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その名前は捨てました。辺境食堂で幸せを打ち込む、元悪役令嬢の開拓暮らし  作者: 乾為天女


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12/12

第12話 ミルコフの遠吠え

 白梢の谷へ朝の荷馬車が入ってくる頃、食堂の勝手口を叩く音が、いつもより二度ほど強かった。


 セシリアが粉のついた手を拭きながら戸を開けると、そこに立っていたのは、谷の西端で乳山羊を飼っているマルダ婆さんだった。肩へ毛布を引っかけたまま、頬をこわばらせている。


 「食堂主さん、湯をひとつもらえるかい」

 「もちろんです。どうされました」

 「小屋の柵が破られたよ。山羊が一頭、腹を裂かれてた」


 その一言で、朝の空気が変わった。


 かまどの前で薪を足していたレクシーが手を止め、帳場で伝票を揃えていたネマーニャも顔を上げる。アンナは言葉を挟まず、先に椅子を引いた。マルダ婆さんは礼を言って腰を下ろしたが、湯気の立つ椀を両手で包んでも、指の震えはすぐには止まらない。


 「足跡は」

 ネマーニャが短く尋ねた。

 「雪が荒れてて、ようわからん。けど、でかいのがいくつか。犬じゃないって皆が」

 「皆が」

 レクシーが眉を寄せる。

 「皆って、誰が見たの」

 「朝いちで来た荷馬車の男らだよ。『こりゃ狼だ』『いや狼耳の方かもしれんな』って」


 最後の言い淀みが、かえってはっきり聞こえた。


 食堂の中で、木椀の触れ合う音が小さく止まる。

 白梢の谷に流れてきた人間の多くは、王都や街道筋で何かを失ってきた。けれど失った者どうしだからといって、偏見まで置いてこられるわけではない。腹が空いた時、人はまっすぐにもなるが、狭くもなる。


