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その名前は捨てました。辺境食堂で幸せを打ち込む、元悪役令嬢の開拓暮らし  作者: 乾為天女


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第31話 消えない恋の炎

 首領の喉の奥で灯った赤は、次の瞬間、細い筋になって走った。


 火だ、と理解した時にはもう遅い。

 食堂の庇をかすめた火は、乾いた板と積み藁へ噛みつき、ぱっと咲くように広がった。白い朝の中で、そこだけが不自然なほど鮮やかに赤い。


 「水!」

 アンナが叫ぶ。

 「井戸組、桶を回せ!」

 ミルコフの怒鳴り声が重なる。

 「子どもは石倉から出すな!」


 町が一気に動いた。

 けれど、火の速さは人の足より早い。庇を舐めた炎は、屋根へ這い上がろうとする。前庭の大鍋から立つ湯気が、その赤へ吸い寄せられるように揺れた。


 セシリアは反射的に駆けた。

 鍋の脇へ置いてあった厚布を掴み、熱湯を吸わせて庇の下へ投げる。じゅっと激しい音が立ち、火勢がひと息だけ鈍った。だがそれで終わりではない。首領は南柵の向こうで足を踏み鳴らし、もう一度、喉の奥を赤くした。


 狙いは最初から同じだった。

 人ではない。町の真ん中にある火。鍋と、食堂と、永火のかまど。


 「先生!」


 呼びながら振り返って、セシリアは息を呑んだ。


 ネマーニャが動いていなかった。


 戸口の内側。

 机の上には魔導タイプライター。かまどの赤がその横顔を照らしている。だが彼の指は鍵盤の上で止まり、肩は見てわかるほど固くなっていた。眼鏡の奥の瞳は、今ここではなく、別の火を見ている。


 乾いた紙の匂い。

 崩れる梁の音。

 戻れなかった夜。


 たぶん彼の中では、全部が一度に戻っている。


 「ネマーニャ!」

 今度は名で呼んだ。

 それでも、彼の指はわずかに震えるだけで落ちてこない。


 屋根で板が弾けた。

 その音に、ネマーニャの呼吸が浅くなる。


 「駄目です」

 レクシーが帳場から身を乗り出した。

 「あの顔は、あの夜のあとと同じだ」


 セシリアは返事をしなかった。

 返事をする間に、首領の二射目が来る。

 南柵の向こうで赤が膨らみ、次の火線が朝の白を裂いた。


 ミルコフが槍を投げる。アルベルト配下の騎手が縄を振る。だが首領は巨体をわずかに傾けただけで、火を吐き切った。今度の一撃は食堂の脇壁へ当たり、乾いた板戸が燃え上がる。


