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「央芽、今日サークル行かね?」
梅雨らしいジメジメとした気候の続く六月の半ば。湿度に引っ張られて気分も乗らないので、さっさと帰って芽依の顔を見ようとばかり思っていたのだが。
「露骨に嫌そうな顔すんなって」
満面の笑みで剛史が背中を叩いてくる。こいつ、何でこんなに元気なんだ?
「ていうか俺サークルなんて入ってねえぞ」
「そんなの知ってるって。だから俺の入ってるサークルに行くぞ。ハルもいるし、心細くはないだろ」
まあ心細くはないが、そういう問題じゃないだろ。
「でも帰って芽依と……」
「だーもうお前はすぐ芽依が芽依がって。いちゃいちゃし過ぎだろこの野郎。ほら、たまには思いっきり動こうぜ。絶対楽しいからさ」
ここまで押されてしまうと、無下に断るのも申し訳ない。別に興味がないわけでもないし、芽依には後で遅くなると連絡しておこう。
「じゃあ行くよ。それで、どんなサークルなんだ?」
剛史は、にへらとだらしない笑みを浮かべた。
「色んな学部の集まる、バドミントンサークルさ。言っとくけどうちの女子、レベル高いぞ」
最後のは心底どうでもいい。
広大な大学の敷地の端にある、第一体育館。ここに来たのは、新入生オリエンテーションとやらで新入生全員が集められた時以来だ。第一とうたってはいるが、別段飛び抜けたところでもない、普通の体育館だ。というか、第二体育館というものが多分あるんだろうが、そっちは見たこともない。
こんな外れにある体育館に、多くの人が集まっていた。知らない顔も多いが、中には同じ学科の奴なんかもいたりして、俺はそいつらの元へと向かった。
「おう和久じゃねえか。お前もこのサークル入ったんか」
「ああ、剛史に誘われたもんでな」
えっと、何ていったっけなあこいつ。剛史と同じくらい浮ついた奴で、そこそこ目立ってるんだけど、名前が出てこない。まあいっか。名前なんて呼ばなくても会話はできる。
「ああ、あいつなら丁度夫婦漫才の最中だわ」
夫婦漫才? ああ知遥のことかな。入ってるって言ってたし。
「ふんっ、いい球返してくるじゃないタケ。じゃあこれでどうっ?」
「へっ、所詮はハルだな。シャトルが止まってみえる、ぜっ」
「何をっ!」
「ははははは」
えっと、さっきから全くシャトルが見えないんだが。でも二人ともラケット振ってるし、シャトルを弾く音もするから、バドミントンをしてるのは確かなんだよな?
「おっ央芽じゃねえか。来ないかと思って心配し――」
「隙ありっ!」
こちらを向いた剛史の顔を掠めて、シャトルが横切った。
「うわあっ。ちょっ、そのタイミングは卑怯だろハル」
「よそ見するタケが悪いんだよーだ」
「何だと!?」
えーっと、帰ろっかな。
「あー和久君いらっしゃい。このバカは放置してアタシとやる?」
先ほどの剛史を掠めたシャトルが脳裏に蘇る。
「いや、遠慮しとくよ。まだこんなとこで死にたくない」
「何よそれー。大丈夫だってえタケん時みたいに顔面狙ったりせんから」
おい、さっきのは狙ってたのかよ。こいつ剛史相手だと本当に遠慮がないな。
「やめといた方がいいぞ央芽。あいつ夢中になると見境なくなるから」
耳元で剛史がそう囁く。うん、何かわかるよ。普段の知遥の勢いを見てたら、俺もそう思う。
「えー本当に狙わないってえ。じゃあこれでどう? もし私が和久君の顔面狙ったら、その回数だけ何でも和久君の言うことを聞く」
何故か必死の形相で腕を掴まれる。痛い痛い。芽依とは違って冗談抜きで痛い。
「わかったよ。そんなに言うなら、お手柔らかに頼むわ」
「よっし。じゃあやろやろー!」
張り切る知遥に一抹の不安を感じながらも、バドミントンというものを楽しもうと俺も頭を入れ替えた。
結局俺は、五つ知遥に好きなことを命令できることとなった。
「いやあ、本当にごめんね、和久君」