 セシリアは、湯へ刻み生姜を足しながら静かに尋ねた。

 「ミルコフさんには伝わっていますか」

 「もう見に行ってる」

 戸口の方から声がした。


 振り向くと、当のミルコフが立っていた。

 雪を払ったばかりの外套の裾が白く濡れている。狼の耳はいつもよりやや後ろへ倒れ、右手の革手袋には、薄く血がついていた。


 その血に気づいた瞬間、客の一人がわずかに椅子を鳴らした。

 ほんの小さな音だったのに、室内の全員が聞いた。


 ミルコフは気づいているはずだった。

 けれど何も言わず、戸口のそばで手袋を外し、そのまま桶の水へ浸けた。赤い筋がほどけて薄まっていく。


 「マルダ婆さん」

 彼は振り向いた。

 「山羊小屋の裏手、木柵の折れた場所はそのままにしておいてください。踏み荒らされると面倒だ」

 「あ、ああ」

 「今夜も同じ手口が来る可能性がある。昼までに見張り場を組みます」


 言葉はいつもと同じだった。淡々として、必要なことだけ置く声だ。

 だが、それだけに、客たちの視線の揺れが目立った。


 「おまえさんが見張るのか」

 角の卓にいた荷馬車の御者が口を開いた。

 まだ若い男で、昨日は遊園地の門札を見て笑っていた顔を、今日は妙に険しくしている。

 「その、なんだ。もし、同族の匂いがするなら、逆に――」


 そこまで言って、自分でも言い過ぎたとわかったのだろう。語尾がしぼんだ。

 だが引っ込めるには、もう遅かった。


 レクシーが盆を置く音が、ことりと硬く鳴る。

 アンナは湯差しを握ったまま、目だけを細めた。

 セシリアは唇を開きかけたが、その前にミルコフが言った。


 「同族なら、なおさら見つける」


 怒鳴りもしない。

 笑いもしない。

 ただ事実として置かれた一言だった。


 御者は返す言葉を失ったらしく、口を閉じた。

 だが、空気が晴れたわけではない。疑いは、言葉で切られてすぐ消えるほど軽いものではないのだ。


 ミルコフは濡れた手を布で拭き、ネマーニャへ向き直った。

 「南の林道と西の放牧地の古地図を」

 「もう出しています」

 ネマーニャはすでに二枚の紙を揃えていた。

 「柵の損壊箇所、沢筋、昨日の荷馬車の停車位置も打ってあります」

 「助かる」

 「まだです」

 ネマーニャの返しは短かった。


 ミルコフは紙を受け取り、そのまま外へ出ようとした。

 セシリアは思わず呼び止める。

 「朝食を」

 「要らない」

 「要ります」

 食堂主の声になると、自分でも少し驚くほど迷いが消える。

 「空腹で森へ入って、まともな判断ができますか」

 「できます」

 「では、もっと良い判断ができるように食べてください」


 ミルコフの耳先が、ほんのわずかだけ動いた。

 たぶん呆れている。たぶん少しだけ譲る気にもなっている。

 セシリアはその隙を逃さず、昨夜の残りの煮込みを温め直し、固めの黒パンを切り分けた。煮込みには根菜を多めに入れ、塩をわずかに強くする。雪の中で体温を落とさないためだ。


 椀を差し出すと、ミルコフは一度だけためらい、それから受け取った。

 立ったまま、早いが雑ではない動きで食べる。


 食堂の中に残った客たちは、ちらちらとその様子を見ていた。

 誰ももう何も言わない。けれど沈黙にも色がある。今の沈黙は、信じる前の沈黙だった。


 ミルコフは食べ終えると、空になった椀を返した。

 「塩が少し強い」

 「わざとです」

 「そうか」


 それだけ言って、彼は地図を懐へ入れ、再び雪の中へ出ていった。


 戸が閉まったあともしばらく、室内にはかまどの火の音だけが残った。

 最初に息を吐いたのはレクシーだった。


 「腹が立つ」

 「ええ」

 アンナも静かに頷く。

 「でも、今ここで怒鳴っても、余計にこじれるわね」

 「わかってるわよ」


 セシリアは、ミルコフが置いていった椀を洗い桶へ浸けた。

 縁に残ったわずかな脂が、湯の表面でゆっくりほどける。


 「マルダ婆さん」

 彼女は振り向いた。

 「山羊小屋へ行ってもよろしいですか」

 「食堂主さんが?」

 「料理人の目で見たいのです」

 「料理人の目」

 レクシーが目を瞬く。

 「そう。食われ方って、あるでしょう」

 「言い方」

 「でも確かに、食卓へ出る肉と、そうでない肉の違いは見てきました」

 セシリアは手を拭いた。

 「野生の獣が腹を満たすために襲ったなら、もっと食べ方に迷いがない気がします」


 ネマーニャが、その言葉で視線を上げた。

 「私も同行します」

 「先生は店を」

 「一刻なら問題ありません。午前の帳票は終わっています」

 「では、私も」

 レクシーが言う。

 「怪我人がいたら嫌だし」

 「私は布と湯を持って行くわ」

 アンナも続く。


 結局、食堂の午前仕込みを最小限だけ残し、四人でマルダ婆さんの山羊小屋へ向かった。


 小屋は谷の西端、緩い斜面の途中に建っていた。

 雪は朝の踏み荒らしでだいぶ乱れている。折れた木柵の向こうで、残った山羊たちが落ち着かない声を上げていた。


 セシリアはまず、息を整えた。

 痛ましいものを見慣れてはいない。けれど見ずに済ませたくもない。


 倒れた山羊の傍らへしゃがみ込む。

 腹の傷は深いが、内臓が大きく食い荒らされてはいない。首筋にも咬み跡らしいものはある。だが妙だった。間隔が不自然に揃いすぎている。肉を裂いた跡も、一度で食いちぎったというより、何度か躊躇いながら引いたように浅く重なっていた。