 「窓を閉めろ!」

 アンナが叫び、ユノとトトが泣きそうな顔で走る。

 「先生!」

 トトの声は、もう半分泣いていた。


 セシリアは机へ駆け寄った。

 ネマーニャの前へ膝をつき、無理に視線を合わせる。


 「聞こえますか」


 返事はない。

 けれど、焦点の合わない瞳がわずかに揺れた。


 「ここは記録院じゃありません」

 セシリアは、息を整えて言った。

 「梁は落ちていません。外にはミルコフがいて、アンナがいて、レクシーがいて、ユノとトトがいて、私がいます」


 また屋根が鳴る。

 そのたびに彼の指先が硬くなるのがわかった。


 違う。

 言い聞かせるだけでは届かない。

 今この人を呼び戻すには、もっとはっきり、帰る場所を示さなければならない。


 セシリアは机の端を掴み、声を張った。


 「先生、帰ってきて!」


 火の音に負けないよう、腹の底から出した声だった。


 「今、戻ってきてください。あの夜じゃなくて、ここへ。白梢の谷へ。私たちのところへ!」


 ネマーニャの睫毛が震える。

 けれど、まだ足りない。


 その時、戸口の外から、しわがれた声が飛んだ。


 「聞こえてるだろ、先生!」


 ミルコフだった。肩で息をしながらも、南柵と食堂の中間から怒鳴っている。


 「昔の火なんざ後でいくらでも怖がれ! 今はこの谷の順番だ! お前が紙を打たねえと、俺たち、指示が足りねえ!」


 続けて、アンナが桶を抱えたまま叫ぶ。

 「診療所の布も薬も、どこへ回すか先生の札待ちだよ! とっとと帰っておいで!」


 レクシーは帳簿を胸へ抱え、顔を真っ赤にして怒鳴った。

 「まだ返してもらってない借りが山ほどあるんです! 先生が倒れたら、誰が読み書き教えるんですか!」


 プラチャンまで、煤だらけの顔で窓から身を乗り出す。

 「おれ、まだ利息の計算、半分も覚えてねえ! 逃げんな、先生!」


 ユノが板戸の陰から顔を出した。

 「せんせい!」

 小さい声だったが、次の瞬間、トトが続く。

 「まだ、あしたの字、教わってない!」


 声が一つ、また一つと重なる。


 「先生!」

 「先生、戻れ!」

 「こっちは持ちこたえる!」

 「火は消す、だから紙を!」

 「先生!」


 白梢の谷じゅうの声が、燃える食堂へ向かって集まってくる。


 ネマーニャの喉が、かすかに動いた。

 だがまだ手は上がらない。


 セシリアは迷わず、その手を包んだ。

 氷みたいに冷たい。けれど生きている温度だ。ここにいる人の手だ。


 「先生」

 今度は低く、けれどはっきりと言う。

 「私は、帰る場所としてあなたを呼んでいます」


 彼の瞳が、ようやくセシリアを映した。


 「火の向こうへ置いてきたものは消えません。でも、今ここで、あなたを待っている声も消えません。私は、あなたが戻ってくるまで呼びます」


 ネマーニャの唇がわずかに開く。


 「……セシリア、さん」


 掠れたその一声だけで、胸の奥が痛くなるほど熱くなった。


 「はい」

 「私、は……」


 言葉の続きを、首領の咆哮が裂いた。

 南柵の外で巨体が大きく身を反らし、今までで最大の火を呑み込む。次に来れば、屋根どころか前庭の鍋ごと吹き飛ぶ。


 ミルコフが吠える。

 「間に合わねえぞ!」


 その声に、ネマーニャの指がぴくりと動いた。

 右手。次に左手。震えは残ったまま、それでも彼はゆっくり鍵盤へ手を下ろす。


 「……避難誘導、ではない」

 自分へ言い聞かせるように、彼は呟いた。

 「封鎖補助、延焼偏向、永火連結。人を外へ捨てる術式じゃない。ここへ戻すための術式だ」


 最後の一文は、もう独り言ではなかった。

 セシリアへも、町へも、たぶん過去の自分へも届く声だった。


 彼は息を吸い、鍵を打つ。


 最初の一打が、落ちた。


 乾いた金属音が、火の音を割る。


 その瞬間、かまどの奥で黒鉄色の炉心が赤く脈打った。永火が、まるで長く待っていた合図を受け取ったみたいに息を吹き返す。二打、三打、四打。ネマーニャの指はまだ完全には滑らかではない。だが止まらない。止まりそうになるたび、外から「先生!」の声が飛び、そのたびに打鍵が次へ繋がる。


 「塩を」

 彼が短く言った。


 セシリアは即座に棚から粗塩を掴む。

 「どこへ」

 「かまどへ半握り、鍋へ一握り。出汁は切るな。火に食べさせろ」


 意味は全部わからない。

 だが、今はわからなくていい。この人が帰ってきたのなら、それで十分だった。


 セシリアはかまどへ塩を投げ入れ、鍋へ散らした。白い粒が湯気へ消える。次の瞬間、鍋の香りが変わった。骨の旨みと根菜の甘みの奥へ、輪郭のはっきりした熱が立つ。腹を満たすだけではない、前へ押し出す匂いだった。


 「開けろ!」

 ネマーニャが声を上げる。

 誰へ向けたものか理解するより早く、アルベルトが戸口の閂へ飛びついた。

 「前庭を開ける! 全員、火線から退避!」


 最後の数打が、ほとんど同時に鳴った。


 首領の火が放たれる。


 赤黒い奔流が一直線に食堂へ襲いかかった、その刹那。


 かまどから立った火が、逆に外へ走った。


 壁だった。

 燃え上がる炎ではない。薄い金の膜を何枚も重ねたような、透き通る火の壁。前庭を囲み、食堂の屋根を撫で、南柵へ向かって弧を描く。その火は板も布も焦がさず、ただ外から来る熱だけを受け止めた。


