己の行き先、迷わぬよう
そういえば、今日は金曜日だ。
だが、だからといって、女の帰り道が変わることはなかった。
女が会社を出たのは、十八時を少し回った頃だった。
空はようやく日が沈み始め、自動ドアを抜けると、昼間の熱を僅かに残した風が頬に触れる。
金曜日の街は、週末へ向かってどこか浮き立ち、街行く人の足取りは軽い気がする。
いつもより多くの人で溢れ、いつもより人の声が大きくなる街は、他の曜日よりも少しだけ歩きにくかった。
会社の最寄り駅に着くと、駅構内では、若い女の子達がスマートフォンを覗き込みながら、どこへ行く、何を食べる、と楽しそうに相談している。
誰かがダイニングバーの名前を読み上げると、誰かが「そこ前も行ったじゃん」と笑い、また別の店の名前が挙がった。
女はその横を抜けながら、改札を通り、いつものホームからいつもの電車に乗った。
車内は混んでいた。
女はドア脇の手すりに掴まりながら、窓にぼんやりと映る自分の顔を眺める。
疲れているようにも見えるし、そうでもないようにも見えた。
自分でも、よく分からなかった。
女はそこから目を逸らして、鞄の中からスマートフォンを取り出す。
画面にはいくつかの通知が並んでいたが、それらを開く気にもならず、他に見るものもなかったため、一度画面を消した。
自宅の最寄り駅に着く頃には、空はゆっくりと、オレンジから紫、そして群青へと移り変わっていた。
改札を抜け、駅舎を出たところで女は一度足を止める。
『今から帰る』
メッセージアプリを開き、母親とのトーク画面にそれだけ打つ。
送信して、既読がついたのかどうか確認することもなく画面を消し、鞄の中にしまった。
「帰る時は連絡してね」
入社したばかりの頃、母親にそう言われた。
それ以来、帰宅時の連絡は自然と習慣になり、今では、女と母親の間の暗黙の了解となっていた。
連絡を入れる理由を、女はわざわざ考えたことがない。
母親が夕飯を温める目安にしているのかもしれないし、もしくは、心配性な母親にとって、娘から届く一言が安心材料になっているのかもしれない。
女が送る。
母親が受け取る。
意味は、さほど重要ではなかった。
駅前には飲食店が軒を連ねており、居酒屋の軒先を彩る赤提灯が、妙に鮮やかに浮かび上がっている。
居酒屋の出入口のドアには、「生ビール半額!金曜限定!」と書かれた紙が貼られ、ドア横の立て看板には、豪快な筆文字で「華金!」と書かれていた。
店の前では、頭にタオルを巻き、黒いTシャツを着た店員がメニューを掲げ、まだ微妙に明るさの残る空の下で声を張っている。
「お姉さんも一杯どうっすか!」
不意に声をかけられた。
女は首を横に振りながら会釈し、声を避けるようにその場を後にする。
飲みたいとは思わなかった。
少し歩くと、焼き鳥の屋台の前を通りかかり、甘辛いタレの焦げる匂いが鼻を掠めた。
屋台の前には、仕事帰りであろうスーツ姿のサラリーマンが何人か固まっていて、そのうちの一人が、まだ七時前だというのに、かなり赤い顔をしていた。
ちょうどそこへ、遅れていたらしい男が一人、手を振りながらやって来る。
先に出来上がっていた仲間達が笑いながら手招きし、男が席に着くなり、その肩を抱く。
「せっかく金曜なんだから、飲めって!」
男も嫌そうにはせず、むしろ笑いながら相手を軽く押し返していた。
焼き鳥屋から流れてくる煙が目に染みたため、少しだけ足早に屋台の前を通り過ぎる。
声は段々遠くなった。
ただ──
「せっかく金曜なんだから」
その言葉だけが、妙に耳に残っていた。
更に、先程見かけた居酒屋の看板に書かれた「華金」の文字も思い出す。
女も一応、その「華」の側にいるはずだった。
だが、女にとっては、曜日などほとんど大差なかった。
月曜日も。
火曜日も。
水曜日も。
木曜日も。
そして今日も。
金曜日はただ、一週間の中で、一区切りがつく日というだけだ。
明日、明後日は休みの人も多いだろう。
だからこそ、金曜日の夜、街は胸が踊るような空気に満ちているのだろうと思う。
かくいう女も、土日は休みだ。
明日の朝は目覚ましをかけなくていいし、満員電車にも乗らなくていい。
そのことを考えると、ありがたいし、少しだけ気が楽になる。
だが、それを「嬉しい」と呼ぶのは、どこか違う気がした。
街行く人達は誰も彼も、一週間を終えたことを祝い、明日を心待ちにしているように見えた。
理屈では分かる。
それでも、女には、その心が弾む感じがどうにも遠かった。
何もしなくても、明日は来る。
少し遅くまで、いや、昼過ぎまで寝るかもしれない。
それからご飯を食べて、適当に動画でも見ているうちに夜になるだろう。
それから日曜日になって、夜になれば、月曜日のことを考える。
それだけだ。
毎週そうだった。
駅前の交差点に差しかかり、信号が点滅し始める。
急げば横断歩道を渡り切れたのだが、慌てる理由もなく足を止めた。
女は大きく息をついた。吐き出した息は、雑踏の中へと呑み込まれていった。
今日という日を振り返る。
ごく普通の一日だった。