 「……おかしい」

 セシリアは呟いた。

 「何が」

 レクシーが肩越しに覗く。


 セシリアは手袋越しに傷の縁を示した。

 「これ、獣ならもっと深く入ると思います。空腹で襲ったなら、なおさら」

 「見せかけということですか」

 ネマーニャが言う。

 「たぶん。それに」

 彼女は柵の根元へ視線を移した。

 「血の近くなのに、毛の散り方が少ない。暴れたにしては、雪の乱れも広がっていません」


 ミルコフなら、もう気づいているだろう。

 そう思った時、雪の端でアンナが声を上げた。


 「セシリア、これ」

 呼ばれて向かうと、折れた柵の外側に、短い縄の切れ端が落ちていた。

 麻縄だが、ただの麻ではない。表面へ薄く蝋が引かれ、荷締め用に硬く撚ってある。食堂で野菜束を結ぶ柔らかな縄とは違うし、山羊小屋で日常使いするには上等すぎる。


 「荷馬車の荷締め縄ですね」

 プラチャンなら一目でそう言うだろうと思える代物だった。


 さらに、雪の下からは鉄の小片が見つかった。

 ネマーニャが拾い上げる。湾曲したそれには、歯のような刻みが並んでいた。


 「鋏罠の歯です」

 「獣じゃなく、人の道具」

 レクシーの声が冷たくなる。

 「わざと傷を作ったのね」

 「もしくは、罠へ追い込んだあと、獣に見えるよう傷を足した」

 ネマーニャは淡々と言った。

 「いずれにせよ、人為です」


 マルダ婆さんが、唇をわななかせた。

 「じゃあ……誰かが、うちの山羊を」

 「ええ」

 セシリアは頷いた。

 「しかも、ただ盗むためではありません。怖がらせるためです」


 そこで彼女の頭に、朝の食堂での言葉がよみがえった。

 狼だ。

 狼耳の方かもしれない。

 あまりにも都合よく、あまりにも早く。


 ネマーニャも同じことを考えたのだろう。

 「朝いちで荷馬車に乗ってきた男たちの名を、帳場の来訪欄から洗います」

 「先生、店へ戻ってください」

 セシリアは即座に言った。

 「私はミルコフさんのところへ」

 「危険です」

 「先生が言うと説得力があります」

 「事実だからです」

 「ですから、事実に対してこちらも動きます」


 ネマーニャは何か言いかけ、やめた。

 かわりに懐から小さな打鍵板を取り出し、数行を素早く打ち込む。白い細札が一枚、するりと出てきた。


 『南林道・沢手前に旧猟小屋』

 『ミルコフ巡回時の待機点』


 「彼が単独で追うなら、まずここを押さえるはずです」

 「ありがとうございます」

 「一人では行かせません」

 「レクシーとアンナを連れて行くには、森が深すぎます」

 「では私が」

 「先生は、今日ここで記録を守ってください」


 セシリアはそう言って、札を受け取った。

 「疑いは、あとで証拠にしなければまた戻ります。先生が帳場にいてくださらないと困ります」


 その言い方に、ネマーニャは黙った。

 不本意そうではあったが、反対できないとわかった顔だった。


 「……戻らなければ、こちらから人を出します」

 「はい」

 「道は外さないでください」

 「はい」

 「二度目ですよ」

 「大事なことなので」


 こんな時でも似たようなやり取りになるのが、少しだけ可笑しかった。

 可笑しいからこそ、足がすくまずに済む。


 セシリアは食堂へ戻ると、急いで持ち運び用の支度をした。

 小ぶりの保温瓶へ、濃い目のスープを入れる。具は細かく刻んだ鹿肉と玉ねぎと乾燥豆。冷えた手でも飲み込みやすいよう、煮崩れる寸前まで柔らかくした。包みには黒パンと、昨夜のシャイニング・ラブを二つ。甘味は、疲れた判断を少しだけ前へ押す。


