1話
異世界語のフリガナは作者のインスピレーションとかインスパイヤとかイスカンダルとか、その辺より生まれでたワードであり、意味はほとんどありません。妙な響きであっても「異世界だから」で納得して下さい。
ただ、あんまりおかしなフリガナがあった場合は指摘して下さると助かります。本当に音だけで考えているので。
輪廻転生の可能性について語ることは箱の中に閉じ込めた猫の生死を議論するのと同じくらい不毛な作業だが、何にせよ箱の蓋を開いてしまえば答えは出る。
不意に得た二度目の生。手足どころか己の感情すら御せぬ現状に、『彼』ーーー否、『彼女』は困惑するばかりだった。
退屈という言葉すら浮かばない、長い眠りの時間。バイオリズムを超過した長い夢は、唐突に終わりを告げる。
その時何があって、何を見たかなどは覚えていない。ただ、明るいと感じていた。
これが生誕という儀であることも解らぬまま、『彼女』はあまりに不自由な世界に放り出される。
前記のように食欲すら訴えることは出来ない。恐怖すら覚える深い微睡みを振り払い、思考がまともに働くようになったのは少なくとも数十回日が昇り降りした後だった。
やっとぼんやりと見えるようになってきた目を凝らし、『彼女』は鬱憤を晴らすかのように情報をかき集める。
「あうあうあ(あうあうあ)」
どうせまともな発声は出来ないと現時点での発声を諦めている『彼女』だが、それでもあまり沈黙を続けると母親らしき女性が不安そうな表情で覗き込んでくることから、時々奇声を漏らすことにしている。
やがて、ぼんやりとした視界にふわふわとした金髪が映った。
「あらあら、どうしたのイリス。お腹がすいた?」
「あー、うあうあー」
目の前の女性は、『彼女』……イリスが意識を得てから一番見る機会が多い人物だ。
イリスは彼女を母親と確信して良いのであろう、と判断している。最初こそ言語すらも理解出来なかったが、唯一の情報源である彼女の言葉は貴重な『変化』であり、四六時中聞き耳を立てることでおおよそ解解読可能となっていた。
軽くカールした金髪に蒼空より青い瞳。海外で活躍するモデルと遜色ない絶世の美貌ながら、その目元は優しげに微笑んでおりカメラの前に立つ人種特有の固さはない。
彼女の名はスピア。スピア・ブライトウェル。
その他に家族は祖父らしき人物を確認していたが、何故か父親とおぼしき男性を見たことはなかった。
やっぱり聞いたことのない言語だ、と思考するイリス。
イリスは未だ、生まれ変わったここをどこかの外国であると認識していた。知らない言語など幾らでも存在するので、無理もなかろう。
ただ、スピアがヨーロッパ系の顔立ちであることが僅かに疑問を抱かせる。ヨーロッパの言語は国同士が地続きであるが故に、国ごとに明確に別れているわけではない『方言』のような違いが区分の基準となる。
つまり、多少は英語やフランス語のような響きがあってもおかしくはないのだ。
とはいえこの仮定は自分がヨーロッパ圏にいる、という前提の元に成り立っている。例外などどうとでも考慮出来るので、あまり深刻には考えていない。
「うーん、遊んでほしいのかしら?あ、そうだわ」
スピアはいそいそと外行きの服に着替え始める。イリスは何事かと注視していると、ひょいと彼女に持ち上げられた。
「今日はお父さんが帰ってくるのよ、一緒にお迎えにいきましょうか」
「ああーうぁ、ほほあーほっほーひ!」
よっしゃあ外に行けるぜひゃっほーい、などとテンションの上がった様子で声を上げるイリス。父親のことなど眼中にないあたり、彼女は薄情な人間かもしれない。
だが初めての外出なのだ。生まれ変わった現状を部屋の中でしか知らないイリスにとって、待ちに待った時ともいえる。当然の反応だった。
