表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/30

2-1 公明の憧れ1

 シンと静まり返った教室に、黒板にたたきつけられる、怒ったようなチョークの音だけが響いている。


「春霞 立つを見捨てて 行く雁は 花なき里に 住みやならへる」


 やがてチョークの音が途切れると、その代わりに陶器の瓶をはじくような、冷淡な声が黒板に書かれたその歌を復唱する。春霞とは程遠い、どちらかと言えば雪女を彷彿とさせるその声。まだ昼過ぎだというのに蛍光灯をつけた教室に、その声の余韻が寒々しく漂う。


 窓に流れる無数の水滴も、外で盛大に鳴っている雨の音も、今が梅雨であることを強力に主張している。なんで、この時期にこんな歌を授業でやるんだ。そんな俺の疑問をよそに、歌を詠み終わった知佳子先生は口を閉じて、教室を見渡してから渋々といったふうに問いかける。


「この歌の意味、分かる人」


 沈黙。答えようとする者は誰もいない。俺は手をあげようとして、それを思いとどまる。この時間、俺だけがもう五回も挙手して答えている。これ以上手をあげたら、きっと浮いてしまう。もう、浮いてしまっているかもしれないけど。


 沈黙はなかなか破られない。戸惑ったように左右に視線を走らせていた知佳子先生は、やがて俺にその鋭い目を向けた。守口君。君、わかっているんでしょ。と、言いたげに。窓側の真ん中あたりの席にいる俺は、先生からは一番見えやすいのだそうだ。でも、俺は今日はもう、これ以上活躍したくない。俺は教科書を読むふりをして、視線だけで隣りの席の恵をさし示してやった。


「じゃあ、岩崎さん」

「え、ええっと」


 あわてて椅子の音をたてながら立ち上がった恵の奴は、どもりながら答える。

「ええっと。は、春になるっていうのに、それも見ないで帰ってしまう雁さん……雁たちは、は、花のない土地のほうが、い、いいのかなあって、不思議がっている、歌……。ですか」


 頑張った恵に俺は心の中で拍手する。恵が着席すると、知佳子先生もちょっとほっと表情から緊張を解いて解説をつづけた。


「そう。でも、それだけではないの。この歌はね、えっと、擬人化した雁の行動を不思議がることで作者自身の春の美しさに対する憧れを……」


 開いた教科書に視線を落としながら、知佳子先生は機械のようにしゃべり、そして時々黒板にチョークをたたきつけるようにして字を書いていく。黒板か、教科書か。基本的にそのどちらかしか先生は見ようとしない。生徒の方にはほとんど目を向けない。まるでみんなと向き合うのを恐れているかのように。まあ、これでも、春よりはずいぶん授業らしくなったんだ。はじめは、生徒に問いを発したりすることさえなかった。


 それにしても……。


 俺は板書している知佳子先生の後姿をぼんやりと眺める。先生って、スタイルいいよな。スーツ姿もなんかエロいし。今日のスカートの丈は膝上十センチくらい。でも、黒板の上の方に字を書こうと背伸びするたびに、その裾が上がって、お尻の形もくっきりして……。


 視線を感じて横を向くと、恵の奴が俺をにらみつけていた。その口がゆっくり開いて、声を発さずにその動きだけで言葉を表す。

「す・け・べ」

 どうやら、そう言っているらしい。余計なお世話だ。ご丁寧にも三回それを繰り返して、恵はそっぽを向いた。


「守口君。なにを、しているんですか」


 頭上から吹雪のような声が降ってくる。いつの間にか机の脇に来ていた知佳子先生が、教科書片手に腰に手を当てて俺を見下ろしている。許しを請う犬のように先生を見上げながら俺は思う。ああ、今日の放課後も、お説教だな。




「守口おまえ。また説教されに図書室行くのか」

「あのオニッタと同じ部屋で顔突き合わせて、よく気が狂わないな。オレなら耐えられねえ」


 放課後、俺はクラスメイトのそんな揶揄に送られて教室を出た。ちなみにオニッタは知佳子先生のあだ名だ。ほかにはサバヨミなんてのもある。意味はそのまんま。年齢のさばを読んでいるのだろうということだ。でも、本当の年齢を知っている者は誰もいない。怖くて訊ける奴なんていない。噂だとまだ二十代らしいが。