 出かけ際、ユノが扉のところで裾をつかんだ。

 「セシリアさん」

 「どうしました」

 「ミルコフさん、わるいことしてないよね」

 その問いがいちばん痛かった。


 セシリアはしゃがみ、ユノと目を合わせた。

 「していません」

 「でも、おとなが……」

 「大人でも、怖い時は間違えることがあります」

 「まちがえる」

 「ええ。でも、間違いだとわかったら、今度はちゃんと直さなければいけません」

 「なおせる?」

 「直します」


 ユノは少し考え、それから小さく頷いた。

 その隣でトトが、セシリアの持つ包みを見上げる。

 「それ、ミルコフさんのごはん?」

 「そうです」

 「じゃあ、はやくいって」


 子どもの言葉は、たまに迷いを丸ごと追い越していく。


 白梢の谷の南林道は、午後に入ると影が深くなる。

 食堂のあたたかさを背に離れるほど、雪の匂いが鋭くなった。セシリアはネマーニャの細札を胸元へ入れ、沢沿いの細道を進む。ところどころに、ミルコフが残した合図があった。枝を二本だけ逆向きに立てた印、雪面へ浅く刻んだ斜線、踏み跡をわざと乱してから一歩だけ残した痕跡。知らなければ見落とす。だが気づけば、まっすぐ旧猟小屋へ導かれていた。


 沢の手前で、木々の間に小さな影が動いた。


 「止まれ」


 低い声と同時に、矢が一本、セシリアの足元の雪へ突き立った。

 次の瞬間、木陰からミルコフが現れる。弓を引いたまま、耳がぴんと立っていた。彼はセシリアの顔を認めると、露骨に眉をしかめた。


 「何をしている」

 「ごはんを持ってきました」

 「帰れ」

 「嫌です」

 「森でその即答をするな」

 「食堂主ですので」

 「意味がわからん」


 意味がわからん、と言いながらも、彼の視線は包みへ一瞬落ちた。

 そこを逃さず、セシリアは雪の積もっていない岩陰へ腰を下ろした。


 「マルダ婆さんの小屋を見ました」

 「……」

 「人の仕業ですね」

 ミルコフの目が細くなる。

 「誰から聞いた」

 「傷と柵と縄から」

 「自分で見たのか」

 「はい」

 「そうか」


 それだけで、彼の中の何かがわずかにほどけたのがわかった。

 完全ではない。けれど、朝の食堂で向けられていた硬い棘よりは、ずっと静かだった。


 セシリアは保温瓶を開け、湯気の立つスープを木杯へ注いだ。

 「飲んでください」

 「後で」

 「今です。冷えます」

 「俺は」

 「冷えます」

 「……食堂主は頑固だな」

 「よく言われます」


 ミルコフはようやく弓を下ろし、杯を受け取った。

 一口飲んだ途端、肩の位置がほんの少し下がる。鹿肉の旨味に玉ねぎの甘みを溶かし、黒胡椒を強めに利かせた。森の冷えを押し返すための味だ。


 「塩は」

 「ちょうどいいでしょう」

 「……そうだな」


 セシリアは黒パンを割り、シャイニング・ラブも一つ差し出した。

 ミルコフは紙包みを見て、無言のまま眉を寄せる。


 「笑ってもいいですよ」

 「笑わん」

 「では食べてください」

 「その名前を森の中で聞くとは思わなかった」

 「私もです」

 「だが、携帯には向いている」

 「先生が同じことを言っていました」


 ミルコフは短く息を吐き、菓子を懐へ入れた。

 「後で食う」

 「どうして今ではないのです」

 「後での方が効く」

 「それは理にかなっていますね」


 食事の間だけ、森は静かだった。

 沢の流れが凍りきらずに細く鳴り、遠くで枝が擦れる。白梢の谷の賑わいから切り離された場所なのに、セシリアは不思議と怖くなかった。目の前にいるのがミルコフだからかもしれないし、彼が自分を追い返しきれなかったからかもしれない。