「ふふふ、貴女のお父さんはすっごーくかっこいい人なのよ。私の旦那様で、お爺ちゃんの義理の息子。ええと、解るかしら?」
イリスはスピアが初めての子供ということもあり、一般的な幼児の知能標準をあまり把握していない。故に生後一年にも満たない子供に返答を求めてしまう。
「あいっ」
そして返答がしっかりと戻ってくることから、おおよそ簡単な意思疏通が行えることを当然と勘違いしていた。
「きっとお爺ちゃんもお城に行っているわね」
お城、という単語に首を傾げるイリス。
定義にもよるが、現役で使用されている城は数少ない。戦争の形が変化したことで城の戦術が通用しなくなり、大仰な建築物の利がなくなってしまったのだ。
疑問符を頭の上に浮かべる娘を抱え、スピアは外に出る。
少し歩けば大通りのような場所に着き、スピアはイリスを抱えたまま器用に人の間を進んでいった。
「あうあー」
なんじゃこりゃあ、とイリスは驚嘆していた。
道幅は妙に広く確保されており近代的な感覚を覚えたが、地面はあくまで舗装されていない、土を踏み固めただけのもの。そのアンバランスさに違和感を感じたというのもある。
もっとも、イリスが驚いたのは道幅などではない。
雑踏を進むのは耳の尖った者、背が小さく筋肉質な者、獣の耳が生えた者……どう見ても、地球人類とは異質な人々だったのだ。
なるほど、映画の撮影か……とあまりに無茶な得心をするイリス。だが無慈悲にも現実は歩いてきた。
ドシン、ドシンと地面が揺れる。人々は慌てて道を開き、その巨体に先を譲る。
「おぉう(おぉう)……」
生後初めての、発声と意思が完全に同調した瞬間であった。
イリスは最初、それを大岩だと勘違いした。
次に、大トカゲだと解釈した。
最後に、現実を認めた。
「とら、ごぉーん」
ドラゴン。蛇のような中華竜ではなく、モザイクのように並んだ鱗に太い後ろ足と細い前足、背中には骨と皮の張ったコウモリを彷彿とさせる翼。
架空の存在とされたおとぎ話の代名詞が、のっそりと歩いてきたのだ。
「あら、イリスちゃんは見るのは初めてかしら? あれは土竜の老体よ」
あっけからんと説明するスピア。
「飛ぶには大きくなりすぎちゃったから、地面を歩いて竜車を引いているの」
ドラゴンが引くのは馬車に近い木製の箱。およそ地球のそれと同じ構造だが、ドラゴンのサイズに合わせ一回り大きい。
イリスはようやく現実を認める。ここは異世界なのだ、と。
少し耳の尖った人だっているかもしれない。身長なんて個人差であろう。だが、ドラゴンばかりはこじつけることが出来なかったのだ。
「あー、あー、あー……」
同じ音を、徐々に小さく繰り返すイリス。
今この瞬間、彼女の人生設計は大幅に狂っていた。
見渡しても機械的な物は見受けられず、ドラゴンが引いているとはいえ馬車などという原始的な方法で運搬を行っている。
前世にて生涯を以て愛した、飛行機という存在がこの世にあるとは思えない。
絶望するイリスだが、先程のスピアの言葉を思い出す。
『空を飛ぶには大きくなりすぎちゃったから』
それはつまり、空を飛べるドラゴンもいるということ。
人々が歓声を上げる。空を仰げば、横一列に編隊を組み飛行するドラゴンのシルエットが太陽を隠していた。
その背には鐙が据えられ、人間が搭乗している。彼等が空を住み家としていることは明らか。
「あれが、土の国の第三騎士団……この国を黒竜軍から守る、最強の竜騎士達よ」
少しでも見ていようと子供達が声を上げ、竜騎士を追いかける。若い娘は黄色い悲鳴を盛んに繰り返し、お年寄りには手を合わせる者までいた。
イリスはこの世界にも空を飛ぶ手段があるのだと、安堵……
「あああうあ、うあうあうあー!(あんなの、認められるかー!)」
……するはずもなかった。
