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ライク・ア・ローリング・ガール  作者: EDA
-Disc 8-

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347/362

08 自由な音色

 しばらくして、『チャンドラ』なるパブにおいてセッションを行う四名のセッティングが整った。

 アコースティックギターの浅川亜季、サックスのコッフィ、パーカッションのハル、ベースのめぐるという布陣である。その中で、電力を使用するのはめぐるひとりであった。


 店に準備されていたのは、部室で使用している品と同じぐらい古びていて出力の小さいベースアンプだ。まあ、こちらの店は防音の設備を整えているようにも見受けられないため、大出力のアンプなどは出番がないのだろう。なおかつ、残る三者がアコースティックの楽器であったので、その小さなベースアンプでもずいぶんボリュームを絞る必要があった。


 そして、めぐるが使用するのはヘフナーのバイオリンベースだ。

 このベースを家の外で弾くのは、初めてのことである。ベースアンプに繋ぐのも、購入してからは初の体験であるのだ。めぐるとしては、夏の合宿でフユのバイオリンベースを借りたときの記憶を頼る他なかった。


 そして今回は、普段から使用している数々のエフェクターを持ち込んでいるわけであるが――けっきょくめぐるは、プリアンプであるトーンハンマーしかオンにしていなかった。めぐるのバイオリンベースにはナイロンコーティングされた弦を張っているため、歪みやワウの出番はないように思ったのだ。


 プリアンプもゲインを絞り気味にして、普段以上に原音を活かせるようにセッティングしている。それでもトーンハンマーをはさむと音の鮮明さがずいぶん違うように思えたので、めぐるはプリアンプの重要さを再確認したような心地であった。


「さてさて。それじゃあまずは腕慣らしで、『あまやどり』でもやってみよっかぁ」


 椅子に座ってアコースティックギターを抱えた浅川亜季は、ふにゃんとした笑顔でそう言った。

 夏の合宿でも、めぐるは浅川亜季およびハルと即興のユニットを組んで、アコースティック形態の演奏を楽しむことになったのだ。浅川亜季がその際に使用していたのは愛機たるレスポールであり、どうせならアコースティックギターを持ち込めばよかったと言っていたものであったが――およそ三ヶ月半ぶりに、それが実現したわけであった。


「あたしが適当に始めるから、みんなは自由に入っちゃってよぉ」


 そんな短い言葉だけで、浅川亜季はアコースティックギターを爪弾き始める。

 ステージからもっとも近いテーブルに陣取っていた町田アンナたちが歓声をあげて、よそのテーブルからもささやかな拍手が届けられた。


『あまやどり』のコード進行に従って、浅川亜季はゆったりとギターを鳴らしていく。

 めぐるも野外イベントなどではアコースティックギターの演奏を目にしたことはあったが、これほど間近から拝聴するのは初めての体験である。さすがアコースティックの楽器というものは、生音でもずいぶんな音量であった。


 ただし、『あまやどり』はもともとすべての楽器が同時に演奏を開始させるアレンジであるため、どこからベースを重ねるかはめぐるの判断にかかっている。

 まあ、順当に考えればコードの進行がひと巡りする四小節の終わり際であろう。夏の合宿でも、めぐるはおおよそそのタイミングで演奏を開始していた。


 そうしてめぐるが四小節の終わり際にスライドを入れて、次の小節の頭でルートの音を長くのばすと――それに絡みつくようにして、サックスとパーカッションの音色も重ねられた。


 その瞬間、めぐるの背中にぞくぞくとした感覚が走り抜ける。

 パーカッションが絶妙のタイミングで加わるのは夏の合宿でも体験していたが、今回はそこにコッフィのサックスも重ねられているのだ。『あまやどり』はバラード曲であるため、コッフィのサックスもそれに相応しいゆったりとしたフレーズであったが――その音色の鮮烈さは、昨日のスタジオにも負けていなかった。


 のびやかで、人間が歌っているかのような生々しさだ。

 スタジオやステージではマイクで拾った音がスピーカーで増幅されるため、少しばかりニュアンスが変わってくる。今めぐるの心と鼓膜を震わせているのは、コッフィの息づかいそのものであった。


