6-3 知佳子の居場所
「先生。相談にのっていただいて、ありがとうございました」
そう、晴れ晴れとした顔で言って頭を下げた男子生徒の肩を、知佳子は優しくたたいてあげた。
「君は頑張っているね。大丈夫だよ。この調子なら、きっと志望校に受かるから。でも、油断は禁物よ。健康にも気をつけてね」
顔をあげた生徒ははにかんだような笑みを浮かべて、「はい」と元気よく答え、生徒指導室から退室していった。
静けさの戻った室内に、チャイムの音がゆっくりと響き渡る。遠くから流れてくるのは、野球部の掛け声、陸上部のホイッスル、吹奏楽部の演奏……。それらと一緒に注ぐ晩秋の穏やかな陽が、窓辺に座る知佳子の頬をあたためる。
(君も、頑張っているね。新田君)
どこからか声が降ってきたような気がして、彼女は窓の外に目を向けた。ふと、悪代官のような教頭の顔を思い出して、思わず頬がほころんだ。
「ええ。私、なりますよ。もっともっと、いい先生に」
知佳子は目を細めて蒼く晴れ渡った空を見上げ、しばらく校庭の喧騒の切れ端に耳を傾けてから、「よし」と掛け声をあげて立ち上がった。
小春日の光が眩しく注ぐ校庭では、生徒たちが元気よく走り回っている。故郷よりはずいぶん南にあるとはいえ、この時期になるともうかなり肌寒い。しかし、そんな寒さはものともせず、みんな元気に声を出しながら体を動かしている。校舎を囲むビルを飛び越えていきそうな勢いで。
天を突くような山などそこにはなく、見渡す限りコンクリートのビルばかりだけれど、しかし子供たちはここでも同じように溌溂としている。そんなことを考えながら本棟への通路を歩く知佳子の目の前で、紅い光の群れがゆれた。紅葉だ。まるで葉っぱ自体が紅色に発光しているかのような、モミジの木。故郷の方の山々は初冠雪なんてニュースを見たけれど、こちらはこれから紅葉狩りのシーズンだ。
(紅葉見物は、今年はどこにいこうかしら)
そんなことを考える彼女の足は自然と軽くなって、思わずステップを踏みそうになる。
「先生。ちぃーっす!」
「さようなら。先生!」
楽器を抱えた生徒たちが、すれ違いざまに挨拶してくれた。健康的な笑みをはじけさせながら。手を振ってくれたりしながら。
知佳子もにこやかにほほ笑んで、彼らに負けじと手を振り返す。
「さようなら。また明日ね」
「あ、そうだ。先生」
すれ違った後、クラリネットを抱えた女子生徒が思い出したように踵を返し、知佳子に話しかけてきた。
「なあに?」
「あの。先生の絵本。素敵でした」
そして、片手を顔の横で招くような形にして「ニャー」と言う。どうやら猫のまねをしたようだ。
「ありがとう」
そう返事をして、知佳子は遠くを見晴るかすような目をした。
「でも、あれは、私一人で創ったものではないの。私の、ではなく、私たちの、よ」
知佳子はもう一度、優しく言う。「先生の絵本」ではなくて「先生たちの絵本」。
そう。それは、知佳子と守口君と岩崎さん、そして高志さんの四人で創ったものだ。「黒猫の涙」のストーリーを改造して絵本にしたもの。題して「黒猫とちーちゃん」。出版社から出版されるような大層なものではない。同人誌みたいにして自費で十冊ほど刷っただけ。それを学校の図書館やなじみの喫茶店に置いてもらっている。でも、それを観た生徒からの評判はなかなかのものだ。とくに、絵の美しさが。
「へぇー」と相槌を打つ生徒の視線が斜め上を向く、その頬にいたずたっぽいえくぼをつくり、彼女は上目づかいに知佳子を見る。
「ねえ、先生。気になってたんだけど。その絵を描いた人って、先生の、恋人?」
そのとたん、知佳子は白い歯を見せて弾むように笑った。きょとんとする生徒の頭をなで、「さあ、どうでしょう」と言って、通路の奥に目を向ける。
「ほら。みんなもう、行っちゃったよ」
そして本棟に足を向けようとする。
「待ってよセンセー。教えてよぉ」
「そおねぇ」
振り返った知佳子は少しの間、人差し指を顎に当てて思案する様子を見せてから答えた。
「恋人……ううん。それ以上かも!」
唖然とする生徒をその場に残して、知佳子は通路を後にする。途中、もう一度だけ振り返り、
「さようなら。また、明日ね」
そう、笑みを浮かべながら生徒に手を振る彼女の左手で、銀色の小さな光が瞬いた。
いけない。また遅刻しちゃうよう。
市街地のはずれにある公園通りの、イチョウ並木の下を歩きながら、知佳子は薄紫に暮れ行く空を見上げ、足を速めた。東京郊外にあるこの街は、意外と自然豊かだ。街中にある大きな公園はまるで森みたいで、夕焼け空も、あの山裾の土地と変わらぬほどに美しい。
午後の陽を受けて黄金色に輝くイチョウの葉と、その向こうで桃色に染まりかけた雲を眺めながら、知佳子は息を弾ませる。
世界って……。
知佳子は言葉を出しかけて、しかし口をつぐむ。国語の教師のくせに知佳子はうまい表現が見つからず、ただ胸に膨らむ気持ちの行き場を求めて、その口を笑みの形にしたまま、周囲の風景を見渡す。黄色い光を散らす公園通り。色とりどりの葉をゆらして優しくさざめく公園の木々。歩道を行きかう人々の明るい笑顔。公園の向かいに林立する商店やオフィスビルの窓たちが白い光を瞬かせていて……。
いつの間にか目尻に涙がにじんでいる。それを指先でぬぐってやっと絞り出した言葉はとてもシンプルなものだった。
楽しいなあ。うれしいなあ。世界って、素敵だなあ。
世界って、素敵だなあ。そう、もう一度かみしめるようにつぶやいて知佳子は胸に手をあてた。ああ、あたたかい。その熱がここにはおさめきれないで、あふれだしてしまいそうなほどに。これは二年前にはとても抱けなかった気持ちだ。
そんな心を与えてくれたのは、君だ。
知佳子はうつむいて目を閉じ、祈るように抱くように、心の中で唱える。
暗く寒い檻の中に閉じこもっていた私を、そこから救い出してくれたのは君だった。そして君は私に与えてくれた。自信も、希望も、喜びも。明日へ向かおうとする力も。そして、居場所も。
私には居場所なんかないと思っていた。あの街のどこかにそれはきっとあって、でも、それは私には手の届かないものだと。でも、それは違った。私の居場所はちゃんとあった。私の居場所は……。
知佳子は目を開け、顔をあげる。道の少し先に、青白赤の三色の幕の下がった軒が見える。花で飾られた窓の向こうに橙色の明かりが灯っている。
知佳子はその店に向かって駆けてゆく。緑色の、ステンドグラスのはまった扉の前で立ち止まり、息を整えてからゆっくりとノブをつかんで押す。頭上でチリンと、鈴の音が鳴る。
「あ。先生が来た」
「せんせー。遅いよ」
奥の窓際の席に座っていた天然パーマの男の子と、銀縁眼鏡の女の子が嬉しそうに頬をゆるませながら口々に言う。「ごめんね守口君、岩崎さん」そう彼らに謝りながら、視線をもう一人の男の人に向ける。こちらに振り向いた高志さんに、知佳子はほほ笑みかけて小さく会釈する。丸いふわふわしたものを胸に抱きながら、彼女は自分に語り掛ける。
私の居場所は、ここだよ。