到底空を飛べる形状ではない羽トカゲ、それをイリスの知識と経験は受け入れられないのだった。
この世界の果てがどうなっているのか、それを大人に訊ねたところで芳しい答えは得られない。
しかしこの世界に幾つ国があるのかと問うた場合、誰もがこう返答する。
「2つしか残っていない」、と。
かつて、この大陸には少なくとも4つの国が存在した。
土の国。水の国。風の国。火の国。
時に争いつつも栄華を極めていた国々は、しかし突如として歴史上最悪の悲劇に襲われる。
黒竜軍の出現である。
土の国より見て最も遠い位置にあたる火の国、その更に奥地より突如として黒い鱗を持つドラゴンが無数に現れたのだ。
それまでもはぐれの野良ドラゴンが人里を襲うことはあった。しかし襲撃は一時的、突発的な災害に近く、各国の竜騎士達を以てすれば充分に討伐可能な対象であった。
しかし、黒竜軍は違う。空を埋め尽くすほどの物量、戦術の欠片もない蹂躙。彼等は人を背に乗せるわけでもなく本能のままに暴れ、火の国を襲った。
猛勇と名高く、炎を操る火竜とその竜騎士。歴史上多くの英雄談を産み出した騎士達だが、彼等の抵抗も黒竜軍の前には児戯に等しかった。
小細工など通用しない。ほどなくして火の国は滅び、多くの民は食い散らかされ、僅かに国外へ逃れた人々も難民として苦しい生活を強いられる。
地理的な都合から、次の黒竜軍の侵攻先が風の国であることは明白であった。当然、風の国の王は考えられる限りの策で黒竜軍を出迎える。
火の国が滅ぼされるまでの10年間。風の国は最前線へ援軍を送りつつ、黒竜についての情報を集め続けた。
習性。飛行速度。魔力。知性。それら知り得た情報から得られた答えは、風竜は黒竜に負けることはない、というものだった。
黒竜。突如として現れたこの新種のドラゴンは、気性の荒さから勘違いされがちだが個々の能力は決して高くはない。ましてや運動性能に優れ対ドラゴン戦闘では敵なしとされる風竜、それを操る竜騎士ならば敗北しようがなかった。
充分な物資の備蓄、士気の高い騎士達。10年間の成果を出すべく、風の国の国王は自信を持って腕を降り下ろす。
開かれる戦線。駆逐される 黒竜。
戦争は熾烈を極め、15年後に決着が着いた。
風の国、壊滅。
確かに黒竜は他のドラゴン種と比べ明らかに弱かった。だが、その物量という暴力は風の国の想定を大きく上回っていたのだ。
初戦こそ快勝した彼等だが、回数を重ねるごとに疲弊。騎士達も徐々に数を減らし、やがて防衛ラインを維持出来なくなる。
後は負け戦であった。ただ後退することしか出来ず、防衛ではなく時間稼ぎの戦術に終始する。形勢逆転など到底望めず、せめて一人でも多くの民を国外へ逃すことだけに全力を注ぐしかなかった。
数多の犠牲の末、自国民の避難を終えた風の国は地上より消滅する。幸いというべきか否か、火の国とは違いほとんどの非戦闘員を脱出させられたのが唯一の戦果であろう。
次の戦場は水の国であった。
名前の通り水資源に恵まれたこの国は、立地上攻め込むのが極めて難しい土地とされている。その理由が、面積のほとんどを占める海と、飛び石のように浮かぶ諸島であった。
水の国は大小様々な島々で構成される国家。元より島国とは攻めにくいものとされているが、黒竜軍の場合はそれが特に効果覿面であったといえよう。
黒竜軍とは軍と称されつつも、その実何ら文化的技術を持たないただの生物だ。当然、どの国でも使用されていた道具すら使用されていない。
そう、船である。
船舶を運用出来ない黒竜軍は、黒竜の自力飛行移動によって侵略するしかない。だが風の国から水の国まではかなりの距離があり、途中の休憩もなくドラゴンが飛べば相当疲弊する。