 「朝のことは」

 セシリアが切り出すと、ミルコフが杯から目だけを上げた。

 「気にするな」

 「気にします」

 「慣れている」

 「その慣れ方は、良くないです」

 「良いか悪いかで言えば、悪い」

 「では、なおさらです」


 ミルコフは少しだけ口元を動かした。

 笑ったのではない。笑いそうになって、やめた顔だった。


 「おまえは」

 彼はゆっくり言った。

 「待っていろと言われて待つ方じゃないな」

 「そうでしょうか」

 「さっき、足元へ矢を打ったのに立ち止まるだけで済ませた」

 「当たらない位置だとわかりました」

 「普通は怖がる」

 「少しは怖かったです」

 「少しか」

 「でも、あれがミルコフさんの矢なら、まず話を聞くための矢だと思いました」

 「買いかぶりだ」

 「信頼です」


 返すと、ミルコフは言葉を失ったように黙った。

 耳先だけが、雪の光の中でわずかに震える。


 「それで」

 セシリアは細札を広げた。

 「旧猟小屋に何が」

 「人がいる」

 「盗賊」

 「二人。いや、たぶん三人だ。獲物を追う動きじゃない。待ち伏せの動きだ」

 「商人の雇い人でしょうか」

 「可能性は高い」

 「どうしてそう思われたのです」

 「足だ」


 ミルコフは雪の上へ枝で簡単な図を描いた。

 「谷の人間は、雪道で足を開かない。沈むからだ。だが小屋の周りの跡は、石畳を歩くような幅だった。荷馬車の馭者か、街道筋の護衛上がり」

 「街道慣れした人の歩き方」

 「そうだ。それに」

 彼は懐から小さな金具を出した。

 真鍮の飾り鋲だ。円の中央へ、鷲のような紋が浅く刻まれている。

 「小屋の前に落ちていた。南街道で毛皮と乾燥肉を買い叩いていく商会の荷箱に、同じ紋が打ってある」

 「どこの」

 「ロドガン商会」

 その名に、セシリアは眉をひそめた。

 数日前、食堂の前で、遊園地を横目に見ながら値踏みするような目をしていた男を思い出す。厚手の外套に香の強い油をしみこませた、鼻につく笑い方の商人。確かハルヴァンと名乗っていた。