 もちろんコッフィのサックスを生音で聴くのも、これが初めてのことではない。つい一昨日にも、めぐるは道端でコッフィの演奏を耳にしているのだ。

 しかし今、コッフィのサックスはめぐるたちの演奏の上で吹き鳴らされている。

 四人の紡ぐメロディとリズムが、ひとつの曲を完成させているのである。その事実が、思いも寄らないほどの勢いでめぐるの心を揺さぶったのだった。


 そしてそこに、五番目の音色が重ねられる。

 浅川亜季の、歌声だ。


 さすがに歌だけはマイクが準備されていたが、近所迷惑にならないようにボリュームはずいぶん絞られている。おそらくは、アコースティックギターの生音とちょうどいいバランスになるぐらいの音量であるのだろう。めぐるもそちらに合わせて音量を調節しているため、この場で圧倒的な音量を誇っているのは加減が難しそうなサックスであった。


 しかし、浅川亜季の歌声は、サックスに負けない勢いで鳴り響いている。

 バラード曲であるのだから、シャウトしているわけではない。しかし、浅川亜季のハスキーな歌声は、コッフィのサックスと異なる角度からめぐるの心にぐいぐいと食い入ってきた。


 そして気づくと、コッフィのサックスも歌声に寄り添うようにして、音量が下げられていく。

 だが、その音の美しさに変わりはない。むしろ、哀切な雰囲気と流麗さが増したぐらいである。めぐるはまるで、二人のデュエットを聴いているような心地であった。


 ハルはボンゴとハイハットを主体とした、やわらかな演奏だ。

 スティックの代わりに小さなマラカスを使用しているため、そちらの軽妙な音色もわずかに聴こえてくる。そういうひそやかな音色でも、ハルの演奏には彼女らしい躍動感が備わっていた。


 そして、めぐるのベースである。

 ドラムがパーカッションに変じているため、めぐるもベースのフレーズをアレンジしている。もっとも影響が大きいのは、やはりバスドラの有無だ。ドラムにおける重低音を担うバスドラが存在しないため、めぐるも夏の合宿の段階で大幅なアレンジを余儀なくされていたのだった。


 バスドラが存在しない合奏でベースが音を詰め込むと、音が浮いてしまうのだ。

 かといって、ゆったりとしたフレーズばかりでは面白みがない。時には自分がバスドラの代わりを務めるような感覚で、意図的にリズムのアクセントを加えていた。


 だが――そのアレンジも、現在進行形で変化を果たしている。

 他なる三名の奏でる音色が、めぐるの心と指先を自然に動かしたのだ。おたがいがおたがいに影響を与え合い、リアルタイムで理想の合奏を追い求めていく――これこそが、セッションの醍醐味であるはずであった。


『KAMERIA』の練習においても時おり遊びのセッションが行われるが、これほど繊細な変化を味わったことはない。そもそもあちらは純然たるエレキサウンドであるため、セッションの内容も荒々しく派手派手しいのだ。


 それにやっぱりセッションを楽しむには、熟練の手腕というものが必要になるのだろう。

 めぐる自身、本当の意味でのセッションを楽しむには力量が足りていないと自覚している。十六歳という若年で、ベースのキャリアもいまだ二年足らずであるめぐるにとって、セッションというのはまだまだ見果てぬ領域であるのだ。


 めぐるは今、その見果てぬ領域に片足を突っ込んでいるような心地であった。

 それはやっぱり、コッフィの影響が大きいのだろう。歌とギターを担う浅川亜季はそれほど大幅なアレンジを見せることなく、むしろ土台を支えているような風情であったし、打楽器の担当であるハルが干渉できるのはリズムの面のみであるのだ。


 そんな中、コッフィだけは自由自在にサックスを吹き鳴らしている。

 まるで、草原を駆け回る子犬のように――あるいは、天空に舞い上がる鳥のように――コッフィの音色は、自由そのものであった。


 やがて間奏に入ったならば、コッフィの音色はいっそうの華やかさを帯びる。

 きっと歌があるパートでは、あれでも歌を引き立てるために自重していたのだろう。間奏におけるコッフィは、それこそ解き放たれたエネルギーそのものであった。


 めぐるが横目でうかがうと、コッフィはまぶたを閉ざして心地よさそうにサックスを吹き鳴らしている。

 昨日のスタジオでも楽しそうな顔は見せていたものの、こうまで没頭はしていなかった。そしてそれ以上に、コッフィの紡ぐ音色がその内心を表していた。


 コッフィが求めていたのは、これであったのだ。

 今のコッフィは、心から演奏を楽しんでいる。だからこそ、コッフィの音はこんなにも自由で、輝いているのだ。めぐるもまた、昨日とはまったく異なる浮遊感のようなものを味わわされていた。