即ち、ほうほうのていで水の国に辿り着いた黒竜には竜騎士と戦うほどの余力が残っていなかったのである。
立地を最大限利用した水際防衛。生活圏を半分以上失い、ようやく人類は黒竜軍の侵攻を食い止めることに成功する。
最前線となった水の国、その後ろの土の国。
国土全体を戦場とする水の国はおよそ国として機能を果たしておらず、事実上まともな人類の生活圏は土の国を残すばかりとなっていた。
抗竜戦暦55年。人類は未だ、未来に明確な希望を見出だせずにいる。
イリス達ブライトウェル一家が住まう土の国の王都クルツクルフ、その王城裏には巨大な施設が存在した。
クルツクルフ国防本部。才能ある者が国中より集い、祖国を守るべく様々な鍛練や研究を行う国家の屋台骨である。
重要な軍事施設だが、使用しているのは正規の騎士ばかりではない。中には年齢が一桁の少年少女すら、未来の竜騎士を目指し鍛練に励んでいる。
とはいえ、やはりメインの施設利用者は城勤めの騎士だ。彼等の宿舎もまた隣接されており、正規騎士が今も鍛練場で苛烈な訓練に挑んでいる。
空を舞う2匹のドラゴン、そして騎乗する竜騎士。騎士達は見えない縄で結ばれているかのように、交差と加速・突撃を繰り返している。
甲冑によって竜騎士の顔は見えないが、一人は壮年の男性、一人は年若い青年だ。男性は青年の剣技を欠片も揺るがない眼光で見据え、軽々といなしていった。
鉄壁の如く崩れることのない男性の防御に、痺れを切らす青年騎士。
青年は『とっておき』を披露することする。彼に最も相性の良い水の精霊を行使した魔法だ。
「我が眼前の敵を退け、大気に潜む水の精霊。麗しき宝玉の涙は奔流となれ。ミルティホール!」
空中より出現した水は勢いよく試合相手に突き刺さる。イリスの感覚では消防車の放水くらいであり、飛行中の相手を揺さぶる牽制としては充分であろう。
「お前は水の国出身だったか。……だが」
しかし壮年の男性、イリスの父ルバートは動揺もせず相竜の土竜を翻して水砲を回避する。易々とミスティホールを避けられたことに焦ったのか、青年騎士は更なる魔法を試みた。
「隻腕の王よ、瞬きを……隻腕の王よ、瞬きの間を驟雨となれっ。レッタフィル!」
瞬間的に放たれる水の散弾。しかし一度の詠唱失敗に焦り、イメージもろくに固まらないままに放たれた魔法は四方八方に四散する。
「呪文詠唱は絶対に焦るな。急いたところで早くなるわけではない」
魔法を正しく発動することは、戦場において最も重要な技能の一つ。それを怠った時点で青年騎士に勝ち目はなかった。
彼がもたつく間にルバートは急速接近、すれ違い様に模造剣で相手の腹に一閃。横凪ぎの打撃を打ち込む。
「ぐはぁっ!」
「まだやるか?」
試合相手は苦しみのあまり戦闘不能となり、降参の意思を示すべく両手を上げた。
二三アドバイスし、地上へと戻るルバート。普段は騎士団長として厳しい表情を崩さない彼であったが、今日は少し例外であった。
普段から近所の子供によく泣かれる厳つい顔を最大限に解し、柔和な表情を心掛ける。……成果などほとんどでていなかったが。
彼が向かったのは演習場の見学席。閑散とした座席にちょこんと座り、空を真剣に見上げていた少女の元だ。
サラサラと流れる金砂の髪に、エメラルドグリーンのぱちくりとした瞳。愛らしい人形を思わせる少女は、他の誰でもないイリスである。
何故イリスが空を見詰めていたか。否、彼女が空を見上げるのは前世からの習性に等しいが、今回彼女が父の模擬戦を見学していたのは、彼女本人の要望であった。
「イリスどうだ、何か得るものはあったか」
おずおずと話しかけるルバート。父娘だというのに、その様子はどこかぎこちない。
「はい、とても冷静な判断だと思いました」
「ほう。どこがだ」