 「あの人」

 「覚えているのか」

 「持ち帰り用のパンの数より、橋の幅と雪かき番の人数を熱心に聞いていました」

 「……なるほど」

 「商売の顔というより、様子見の顔でした」

 「おまえも大概、見ているな」

 「食堂主ですので」


 ミルコフは今度こそ、ごく薄く笑った。

 本当に、ごく薄く。雪面に落ちる影が少しゆるむ程度の笑みだった。


 その時だった。

 風向きが変わり、沢の向こうから、かすかな金属音が届いた。人が不用意に刃を枝へ当てた時の、短く乾いた音だ。


 ミルコフの表情が一瞬で消える。

 彼は手の甲でセシリアへ伏せるよう合図し、自分は木立の陰へ滑り込んだ。


 セシリアも岩の影へ身を低くした。

 心臓が速い。だが、不思議と頭は冷えていた。たぶん、さっきのスープを味見した時、自分の分にも少しだけ付与が乗っていたのだろう。視界の輪郭がくっきりする。


 やがて、二人の男が沢沿いへ現れた。

 片方は細身で、もう片方は肩幅が広い。どちらも谷の人間の歩き方ではない。雪へ必要以上に靴を沈め、悪態をつきながら進む。


 「今夜もう一頭だ」

 「本当にやるのか。昼間に騒ぎになってるぞ」

 「だからだろ。獣人の巡回士に目が向いてるうちに、谷の連中へ『ここは危ねえ』と刷り込む」

 「ハルヴァンは、そこまでして何が欲しい」

 「白梢の谷が持ち直しちまうと、南の相場が上がるんだよ。今みてえに痩せた谷のままなら、毛皮も乾燥肉も、こっちの言い値で引ける」


 低い声だった。

 だが雪は音を吸いきらない。必要なところだけ、はっきり聞こえた。


 セシリアは、岩陰で指を握る。

 腹が立った。

 山羊の命にも、谷の怖れにも、ミルコフの立場にも、全部へ値札をつける声だった。


 男たちは細い麻袋を引きずっていた。

 中で何かが小さく鳴く。囮の子山羊だとわかった瞬間、セシリアの背中へ冷たいものが走る。


 次の瞬間だった。


 森の奥から、長く、鋭い遠吠えが響いた。


 腹の底へ震えが落ちるような、強い声だった。

 ただの威嚇ではない。谷へ向けた合図であり、獲物へ向けた宣告でもある。白い木々の間を反響しながら、音がまっすぐ走る。


 男たちが顔色を変えた。

 「いたぞ!」

 「くそ、ほんとに狼耳の――」


 言い終える前に、一本目の矢が麻袋の前へ突き立った。

 子山羊を放り出させるための矢だ。袋の口がほどけ、中から仔が飛び出して沢の反対側へ駆ける。


 男の一人が短剣を抜く。

 もう一人は慌てて笛を鳴らそうとしたが、その手首を、横から飛び込んだ灰色の影が弾いた。


 ミルコフだった。

 雪を蹴る動きに無駄がない。低く潜り、相手の膝裏を払う。肩幅の広い男が転び、短剣が雪へ刺さる。細身の方が逃げようと向きを変えた瞬間、セシリアはとっさに保温瓶の蓋を投げた。狙ったのは顔ではなく足元だ。金属の蓋が雪を跳ね、男の視線が一瞬だけ逸れる。


 そこへ二本目の矢が飛び、男の外套の端を木へ縫い止めた。


 「動くな」

 ミルコフの声は低い。

 「次は外さない」


 肩幅の男はなおも立ち上がろうとしたが、セシリアは雪を踏みしめて前へ出た。

 「その袋、どこから持ってきたのです」

 「は?」

 「マルダ婆さんの小屋を荒らしたのもあなたたちですね」

 「女、引っ込んでろ」

 「嫌です」

 セシリアは答えた。

 「私は白梢の谷の食堂主です。うちの客と家畜を勝手に怖がらせる人を、見逃す理由がありません」


 男は一瞬、彼女が何者かわからない顔をした。

 王都の令嬢であれば、森の中でこんな声は出せなかっただろう。だが今のセシリアは、鍋の前で大勢へ食事を回し、足りない椅子を増やし、遊具の順番札まで気にする食堂主だった。腹の立つ相手の前で腰が引ける余裕は、もうない。


