は続けた。

 「鍋の火が続き、席が増え、看板が立ち、子どもたちが字を覚え、谷の人たちが名前で呼び合うようになって……私は、持たないままでは守れないものがあると知りました」


 セシリアは何も言わない。

 ただ、耳の奥が少し熱い。


 「先生と呼ばれることも」

 彼は小さく笑った。

 「最初は、借り物みたいでした。でも、今日、板へ打った時に、ようやくわかりました。これは押しつけられた名ではなく、ここで積み上がった呼び方なのだと」


 「はい」

 「だから」

 ネマーニャはそこで、やっとセシリアをまっすぐ見た。

 「この先の名を、隣で考えてほしいのです」


 胸の奥が、静かに、けれど大きく鳴った。


 看板の名かもしれない。

 教室の名かもしれない。

 もっと先の、二人で持つ暮らしの呼び方かもしれない。

 彼はわざと、そこを狭めなかった。

 その曖昧さごと、自分へ預けてくれたのだとわかる。


 「食堂の名前も、教室のこれからも、谷の次の季節も」

 ネマーニャは言った。

 「……できれば、あなたと考えたい」

 少しだけ間があいて、最後の一言が落ちる。

 「ずっと隣で」


 答えは、考えるまでもなかった。


 「はい」

 セシリアは笑った。

 「時間をかけて、一緒に考えましょう」

 それから、少しだけ意地悪を混ぜる。

 「でも、長くなりますよ。私は鍋の名前をつけるのにも迷うので」

 「知っています」

 「看板の字幅でも揉めます」

 「それも知っています」

 「たぶん、席の数でも揉めます」

 「望むところです」


 ネマーニャの口元が、はっきりと緩んだ。

 その表情を見た瞬間、冬のあいだ胸の奥へ積もっていたものが、ようやく春の手前みたいに少し溶けた気がした。


 セシリアはそっと手を差し出す。

 ネマーニャは一拍だけ驚いたあと、その手を取った。

 打鍵の熱で少し硬い指。

 けれど今は、もう逃げる冷たさではない。


 「帰りましょうか」

 セシリアが言う。

 「はい、店主」

 「先生」

 「その呼び方は、仕事中だけでは」

 「では、隣にいる時も」

 「……それは、少し慣れる時間をください」

 「私もです」


 二人で笑った、その時だった。


 食堂の戸が勢いよく開き、トトが顔を出した。

 「なにしてるのー!」

 ユノも後ろから叫ぶ。

 「はやく! ごはん、さめる!」

 続けてアンナの声。

 「恋の話は椀を配ってからにしな!」

 「だから帳簿に項目がないって言ってるでしょう!」

 レクシーの悲鳴まで混ざる。

 「先生ー! 席が足りません!」

 「見張り組がもう二椀追加だ!」

 ミルコフまで怒鳴る。

 「殿下が肉を多く盛られているのは不公平では?」

 アルベルトの妙に真面目な抗議が飛び、

 「身分で増やしてません! 疲労度です!」

 セシリアは思わず大声で返した。


 裏口の外で手を繋いだまま、二人は顔を見合わせる。


 食堂の中では、待つ人たちの声がしている。

 呼ばれる名がある。

 戻る席がある。

 これから考える未来が、もう湯気の向こうで始まっている。


 「行きましょう」

 ネマーニャが言う。

 「ええ」

 セシリアは頷いた。


 二人で戸を開けると、熱と匂いと笑い声が一斉に押し寄せた。

 白梢の谷の冬を越えた人たちが、ひしめき合うように椀を持っている。

 壁の許可証が揺れ、旗が窓の向こうでひるがえり、新しい看板の文字が灯りを受けて静かに光る。


 セシリアは鍋の前へ立ち、ネマーニャはその隣へ立つ。

 誰かが席を詰め、誰かが木匙を配り、ユノとトトが待ちきれない顔で椀を抱える。


 ここが、帰る場所だ。


 「それでは」

 セシリアが声を上げる。

 白梢の谷の人たちが、一斉にこちらを見る。

 その隣で、ネマーニャが小さく頷いた。


 セシリアは笑って、言った。


 「白梢の谷で――いただきます」


 次の瞬間、食堂いっぱいの声が重なった。


 「いただきます!」



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