ぎろりとイリスを睨むルバート。本人としては睨んでいる意識など全くないが、これが素なのである。
ルバートは根っからの軍人であった。幼子への話し掛け方など心得ているずがない。
会話が成立しているのは、一重に相手がイリスだったから。普通の子供ならば間違いなく既に5回は泣かせている。
「ええと。水の魔法を使われた時、無理に回避しようとせず翼の風を乱して僅かに落下しましたよね? 本来は空を飛ぶ理屈としては間違っていますが、それをあえて引き起こしたのが凄いと感じました」
父と生活するようになって早2年。3歳となったイリスは、そこらの子供より遥かに多い語録を駆使していた。
何の因果か女性に転生してしまった以上は、女性口調をしなければ違和感が残る。だが言語は違うとはいえ中身が男性のイリスには、女性口調に抵抗があった。
そこで、地球でも使い慣れた丁寧語を日常的に使用することで妥協し落ち着いていた。
「ほう、確かに翼をこう……上に捻るとな、なぜか浮かぼうとする力がフッと消える。イリスはそのことを知っているのか」
「……しっそく、です」
失速。翼の表面から気流が剥離することで、正しい原理で揚力を維持することが不可能となる現象である。
地球においては飛行機の常識とされる知識だが、この世界においては感覚的に知られている。学術的な検証が成されていないのだ。
「興味深いな。詳しく見解を聞かせてほしい」
請われ、イリスは図を交えつつ翼の基礎原理を話す。ルバートはそれを頷きつつ静かに聞いていた。
「なるほどな。どこでこれを学んだのだ?」
ルバートは勤勉な男だったからこそ、それが未知の理論であることにすぐ気付いた。
イリスもそれを承知しているので、適当な嘘で誤魔化す。
「……実験から得られたデータで導きだした理論です」
実際、風魔法で一定の風速を得ることで実験を行うことは不可能ではない。不自然なほど突拍子もない理屈であることは間違いないが、それでもルバートは一応の納得をした。
「イリスは天才なのかもしれんな。将来は学者となり、国の礎となるべきだ」
「がくしゃ、ですか?」
不思議そうに首を傾けるイリス。
「父上は、私を竜騎士にしたいのだと思ってましたが」
ルバートは家でも外でも、竜についての話ばかりをする男であった。それは彼自身が如何にドラゴンを愛しているかの証左であるともいえるが、イリスはてっきり娘に同じ道を志して欲しいが故のアピールだと考えていたのだ。
「イリスは竜騎士になりたいのか?」
「……どうなのでしょう。まだ、判りません」
「そう、か。決めるのはお前自身だ、焦ることはない、な」
イリスを抱き上げて、肩車をする。彼なりに父親らしい行動を模索した結果だった。
更に赤子のあやし方と勘違いしているのか、くるくると回り始める。前世で鍛え上げた三半規管はこの世界にも引き継がれているのか、イリスはそれなりの高速回転にも関わらず気分を害することはなかった。
ぴたりと停止するルバート。無言でなすがままに父の頭に掴まるイリス。
僅かな沈黙が彼等の関係を如実に表していた。
「……では次はどこを見学する?俺の権限なら国家機密の書庫も開けられるが」
「真顔で混乱しないで下さい、そこを開けてはいけません父上。貴方が失職すれば母上と私が困ります」
ルバートの父、イリスの祖父も現役の職人なので収入が途絶えるわけではないのだが、そこはあえて黙っておくことにした。
父親が無職だというのは子供として心苦しいのである。
「ルバート様! ここに居りましたか」
若い騎士が駆けてきた。
「どうした、今私は忙しいのだが」
娘との対話は実に苦労する労働であった。
「アンドリュース大臣がお呼びです。先の遠征について聞きたいことがあると」
「む、仕方がない。イリス、この施設から出ずに待ってなさい」