(なんだか……浅川さんの言っていたことが、やっとわかったような気がする)


『KAMERIA』との合奏において、コッフィはこれほど自由な音を鳴らすことができなかった。きっとコッフィが自由に羽ばたくには、すべてのプレイヤーが対等な立場でいなければならないのだ。


 ただそれは、技量だけの問題ではない。昨日も今日もベースはめぐるが担当しているのだから、それは厳然たる事実であった。技量だけが問題であるとしたら、今この場ではめぐるが調和を乱していたはずであるのだ。


 だからそれは、演奏におけるもっと根源的な部分――あるいは、心理的な部分であるのかもしれなかった。

 浅川亜季の言葉を借りるならば、『KAMERIA』はまだまだ発展途上であり、四人でひとつの演奏を完成させようという意欲を燃えさからせている。他なるメンバーがそこに加わるには、同じ方向に走る必要があるのではないかと思われた。


 それで成功したのが、『KAMERIA』の周年イベントにおけるセッションタイムである。ミサキのバイオリンと、ハルのパーカッションと、坂田美月のギター――彼女たちは『KAMERIA』に寄り添って、同じ方向を目指してくれたのだ。


 また、『V8チェンソー』との合同ユニットも然りである。

 あちらもベースとドラムのリズム隊を『KAMERIA』に任せることで、走るべき方向を託してくれたのだ。そうでなければ、あれほどの調和は望めないのだろうと察せられた。


 そして、その場にコッフィとウェンを迎えて、調和が乱されそうになった際には、『V8チェンソー』の三名が死力を尽くして演奏を補強して、なんとか走るべき方向性を維持してくれたのである。それでコッフィたちも同じ方向を向きながら、好きに羽ばたくことができたわけであった。


 然して、今この場におけるユニットは――浅川亜季が、進むべき方向性を示している。なおかつそれはどこかに明確な目的地があるわけではなく、寄り道もし放題の放埓なナビゲートに過ぎなかった。


 だからめぐる自身もコッフィと同じように、好きにフレーズを紡ぐことができる。

 方向性が曖昧であるために、ためらう理由がないのだ。めぐるはその瞬間の判断で、好きにフレーズを動かすことができた。めぐるの技量が足りていないとすれば、それは選択肢の少なさのみであった。


 コッフィは、その選択肢を数限りなく備え持っているのだ。

 だからこそ、彼女はこのように自由に羽ばたくことがかなうのだった。


(でも……)


 と、めぐるはそこで初めて不安にとらわれる。

 コッフィは、これで本当に満足できるのだろうか?


 浅川亜季はコッフィの羽ばたきを制限しないように、シンプルなバッキングに徹している。そしてハルはパーカッションであるため、リズムの面でしか参加できない。だからこそ、コッフィは自由に羽ばたけるわけであるが――ただ自由にサックスを吹き鳴らしたいならば、独奏で十分であるのだ。バンド形態でセッションを楽しむならば、他の楽器との相乗効果が必要であるはずであった。


 もちろん浅川亜季たちがしっかり土台を支えてくれているのだから、コッフィは独奏よりもさらに楽しい時間を過ごしていることだろう。それは、コッフィの幸せそうな横顔と幸せそうな音色が証明していた。


 しかし、このていどの気軽なセッションであれば、誰とでも楽しめるはずだ。

 これは果たして、コッフィにとって特別な時間に成りえるのか――それが、めぐるの抱いた懸念であった。


(今のコッフィさんも凄いけど、野外イベントや『V8チェンソー』とのセッションでは、もっと凄かった。これだったら『V8チェンソー』の練習に参加したほうが、もっともっと楽しいはずだ)


 めぐるがそんな風に考えたとき、まぶたを閉ざして陶然とサックスを吹いていたコッフィが、ふいにぱちりと目を開いた。

 そして何故だかめぐるのほうに向きなおり、いっそう鮮烈な音色を放出させる。

 楽曲の進行としては、ちょうどコード進行がひと巡りするタイミングだ。もう原曲よりもたっぷりと間奏を楽しんだので、そろそろ歌にバトンタッチしてもいい頃合いであった。


 だが、ここから戻るのは、ちょっとトーンを落とすBメロである。

 こんなに華やかな音を鳴らしては、自然な形でBメロに繋がらない。明らかに、コッフィは間奏を延長しようとしていた。


 そしてコッフィは、めぐるのことを見つめている。

 その丸っこい目に輝くのは、期待の光だ。

 めぐるは(ええっ?)と、のけぞりそうになってしまった。


(わ、わたしなんかがソロパートを受け持つのは、無理ですよ!)