 それはともかく、別棟への渡り廊下を歩きながら、俺は思う。

 お前らには分らんよ。と。充実した青春をおくってきた、お前らには。


 恋をしたり、部活に汗を流しライバルと切磋琢磨したり……。俺にもそんな生活があると思っていた。でも、高校に入ってすぐに俺は思い知った。それができるのは、コミュニケーション能力があって、ちゃんと自分のやりたいことがわかっていて、それを貫く意思がある連中なんだ。俺にはそれがない。俺はただ何となく日々を過ごし、親や先生から怒られないように勉強だけはちゃんとやって、でもその意味を知ろうともせず、気がついたら最終学年になっていた。


 砂嵐のように耳にまとわりついていた雨音は、別棟の建物の中に入るとミュートをかけたように小さくなった。二階への階段を上るうち、一段一段、それに合わせるように自分の心も上昇してゆく。こんな気持ちを抱くことができたのは、この春からだ。それを与えてくれたのは、あの、みんなが敬遠する新田知佳子先生だった。


 知佳子先生だけなんだ。


 図書室の戸を開け、まだ誰も来ていない部屋の中を見渡しながら、俺はこの二カ月のことを思い返す。知佳子先生だけだ。この俺の話をきいて、居場所を与えてくれたのは。この、図書部を俺の居場所にしてくれたのは。


 クラスメイトの岩崎恵に誘われて図書部の名簿に名前を書いたときは思いもしなかった。恵と、俺と、知佳子先生。ただ、三人で本を読む。一緒に調べ物をする。それだけのことが、こんなにも楽しいなんて。こんなに幸福な気持ちに俺をしてくれるなんて。

 みんなはお説教される俺を憐れむような目で見るけれど、それだって、実は嫌なことではない。先生が俺のことを見ている、考えてくれている。それがわかるから。知佳子先生だから。彼女になら、お説教されてもいい。いや。されたい。


(今日はちょっと早かったかな。先生が来るまでもうちょっとあるか)

 カウンター前の大机の、定位置にしている窓際の席に腰を下ろした俺は、鼻歌を歌いながら鞄から分厚い本をだす。

「しょくぎょうずかん」

 進路に悩む俺に先生がまず勧めてくれた本。今日はお説教の後は進路相談。そして読書。バラ色ではないけれど、俺のささやかな薄紅色の放課後の時間のはじまりだ。


 やがて恵がやってきて、向かいの席に座り、挨拶もそこそこに文庫本を開く。昨日読んでたのは読み終わったようだ。新しい本。ほう。井上靖か。俺も好きだよ。

 俺が彼女の詠む本のカバーを何となく眺めていると、恵は突然顔をあげた。


「さっき国語科の準備室までプリントを届けたんだけど、先生、様子がおかしかったよ」

「おかしい? どんなふうに?」

「気もそぞろっていうか、何か考え込んでいるっていうか」

「いつものことでは」

「あんたのせいじゃない。ジロジロ見すぎなのよ。このスケベ。今日こそちゃんと謝っといたほうがいいよ」


 そして分厚い眼鏡を指で押し上げてまた読書を再開する。こいつは牛乳瓶の底のようなレンズのせいで、いまいちどこを見ているのか、何を考えているのかよくわからない。お前の方こそ俺をじろじろ見るな。という言葉を出しかけて飲み込み、俺はカウンターの後ろの壁にかかっている時計を見上げた。たしかに、いつもの時間は過ぎているのに、先生はまだ来ない。


 なんだか胸がざわついて落ち着かなくなる。今日は、一回先生の問いかけをスルーしちゃったしな。彼女を見つめる視線にやましいものがあったのも、否定できない。悪かったな。先生がこんな俺にもう愛想つかしていたらどうしよう。恵の言う通り、ちゃんと謝ろう。ああ、ごめんなさい。改心しますからどうか先生、見捨てないで。


 いてもたってもいられなくなって、俺は立ち上がる。

「恵。俺……」

 ちょっと謝ってくる。そう言いかけた時、図書室の戸が開いて知佳子先生が姿を現した。脇に数冊の薄い本を抱えて。口もとに薄笑いを浮かべて。走ってきたのだろうか。ショートボブの髪の毛先のかかる頬がちょっと上気していて、息も弾んでいる。


「守口君。岩崎さん」

 俺が謝罪の言葉をのどに詰まらせているうちに、先生は授業の時とは打って変わった活き活きした声で呼びかける。

「図書部の新しい活動、スタートするよ」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