「はい、父上」
本部内では滅多なことはないと踏みつつも、心配そうに時折振り返りつつ去る父親を見送る。姿が完全に見えなくなり、溜め息を吐くイリス。
ふと影が射して見上げれば、ルバートの相棒である土竜バルドディがイリスを見下ろしていた。
バルドディはイリスをまじまじと見て、フガッ、と鼻で笑う。
「……理解不能です」
何度目になるか判らない吐露は、眼前のトカゲだけが聞いていた。
表面気流が正しく流れないことによる揚力の喪失、失速。飛行機にとって基礎中の基礎すらもこの世界では理解されていない。
そも、ドラゴンという生物は航空力学に真っ正面から反した存在なのだ。空気抵抗の大きい鱗の凹凸だらけの胴体、なぜ存在するのか理解に苦しむ小さな前腕、重量に対して小さすぎる翼、飛行中は重しでしかないのにやたら屈強な後ろ足。
理不尽の塊、不都合の結晶。
そしてなによりも、騎士の操縦がドラゴンの意思を介して実行されるという不自然さ。
地球の飛行機は操縦幹の動きをダイレクトに舵へと伝える。操縦した分だけ舵は忠実に動き、その結果の問題発生も全てパイロットに起因する操縦ミスとして片付けられる。
しかし竜騎士は違う。時にドラゴンは騎士に反し、勝手な行動を取ることもすらある。
勿論問題点ばかりではない。気絶した竜騎士を背負ったまま、ドラゴンの判断で基地へと帰還したという話も多く存在する。これは飛行機では成し得ないことであろう。
だが、それでもイリスには納得の出来ない世界であった。彼女はバイクには乗れても馬には乗れないタイプの人間なのである。
「違います、これはフライバイワイヤです、ちょっと信頼性の低い生体コンピューターを積んでいるだけです……」
ブツブツと呟きだしたイリスをバルドディは不審そうに見つめる。
「信頼関係……信頼?」
イリスにとって空飛ぶ乗り物への信頼とは、整備士への信頼であった。彼等もまたパイロットと同じく厳しい訓練を積み、機体をほぼ完全な状態に維持しているのである。
意思もろくに通じない爬虫類を信頼するなど、彼女の中には発想すらなかった。
イリス生後1年間、ルバートが家に不在だったのは第三騎士団が大規模遠征中だったからだ。
水の国の諸島は緩衝地帯として機能しており、定期的に黒竜を駆除する必要がある。
黒竜の航続距離からすれば風の国から水の国へ海を渡るのは一苦労だ。とはいえ、横断不可能なわけではない。
少数の 黒竜は島々の横断に成功し、時間の経過と共に数を増す。そして小さな島のキャパシティを越えた時、彼等は次の島を目指して再び海を横断する。
これを繰り返し、やがて黒竜は土の国へと到達する。それを防ぐべく、かれこれ土の国の定期遠征は30年間も続いているのだ。
暗黒領域より黒竜軍の侵攻が始まり、10年で火の国は陥落した。
そして15年後、風の国が陥落。
そこから更に33年。遠征任務は功を奏し、現在黒竜軍の侵攻は完全に食い止められている。
最初の悲劇より58年経った今、人々は現在の水際防衛戦術を信じきってきた。
……多くの人々は、彼等が人類の半数以上を食らったことも忘れて。
長期遠征任務から帰還したルバートを加え、本来の面子となったブライトウィル一家。
しかし、イリスは初対面であった父親との距離の取り方に戸惑っていた。
厳密にはドラゴンという、未知の存在への苦手意識。操縦の通りに動く飛行機は扱える彼女だが、生物に乗って空を飛ぶ感覚はまったく理解出来なかった。
尤もそれは、ルバートも同様だ。彼にしてみれば遠征より帰還してみれ生後一歳となった娘がいた、という突拍子もない状況であり、自分の娘とて異星人に等しい未知の存在である。……実際、精神は別の星の出身者だが。
「そもそも、なんであれで飛ぶのか解りません」