会社に行き、仕事をした。
大忙しだったわけではない。
昼休みには、同僚とくだらない話に花を咲かせたし、仕事の合間には、部署のお母さん的存在であるベテラン社員が「一息つこう」と言って配ったクッキーを食べた。
帰り際には同僚から「今週もお疲れ様」と声をかけられ、女も「お疲れ様」と答えた。
平穏無事に一日を過ごした。
仕事で大きな失敗をしたわけでもないし、面倒な相手から電話がかかってきたわけでもない。
上司は怒鳴らないし、同僚も親切だ。
残業だって、ほとんどない。
今日だって、定時から十分ほどで会社を出られた。
給料こそ高くないけれど、贅沢をしなければ生活には困らない。
不幸ではない。
ただ、いい一日だったかと問われれば、素直に頷くのはどうもしっくりこなくて、言葉に詰まる。
しかし、女は自身のことを、恵まれている方なのだと思っていた。
だから、何かに文句を言うのはお門違いだ、と。
不幸ではない。
それは事実なのだから、それで十分だろう。
十分でなければ、おかしい。
だが、ふと思う。
月曜日になれば、会社に行く。
仕事をして。
駅へ向かう。
電車に乗る。
家に帰って。
寝て。
起きる。
そしてまた、会社へ行く。
その繰り返しを頭の中でなぞっていたら、不意に全部が酷く遠く感じ、いつの間にか視線が足元へ落ちていた。
──これ、いつまで続くんだろう。
肩にかけたトートバッグが、重さを増した気がした。
中身が増えたわけでもないのに。
女は何も考えないように、鞄を肩に掛け直した。
やがて信号が青になり、人の群れが一斉に横断歩道へ流れ出す。
女も、その中に混じり、人の波に合わせて歩き出した。
その歩幅は、先程までよりも狭い。
誰もがどこかへ向かって歩いていた。
家に帰る。
本来は、それが女の目的のはずだ。
だが、女はただ一人、自分の意思とは関係なく、足だけが真っ直ぐ自宅へと向かい、勝手に前へ進んでいる。
そんな感じだった。
向こうから来た若い男女の集団を避けて、歩道の端に寄る。
すれ違いざま、カラオケやらボウリングという単語が聞こえ、随分はしゃいだ様子だった。
楽しそうだな、と思った。
それだけだった。
いいな、と羨むことはなかった。
逆に、うるさい、とも思わなかった。
女にも、一緒に飲みに行く相手が全くいないわけではない。
誘われれば飲みに行くこともあるし、行けばそれなりに話す。
笑うこともある。楽しいと思うことだって、きっとある。
ただ、今日は誘われなかったし、自分から誰かを誘おうとも思わなかった。
交差点を渡りきり、自宅までは残り十五分ほど。
駅前の大通りをまっすぐ進んで、ドラッグストアのある角を右に曲がる。
クリーニング店の前を通り過ぎて、小さな公園を抜ければ、あとはほとんど一本道だ。
いつもと同じ、何度歩いたか分からない道のりだった。
その途中にあるコンビニの前を通りかかったとき、店先ののぼり旗が目に入った。
期間限定のクリームの乗ったカップデザート。写真は美味しそうだった。
ほんの少し足を緩めた。
買おうかと思ったわけではない。
食べたいかどうか考えてみたけれど、それもよく分からなかった。
ただ、新商品なんだ、と思った。
結局そのまま通り過ぎようとすると、タイミングよくコンビニの自動ドアが開き、揚げ物の匂いが一瞬だけ外まで届いた。
家に帰れば夕飯がある。
今朝、母親に「今日の夜、何がいい?」と聞かれた気がする。
何でもいい、と答えた。
恐らく昨日も、似たようなことを言った。
女の返答に困る素振りを見せつつも、母親からは昼間に「今日は鮭を焼く」という旨のメッセージが届いていた。魚の絵文字付きだった。
昼は十二時半に食べた。
空腹らしい感覚はある。
鮭も嫌いではない。
たぶん好きな方だと思う。
だが、今それを食べたいかと聞かれたら、別にそうでもなかった。
他に食べたいものが思い浮かぶわけでもなく、食卓に並んだものがあれば、それを食べる。
何でもよかった。
我ながら便利な言葉だと思う。
ここ最近、「何でもいい」と答えることが増えた気がする。
夕飯だけではない。
休日の予定も、服を選ぶときも、誰かに「どっちがいい?」と訊かれたときも、大抵何でもいいと思う。
以前はもう少し、好きなものがあったような気がする。
でも、それが何だったのか、今はあまり思い出せなかった。
別に、不満があるわけではない。
母の料理は美味しいし、家に帰れば風呂も沸いている。自分の部屋もある。眠くなったら布団で眠れる。
今日も、何事もなく一日が終わる。
それで十分なはずだ。
ふと顔を上げると、空はもうほとんど夜に染まっていた。
ビルの隙間に僅かに残っていた夕焼けも、いつの間にか消えている。
女は少しだけ顔を上げた。
今夜は、妙に月が明るい。
雲ひとつない空に浮かぶ月は、輪郭だけがくっきりしている。
きっと、綺麗なのだろう。
だが、女にとっては、立ち止まって眺めるほどでもなかった。
女はまた前を向き、何事もなかったように帰路に着いた。
いつもの道だった。
少なくとも、その時までは。