 肩幅の男が腰の後ろへ手を回した。

 武器ではなく、投擲用の小瓶だった。油か、目潰しの類か。

 セシリアが身構えるより早く、ミルコフが雪を蹴る。だが一歩ぶんだけ距離が足りない。


 その瞬間、セシリアは残っていた木杯の中身を男の手元へぶちまけた。

 熱いスープではない。もう温度は下がっていた。けれど脂を含んだ濃い汁は手の動きを鈍らせるには十分で、男は反射的に指を開いた。小瓶が雪へ落ちる。


 ミルコフの拳が、その顎を正確に打った。


 男が沈む。

 細身の方も、逃げようとして外套を矢へ引かれ、情けない悲鳴を上げた。


 「よくやった」

 ミルコフが短く言う。

 「食堂主にその評価をいただくとは光栄です」

 「褒めてはいない」

 「今のは褒めていました」

 「……半分だけだ」


 そう言いながらも、彼は素早く男たちの手を後ろで縛った。

 縄は、あの荷締め縄と同じ蝋引きだった。これで十分、つながる。


 遠吠えの余韻がまだ森へ残っている。

 少し遅れて、谷の方から応えるような笛の音が二つ返ってきた。白梢の谷の巡回番が、合図を聞いて動いたのだろう。


 「さっきの声」

 セシリアは男たちから目を離さずに言った。

 「谷への合図ですか」

 「半分」

 「もう半分は」

 「逃がさないという宣言だ」

 「格好いいですね」

 「茶化すな」

 「茶化していません」


 本当に、少し格好よかったのだ。

 誰かを脅かすための遠吠えではなく、守る側の声として谷へ届く響きだったからかもしれない。


 間もなく、プラチャンと谷の若い男たちが駆けつけた。

 その先頭には、ネマーニャもいた。手には打鍵板と、すでに数枚の記録紙を持っている。


 「先生まで」

 セシリアが目を丸くすると、ネマーニャは息を切らさない声で答えた。

 「戻らなければ人を出すと申しました」

 「早いですね」

 「大事なことなので」


 返しが少しだけ強い。

 心配させたのだとわかり、セシリアは素直に頭を下げた。


 ネマーニャは縛られた男たちを見ると、すぐに紙へ視線を落とした。

 「氏名」

 「言うかよ」

 細身の男が唾を吐く。

 次の瞬間、ミルコフが無言で一歩近づいた。

 男は顔色を変える。

 「……ガレス」

 「もう一名」

 「ボルン」

 「所属」

 「知らねえ」

 「荷箱の紋はロドガン商会でした」

 ネマーニャが淡々と告げる。

 「否認するなら、谷の入口に置いた荷馬車と帳場の来訪記録と、今朝の停車位置を照合します」

 「……」

 「なお、マルダ婆さん宅の荷締め縄の切れ端、鋏罠の歯、あなた方の所持縄と子山羊の袋、すべて保全します」

 「くそ」

 「それでも知らないと?」

 ネマーニャの指が、紙の余白へ静かに触れる。

 「書きますよ。『否認』と」


 静かな声なのに、男たちの顔色がみるみる悪くなる。

 記録として残ることの重さを知っている顔だった。


 肩幅の男――ボルンが、先に折れた。

 「ハルヴァンだ」

 雪を噛むような声で言う。

 「ロドガン商会のハルヴァンが、谷を危ねえ場所に見せろって。獣人の巡回士がいるなら都合がいい、って」

 「目的は」

 ネマーニャ。

 「相場だよ。白梢の谷が持ち直しゃ、南で買い叩けなくなる。旅人が寄りつかねえ噂でも立てば、春まで流通を鈍らせられるって」

 「だから山羊を」

 セシリアの声が低くなる。

 「一頭や二頭で大袈裟に騒ぐだろうって」

 「……」


 それ以上は聞きたくなかった。

 聞けば聞くほど、腹の底が冷えていく。


 プラチャンが男たちの縄を引き上げた。

 「谷でやるには、やることが安いな」

 「数字だけ見てる人って、たまに人の値段を忘れるのよね」

 レクシーが遅れて追いつき、肩で息をしながら言う。

 アンナもその後ろにいて、セシリアの外套の袖へ雪がついているのを見るなり、まずそこを払った。


 「無事でよかった」

 「はい」

 「はい、じゃないわ」

 「すみません」

 「あとでちゃんと叱る」

 「お願いします……」


 こういう時まで順序がぶれない人を見ると、少し泣きそうになる。


 男たちを連れて谷へ戻る頃には、空はすでに夕方へ傾いていた。

 食堂の前には人が集まっている。朝の御者も、マルダ婆さんも、遊園地で遊んでいた子どもたちも、皆が落ち着かない顔でこちらを見た。


 ネマーニャは広場の真ん中で立ち止まり、打鍵板を机代わりの木箱へ置いた。

 「これより、白梢の谷西端家畜襲撃未遂および偽装工作について、現時点の確認事項を読み上げます」


 静まり返る。

 彼は紙を一枚ずつめくりながら、簡潔に述べた。

 山羊小屋の傷が獣の食痕として不自然であったこと。

 蝋引き縄と鋏罠の歯が発見されたこと。