飛行機にとって最も困難なのは離陸の瞬間だ。数千メートルの滑走路も、飛び立つのに必要な最低限の速度を稼ぐにはあまりに短い。
だからこそ飛行機は離陸の時、その機体に搭載されたエンジンの出力を目一杯にまで上げて加速する。限られた距離でどのように最低離陸速度まで加速するか、それが最大の問題なのだ。
だがドラゴンは違う。こともあろうか、その場でバッサバッサと何度か羽ばたいただけで重力を振り切って浮かび上がってしまうのだ。
唖然としたイリスがどういう原理で浮かんでいるのか大人に訊ねても、「翼を動かしているからだよ」としか答えない。根本的に翼の役割を理解していないのだ。
「翼の羽ばたきでホバリング出来る鳥だって勿論いますが、ドラゴンのアレは絶対に違います」
イリスの経験上、ドラゴンが飛び立つ時にすぐ下にいても風をほとんど感じたことはない。これは彼等が翼で揚力を生み出しているわけではない、という証明だ。
風を起こさず浮き上がる可能性。一つはドラゴンが見た目よりずっと軽いという場合。もう一つは、それ以外の力による浮遊。
「反重力なんて科学ではないでしょうから、考えうる最後の可能性は……魔法、でしょうね」
魔法もまた、イリスにとっての鬼門であった。興味をそそられて学ぼうとしたこともあったのだが、精霊、魔力、呪文といった既知の概念の外側を闊歩する単語の数々に頭痛を禁じ得なかったのだ。
「それでも、航空力学よりは遥かに学問としてのアプローチが成されている。なんとか噛み砕いていくしかないでしょう」
結果として噛み砕き過ぎてしまうことは、この時には誰も知らぬことである。
四苦八苦しつつも魔法の勉強に乗り出したイリス。
クルツクルフ防衛本部への入学試験は厳しいが、一般人でも最低限学ぶ機会は用意されている。優秀な人材を逃すほど余裕のない土の国ないし人類世界において、才能のある者を見付けるのは急務なのだ。
故に教科書の貸し出しや青空教室といった制度は充実しているし、まして第三騎士団団長の娘であるイリスは親にねだれば自分用の教科書を用意してもらうことも容易かった。
朝から雨ということもあり、自宅で真新しい本と睨み合うイリス。
「この世界は4体の基本となる大精霊によって形作られており、精霊と契約することで魔法を……うむむ、原子論は通用しないのでしょうか」
元より勤勉な彼女にとって、未知とはそれだけで挑む価値のある挑戦。
なんとしても魔法を我が物にしてみせよう。その意気で自宅の居間にて抽象的な記述の多い教科書とにらめっこしていると、ルバートが突然帰宅してきた。
「イリス、イリスいるか?」
ずかずかと家に入ってきたルバートを、スピアは驚いた様子もなく出迎える。
「あらあらどうしたの貴方? まだお仕事の途中でしょう?」
「パトロールの途中だ。珍しいものが見えるから、イリスを空中散歩に誘いに来た」
「そんな、娘をデートに誘うだなんて……私のことは遊びだったの?」
ルバートとスピアの夫婦漫才もほどほどに、ひょいと抱き上げられるイリス。
「父上、いいものとは?」
「見てからのお楽しみ、というやつだ」
何度か不器用に瞬きをするルバート。イリスは目にゴミでも入ったのかと解釈するが、本人としてはウインクのつもりだった。
家の外で待機していたバルドディに飛び乗るルバート。この世界の人間は地球と比較して身体能力が高く、イリスを抱えたままでも容易に数メートルほどジャンプしてしまう。
「先程まで雨が降ってましたが、いつの間にか晴れていたのですね」
「雲がまだ近い、再び降らないうちに行くぞ」
ふわりと浮上するバルドディ。
慣れない感覚に思わずイリスは声を漏らした。
「ひうっ」
「どうしたイリス、怖いのか?」