 首領の一撃が壁へぶつかり、轟音とともに左右へ裂ける。

 弾かれた火は空へ逃がされ、朝まだきの空に赤い帯を描いた。火の粉は一つも町へ落ちない。


 「……っ」

 誰かが息を呑む。


 ミルコフが最初に我へ返った。

 「押し返せ!」


 その怒声で、谷が一斉に前へ出た。

 若い衆が縄を引き、騎手が槍を入れ、アンナが怪我人を下げる。プラチャンは荷車の車輪を外して即席の障壁へ使い、レクシーは燃え移りかけた庇へ濡れ布を投げつける。ユノとトトは石倉の中から、覚えたばかりの字札を抱えて「みず」「ぬの」「きた」と走らせた。


 指示が回る。

 紙が飛ぶ。

 声が繋がる。

 火の壁の内側で、白梢の谷の呼吸が一つになる。


 首領はなおも前へ出ようとした。だが永火の壁は、その巨体を焼かずに押し留める。恐れではなく拒絶の熱。ここから先は渡さないと、町そのものが言っているみたいな火だった。


 ネマーニャは打ち続けた。

 延焼偏向。南柵補助。見張り台保全。食堂前庭、通路確保。打鍵のたび、火の壁の形が町の必要へ合わせて変わる。かつて彼を過去へ引き戻したはずの音が、今は目の前の人々を守る形へ変わっていく。


 セシリアはその横で、鍋を絶やさなかった。

 前へ出る者へ濃い一口を、震える者へ熱い汁を、息を切らした者へ生姜を足した一椀を。守る火と、支える味。その両方が途切れないよう、柄杓を握り続ける。


 どれほどの時間が経ったのかわからない。

 ただ、首領の動きが初めて鈍った瞬間だけは、はっきり見えた。


 ミルコフの槍が前脚の腱へ入り、アルベルトの配下が横から縄を掛ける。そこへ若い衆が雪を崩し、巨体の足場を奪った。首領は大きく体勢を崩し、永火の壁へ肩からぶつかった。


 火は燃え上がらない。

 ただ、静かに巨体を押し返した。


 首領は低く唸り、ついに前庭から視線を外した。

 食堂も鍋も奪えないと悟ったのだろう。巨体は踵を返し、林の白の中へ後退りする。残った灰角たちも、遠吠えを一つ残して散っていった。


 しん、と静けさが落ちた。

 静けさといっても、本当の無音ではない。荒い息。雪を踏む音。誰かが泣きながら笑う声。桶の水がこぼれる音。けれど、町を呑み込む火の音だけが、もうない。


 ネマーニャの手が鍵盤から落ちた。

 次の瞬間、彼の体が傾く。


 セシリアはとっさに支えた。

 重い。けれど、自分へ預けてくる重さだった。


 「先生」


 ネマーニャは肩で息をしながら、閉じかけた目をなんとか開けた。

 その視線が最初に探したのは、燃え残りの有無でも、書きかけの紙でもなく、セシリアの顔だった。


 「……帰って、こられた」


 掠れた声だった。

 けれど今度は、確かにここにいる人の声だ。


 セシリアは笑おうとして、うまくできなかった。喉の奥が熱くて、少しでも気を抜けば泣いてしまいそうだったからだ。


 「遅いです」

 それでも言う。

 「皆で、ずっと呼んでいたんですよ」


 ネマーニャの口元が、ほんのわずかに緩んだ。


 「聞こえていました」


 外ではユノとトトが飛び跳ねながら「せんせい、かった!」と叫び、レクシーが泣きながら「まだ勝ち切ってません、後片付けです!」と怒鳴っている。ミルコフは槍を杖にして座り込み、アンナはその額へ容赦なく冷えた布を叩きつけていた。アルベルトは前庭の火の壁を見上げ、信じがたいものを見る顔のまま、深く息を吐く。


 白梢の谷の全員が、まだ生きていた。


 ネマーニャはセシリアへ寄りかかったまま、かすかに囁く。


 「セシリアさん」

 「はい」

 「あなたが呼んだから、打てました」


 胸の内側で、何かが静かにほどけた。

 返す言葉を探すより早く、彼の手が机の上で行き場を失っているのが見えた。セシリアは迷わず、その手を握る。今度は冷たくない。打ち終えた熱がまだ残っている。


 「では、これからも呼びます」

 彼女は言った。

 「何度でも。聞こえるまで」


 ネマーニャは答えなかった。

 ただ、握り返す力が、ほんのわずかに強くなった。


 前庭を囲む火の壁は、もう荒々しくはなかった。

 朝焼けの手前の空へ淡く溶けながら、白梢の谷を守った熱の名残だけを残している。


 消えない炎がある。

 人を焼いた記憶としてではなく、帰る場所を照らす火として。


 そのことを、町の真ん中で握った手が、何より確かに教えていた。



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