知遥がペロッと舌を出しながら、言葉ほど悪く思っていないであろう謝罪をする。その横を歩く剛史は「それ見たことか」と知遥をからかい、激しく足を踏まれていた。高校時代卓球をやっていただけあって、近い距離からの速球には慣れている。だが迷うことなく顔を狙われるのには慣れていない。避け損なったスマッシュを受け止めた鼻をさすりながら、思わず苦笑した。
「まあいいけどさ。約束は守ってもらうぞ」
「うー……アタシが言い出したことだしね。お手柔らかにお願い。タケじゃあるまいし、そこんとこはあまり心配してないけど」
「おいおい、俺だったら心配なのかよ」
足を踏まれたのを気にした様子もない剛史が軽く尋ねると、知遥がいつも以上に冷めた目を向けた。
「タケには前科があるからね。ほら、小六のときのアレ」
「小六? ああ、無抵抗でかんちょ――」
「それは言うなバカーっ!」
知遥がバドミントンのスマッシュと変わらないスピードの拳を剛史に向けるが、剛史はそれを身を引いて躱した。だが息をつかず放たれた蹴りは避けられず、剛史は股間を抑えてうずくまった。うん、あれは痛い。
「じゃ、このアホは置いといて行こっか、和久君」
知遥は引きつった笑みを浮かべていた。全身のオーラで「さっきのことは忘れろ」と表現している。ここはそっとしておくべきだよな、うん。
「で、無抵抗で何をされたんだ?」
「ちょっ、和久君。それは――!」
「約束」
今まで怒りで顔を赤くする知遥は何度も見てきたが、羞恥で頬を染める知遥は初めて見た。新たに知った知遥の一面は、彼女の印象を少し塗り替えた。普段の気の強さからは想像もつかないほど、こういった姿は弱々しい。
「もう。……カンチョーされたの。一緒にお風呂入った時」
カンチョーならまあ、うん。小学生だったらギリギリアリかな。俺は女子に対してやったことないけど。でもそんなことよりも――。
「一緒に風呂って……」
「え、突っ込むところそこ? だって小学生だよ。別に普通じゃん」
拍子抜けした顔の知遥から、完全に照れが抜けている。幼馴染ってそういうもんなのかな。でもよくよく考えたら、俺も姉ちゃんが高校上がるまでは時々一緒に入ってたし、普通のことなのかな。でもそれは俺がまだガキんちょだったからだろ。それに血縁でもない異性の、それも同級生の裸なんて、普通抵抗がないか?
「いやいやいや、小六っつったよな。女子とかはもう、色々大人になりかけてんじゃないの?」
「ああ、アタシは発育遅い方だったから。その時は胸ぺっちゃんこだし、下の毛も生えてなかったよ――って何言わせてんのよバカー!」
「いてて、自分で勝手に言ったんじゃねえか」
ポカポカと殴ってくる知遥は、剛史の時と比べると遥かに加減しているのだろう。それでも充分痛いけど。芽依のポカポカ殴りは、痛いっていうよりくすぐったいんだけどな。
ふと左腕に巻かれた腕時計に目を落とす。二十一時過ぎ。芽依には遅くなると伝えてはあるが、それでもそろそろ心配しているかもしれない。きっと晩飯も一人で食べたんだろうな。芽依は気にしなくていいと言っていたが、やっぱり罪悪感がある。
「ま、いっか。どうせそれは昔のことだし。あっ風呂はそのカンチョー騒動以降、一度もタケと一緒に入ってないからね」
「それ以降も入ってたって聞いたらそれこそビックリだよ」
昔は発育が悪かったかもしれないが、今の知遥はかなり発育の良い方だと思う。胸なんかは明らかに芽依より大きい。芽依だって決して小さいわけではないけど。
「ははは、まあそうだね。それで、あと四つ残ってるけど、何して欲しい?」
「そうだなあ、今度飯でも奢ってもらうかな。下宿生は貧乏なんだよ」
晩飯は芽依の仕送りと折半しているが、昼食は完全に自腹だ。正直食費だけで小遣いのほとんどは消し飛んでしまう。
「えー四回も奢るのお」
そう言って笑う知遥。うずくまりながらも復活の兆しの見える剛史。かけがえのない友人と、かけがえのない時間を過ごしている。そのはずなのに、さっきから不吉な予感が胸を掠めるのは、何故なんだろうか?
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