 めぐるは、そのように考えた。

 しかし演奏というものは、思考だけで行うものではない。めぐるの肉体は半ば本能的に、ビッグマフのスイッチを踏んでいた。


 試奏の段階で、ビッグマフのツマミ類は調整を施している。バイオリンベースでもビッグマフの歪みを上手く活用できないものかと、あれこれ試してみたのだ。

 その結果、歪みの度合いは限界まで絞って、音圧と野太さだけを強調できるようにセッティングしている。この『あまやどり』では使うあてもなかったその音色が、一気に解き放たれることになった。


 そうして音をブーストさせたからには、それに相応しいフレーズを弾かなければならない。

 夏の合宿では歌メロのリズムにペンタトニックのスケールをあてはめて、ベースソロめいたものを披露していたのだ。技術も知識も足りていないめぐるは、それを再現するしかなかった。


 ただし、あのときはエフェクターも使用していなかった。

 この野太い音色には、あのフレーズでも迫力が足りていない。ただし、この編成では音を詰め込んでも浮いてしまうだけであるし――そもそもこちらのバイオリンベースは弦のテンションがゆるいため、過剰なパワーは受け止めきれないのだ。めぐるが普段と同程度の力加減で弾いたならば、音が潰れてしまう上に、余剰のパワーが指先に跳ね返ってくるのが常であった。


(それなら――)と、めぐるは指板に左手の指先を走らせる。

 右手のパワーと音数の増加を頼ることができないならば、左手の運指でフレーズを派手にするしかない。具体的には、スライドやグリスやチョーキング、ハンマリングやプリングといった技法で音を彩るしかなかった。


 そして、テンションのゆるいバイオリンベースは過剰なパワーを受け止められない代わりに、ネックが短いショートスケールであることも相まって、運指が非常に楽なのである。また、テンションがゆるいのはナイロンコーティングの弦を使用しているためであり、そちらの滑りのよさも運指に自由度を与えてくれた。


 めぐるは一心不乱に、即興のフレーズを世界に撒き散らす。

 その裏で、コッフィのサックスは休符の多いリズミカルなフレーズを奏でていた。

 めぐるの感性が察知した通り、コッフィはソロパートをベースに譲り渡し、それを支える役割に回ったのだ。


 ただし、完全な裏方ではない。コッフィのサックスは少ない音数の中でも自由に飛び回り、時にはめぐるのフレーズに絡みつき、時にはぐいぐいと背中を押してきた。


 めぐるの心は、異なる感情に左右から引っ張られている。

 即興で難解なフレーズに取り組む楽しさと、これで本当に理想的な合奏が成立しているのかという不安感である。突然のベースソロをやりとげるためにめぐるは過度な集中を余儀なくされており、そのおかげで意識の一部分に目隠しをされているような心地であった。


 ものすごく楽しい気もするが、それを客観的に確認することができない。

 他なる三名の演奏は心地好くてならないが、自分の音はそれに応えられているのか――それが、さっぱりわからないのだった。


 そんな不可思議な感覚の中で十六小節を駆け抜けためぐるは、また半ば無意識の内に音数を減らし、階段状に音階を下げていった。

 コッフィのサックスも、それを追いかけるように急降下していく。

 そして、二人の音色がもっとも低い位置に着地したタイミングで、浅川亜季の歌声が響きわたった。


 声量を抑えた、Bメロだ。

 最後の音を長くのばしていためぐるは、それを完全にフェードアウトさせてから、ビッグマフのスイッチを切る。

 そして、Bメロの半分が終わったところで何事もなかったかのように復活して、今度はサビの盛り上がりに備えたフレーズを紡いだ。


 気づけば、めぐるの頬に汗が滴っている。

 今の一幕だけで、どれだけのカロリーを消費したかもわからない。このセッションを終えた後は、ずいぶんな暴食をしてしまいそうだった。


 いっぽうコッフィのサックスは、変わらぬのびやかさで鳴り響いている。

 コッフィの表情を確認するまでもなく、その音色だけで彼女の満足度は知れた。


 ――やっぱ、あんたは楽しいのぉ。


 めぐるは、そんな風に呼びかけられているような心地であった。

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