「いえ、平気です。ドラゴンに乗るのは初めてだったので、驚いてしまって」
未だ原理を解明出来ていない垂直離陸を体感したことも奇声の理由の一つだが、飛行機には馴れているイリスとはいえ垂直離陸の感覚には不馴れだったのだ。ヘリコプターパイロットであれば別だったのだろうが。
ルバートは、むっ、と唸る。
「竜騎士に憧れていた者でも、実際飛んでみると高さに参ってしまうということもある。恐ろしいのなら正直にいうのだぞ」
「ご冗談を。それは『絶対に有り得ません』」
毅然と否定するイリス。元パイロット訓練生として、高さに恐怖するなど到底有り得なかった。
垂直上昇から水平飛行に移行するバルドディ。
「思ったより、上下に、揺れるんです、ねっ」
「慣れるしかないな、それは」
ドラゴンは飛行中、羽ばたきによって推進力を得る。飛行機とは異なる方法だが、物理法則に則っているだけあってイリスの抵抗感は少なかった。
「ああ良かった、『浮いて』いない。『飛んで』います」
「どう違うのだ?」
「全然違います」
安堵するイリス。バルドディは高度を上げていく。
つい癖で、キョロキョロと周囲を見てしまう。これは戦闘機パイロットの習性なのだ。
その様子を見て関心した様子のルバート。
「周囲警戒など誰に教わったのだ?まるで歴戦の騎士のようだな。あ、いや、あまり後ろは見ないでくれ」
どうやらルバートの見せたいものは背後にあるらしく、振り返ったイリスの視界を大柄な上半身で塞いだ。
「そろそろ3000フィートくらい、でしょうか」
聞かれては面倒なので、小声で呟くイリス。
「よし、そろそろだ。雲がかかっているかと心配したが、巧く開けたな」
バルドディが旋回し、王都クルツクルフへと首を向ける。
「ーーーーーー。」
イリスは声も出せなかった。
雨上がりの澄んだ空気、高い空より一望するクルツクルフの全景。
雲の額縁から覗く細やかで活力に溢れた営みは、高度3000フィートからも色鮮やかに映る。
空からの遠景はひどく懐かしく、そしてイリスの何かを思い起こさせるものであった。
「俺達騎士団は、この国を守っているんだ。襲来してくる黒竜を蹴散らして、民間人が怯えずに済むように。どうだ、凄いだろう?」
自然にイリスは、志し半ばで果てた友を思い起こす。
国を守る尖兵となるべく、日々鍛練していた友人。
彼の抱くそれは、愛国心などという高潔なものではなかった。垣崎がそんな殊勝なことを考える男ではないことは、イリスも知っている。
そして、彼がどれだけ真っ直ぐな男であるかも。
悔しさ、それと望郷。溢れ出した感情に困惑するまま、イリスは涙を流す。
イリス以上に慌て困惑する羽目になったのはルバートであった。
「ど、どうした!? す、すまん、すぐ地上に戻るぞっ!」
普段イリスが泣いたり我儘を言って他者を困らせることがないからこそ、ルバートは狼狽した。
「ちがっ、違うのです」
首を振るイリス。
「もう少し、飛んでいて下さい。ここは好きなんです」
羽ばたきを止め、滑空するバルドディ。イリスは体を反らすように蒼い空を見上げ、更に高い場所へと手を伸ばす。
見慣れた顔にも関わらず、ルバートは娘の顔に息を飲んだ。
本能で確信する。この娘は、自分より高い空を飛べるのだと。
「父上」
「む?」
「私、竜騎士になります」
「な、急だな」
「絶対になります。クルツクルフは私の故郷、外敵になど指一本触れさせません。……今度こそ」
伸ばした手の指をぎゅっと握り締める。
ここに、誓いは再び結ばれる。
手段も理屈も異なる、異世界の空の守り人。
手に握るのが操縦幹ではなく手綱であろうと、彼女はこの世界でも空を飛ぶことを誓った。
まだ誰も知らない小さな少女が、やがて人類の未来を大きく変える。
そのことを、未だ誰も知るよしもない。