 旧猟小屋付近でロドガン商会の雇い人二名を取り押さえたこと。

 両名が、商人ハルヴァンの指示で白梢の谷の治安を悪く見せようとしたと供述したこと。


 読み上げが終わると、広場には重い息が落ちた。

 朝の御者が、真っ先に顔を伏せたのが見えた。


 「……悪かった」

 彼は、誰に向けるともなく呟いた。

 けれどその視線の先には、ミルコフがいた。

 「俺、朝……」

 「聞いていた」

 ミルコフが言う。

 「すまん」

 「次からは、口より先に足跡を見ろ」

 「……ああ」


 それ以上、ミルコフは責めなかった。

 責めたいのはたぶん山ほどあるだろうに、彼はそうしない。守る側の顔を崩さない。

 その姿に、かえって広場の方が居心地悪そうに黙り込んだ。


 そこへ、トトが人垣の前からぴょこんと出た。

 「ミルコフさん、こわいこえ、だした」

 遠吠えのことだろう。

 場の空気が少しだけ揺む。


 ユノが続けた。

 「でも、あれ、たすけにくるこえだった」

 子どもの言葉は、時々大人の沈黙より正確だ。


 ミルコフは一瞬だけ目を閉じ、それから低く答えた。

 「そう聞こえたなら、よかった」


 その返事で、広場の固さがようやく少しほどけた。

 マルダ婆さんが前へ出て、節くれ立った手でミルコフの腕を軽く叩く。

 「今夜の見張りは、あんたに頼むよ」

 「任せろ」

 「あと食堂主さん」

 「はい」

 「山羊は惜しかったけど、今夜はうちの残り乳で何か作れるかい」

 その一言に、周囲から小さな笑いが起きた。


 生活は、こうして戻っていく。

 傷は消えなくても、次の鍋の話が出るなら、まだ立てる。


 日が落ちたあと、食堂の閉店作業が一段落した頃だった。

 勝手口の外で、セシリアは空の保温瓶を洗い終えたところへ、背後から足音を聞いた。


 振り向くと、ミルコフがいた。

 昼間の緊張は落ちていたが、いつもより少しだけ疲れた目をしている。耳先へは、雪ではなく湯気の匂いがついていた。たぶん、レクシーに強制的に温かい湯を飲まされたのだろう。


 「夜番前ですか」

 「ああ」

 「では、シャイニング・ラブを」

 「本当にその名で定着したのか」

 「残念ながら」

 「残念なのか」

 「少し」

 セシリアは笑って、小さな包みを差し出した。

 「二つあります。見回り番の方の分も」

 「受け取る」


 ミルコフは包みを受け取り、それを外套の内へしまった。

 それから、すぐには去らなかった。


 沈黙が一つ落ちる。

 白梢の谷の夜は、冷える前に音だけが澄む。


 「今日」

 ミルコフが口を開いた。

 「森へ来ただろ」

 「はい」

 「普通なら、来ない」

 「普通ではなかったのだと思います」

 「そうだな」

 彼は短く頷いた。

 「それでも、来た」


 セシリアは返事を待った。

 急かしてはいけない気がした。鍋の火加減と同じで、この人の言葉にも、待った方がよい温度がある。


 しばらくして、ミルコフは視線をそらしたまま言った。


 「……助かった」


 それは、本当に短い一言だった。

 けれどセシリアには、昼の広場で響いた遠吠えより、ずっと深く届いた。


 「はい」

 彼女は同じだけ短く返した。

 「私も、助かりました」

 「何が」

 「ミルコフさんが、きちんと戻ってきてくださって」

 「俺は戻る」

 「知っています」

 「なら、なぜ」

 「知っていても、戻るまで心配はします」


 ミルコフはそこでようやく、少しだけ困ったような顔をした。

 怒られた時でも、獲物を追う時でも見せない顔だったので、セシリアはつい笑ってしまう。


 「笑うな」

 「すみません。でも」

 「でも?」

 「助かった、と言っていただけて嬉しいです」

 「……そうか」


 それ以上の言葉はなかった。

 けれど十分だった。


 ミルコフは踵を返し、夜の見回りへ向かう。

 食堂の灯りから外れていく背へ、セシリアはそっと声を投げた。


 「いってらっしゃい」

 「ああ」


 短い返事。

 そのあと、少し離れた谷の外れで、もう一度だけ遠吠えが上がった。


 今度の声は、昼のような鋭さではない。

 見回りの始まりを知らせる、低く長い合図だった。

 それを聞いた白梢の谷では、子どもが泣きやみ、鍋の蓋が静かに閉まり、戸締まりを終えた人々が「今夜も大丈夫だ」と肩の力を抜く。


 もう誰も、その声を疑いの方向へは聞かなかった。


 ミルコフの遠吠えは、その夜から、白梢の谷を怖がらせる音ではなくなった。

 帰るべき家へ帰ってよいと知らせる、守りの音になったのである。



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