6-2 再会
高原からはるか南にくだった大都市は、もうすっかり初夏の陽気につつまれていた。
郊外の閑静な住宅街の一角に、知佳子の新しい住処はある。ちょっと古めかしいアパートの二階。傍には細い川が流れ、並木の桜の枝が、窓の外でゆれている。
引っ越して初めての日曜、部屋の片付けもそこそこに、知佳子は公園へと散歩に出かけた。
まぶしい初夏の陽光が降り注ぐ公園。新緑がまぶしく輝きながらそよぎ、歩道に木漏れ日がゆれる。銀杏の並木道を抜けると、噴水の広場に出、その向こうに立派な洋館があった。近づいてみると入口の脇にパネルが立てかけてある。
「第六十五回文化展覧会」
パネルにはそう、太い筆文字で書いてあった。知佳子は胸ポケットからチケットを取り出して、目の前のパネルと見比べる。チケットの紙面にはパネルと同じ文字が書かれている。知佳子も名前を聞いたことのある、この国有数の権威ある公募の展覧会だ。彼女はしばらくじっとそのパネルを見つめ、やがて一つ息を吸うと、洋館の玄関をくぐった。
ヒヤリとした大理石の廊下の両側にも、シンプルだが気品のあるそれぞれの部屋の壁にも、所狭しと入選した作品が飾ってあった。それらの間を、知佳子は絵を観るとはなしにゆっくりと歩いてゆく。彼の夢も、ここにあったのだろうか。そんなことを考えながら。
日曜の昼だが、人はあまりいなかった。知佳子は静かな廊下をずっと進んでゆき、一番奥の部屋へと入った。
廊下と違って室内は明るい。持ち主が住んでいた時は居間であったのだろうか。暖炉があり、白い天井からは簡素なシャンデリアが下がっている。庭園が見渡せる広い窓には白いカーテンがかけられ、どこからか風が流れ込んでくるのか時々小さく揺れる。そのレースの布の動きに合わせて、小さな陽だまりが床で踊っていた。
日の光の届かぬ壁に、数点の絵がかけられてある。知佳子はその一つの前で、思わず立ち止まった。
その絵の前で立ち止まったきり、彼女は、動けなくなってしまった。
(どうして)
そこに描かれている女の人は、彼女のよく知っている人だったから。そしてそこに描かれている風景も、よく知っているものだったから。
知っているなんてものじゃない。この女の人は、まぎれもなく知佳子自身だ。横を向いてちょっとあごをあげ、髪をなびかせている。目を細めて、まるで吹く風にのって漂う花の香りを愛でるかのように。そして、その背後に描かれているのは、懐かしい風景。森に囲まれた池。その透明な水の底で輝く苔の緑。水面に浮かぶ無数の白いきらめき。これは、間違いなくあの涙池だ。
あの日の涙池での光景が、知佳子の脳裏に鮮明によみがえる。
一心に鉛筆を動かして池の風景をスケッチしていたあの人。彼が描いたというのだろうか。しかし、あの日彼は、何枚も何枚も、池の絵だけを描いているようにみえた。私の絵なんか、描いてくれたことはなかった。そう、知佳子は思っていたのに。
絵の右下の隅にくずしたアルファベットで「TAKASHI」と書いてある。彼のサインだった。
知佳子の両目から、ふいに涙があふれた。知佳子はそれをぬぐおうともしない。涙は次から次へとあふれ出で、そしてとめどなく頬を温めながら流れ落ちた。
「どうだい先生。今度は、なかなかのものだろ」
いつの間にか、隣に人の気配がある。
「もう、手直しする部分はないんじゃないかなあ」
懐かしいこの声!
知佳子は鼻をすする。涙がまた二粒三粒と零れ落ちるが、一生懸命呼吸を整えて、声を絞り出す。
「い……いいえ。まだ、まだよ。なんだか寂しすぎる、じゃないの」
「これは寂しすぎる女の人が題材だよ。皆に裏切られ傷つけられた」
「でもきっと、彼女に同情する人はいたはずよ」
「それじゃあ、手を加えようか。実は、一つアイデアがあったんだ。女の人の傍らに人を描き加える。どんなことがあっても彼女の味方になると誓った、画家と二人の生徒を」
また、二粒三粒。それで我慢しようとしていたのに、堰を切ったようにまた、涙は湧きあがって知佳子の目と頬を濡らした。
「ごめんなさい」
やっと言えた。言わなければと思っていて、伝えることのできなかった、謝罪の言葉。
高志さんは首を振り、
「僕こそ、ごめん。君のおかげで勉強になったし、楽しかった。君はいつでも真剣に僕の話を聞いてくれたし、作品のことを真剣に考えてくれた。なのに僕は君を信じてあげることができなかった。そのうえ君を傷つけて……。ごめん。そして、ありがとう」
「私こそ。……ありがとう。心から、ありがとう! 高志さん」
知佳子は肩を震わせながら高志さんの胸に顔をうずめた。数秒間、その温かい胸に頬を擦り付けてから彼の顔を見上げる。今自分にできるとびきりの笑みを満面に浮かべて。
高志さんは少し驚いた顔をしたが、しかしすぐに微笑んで彼女の背中をなでてくれた。
丸く暖かい光に満ちた、陽だまりの踊る広い洋室の真ん中で、知佳子はその光をためこんだ瞳をキラキラさせながら言った。
「大好きです高志さん。大好き!」




