第5話
学校に着くと、僕は一限の授業の準備を始めた。
「おはよう」
「ん、おはよう」
隣の席に座るのは低島。中学一年生の頃、僕に告白してきた女子だ。僕は断ったけど、変わらず友達でいてくれる。嬉しいけど、男みたいな口調で絡んでくるから、正直ちょっと苦手だった。でも彼女がいるから、学校は退屈しない。だから、僕は彼女が好きだ。もちろん、友達として。
「そのキーホルダー、どこで手に入れたの?お前っぽくないじゃん」
「いや、別に大したことじゃないよ……」
でも彼女は聞き足りない様子で、すぐに食い下がる。
「友達からもらったんでしょ?誰?」
「うん、まぁ…」
「女?」
「……それ言う必要ある?」
僕の言葉はどこか逃げ腰だ。声が大きい彼女に話したら、秘密はすぐにばれる。僕はそんなこと、したくなかった。
「いいから教えろよ!」
彼女の笑い声が教室に響く。周りの視線は気にならないみたいだ。
「……女だよ」
言葉を呑み込んだように、僕は小さく答えた。
「えぇっ⁉︎なにそれ!」
やっぱり声がでかい。心の中で僕はまた、自分に言い聞かせた。話さなくていいんだと。
「で、彼女ってこと?マジで?」
彼女の目がキラキラしている。僕は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「そんなわけないだろ」
「なんで即答するんだよ」
「当たり前だろ」
そんな軽口を交わす日常の中で僕は少しだけ、彼女の存在に救われている自分にも気づいたような気がした。
放課後、僕は家に着くと荷物を投げ出して、いつものように彼女の病室へ向かった。
「こんにちは」
「あ、今日も来たんだね」
彼女は少し驚いたように、でも嬉しそうに微笑んだ。「何か問題でも?」と言いながら僕が椅子に座ると、彼女は「問題ないよ〜」と、笑顔で返した。
「それで、今日は何しに来たの?」
彼女の声は、いつもよりほんの少しだけ優しくて、僕の胸がじんわり温かくなった。
「うん……友達のこと、話そうと思って」
僕はゆっくりと、でも確かにそう言った。彼女は笑顔だが、目の色が真剣になる。
「私のことを話す友達のこと?」
「うん、ちょっとね……」
「ぜひ、聞かせて」
彼女の穏やかさを湛えたその瞳が、まっすぐ僕を見つめる。その変わらぬ表情に、僕の心はふっとほどけた。
「昔、話したと思うんだけど、僕に告白してきた低島がさ、あのキーホルダーを見て、これをくれた君のことを教えてくれ!ってうるさいんだ」
「うん。それで?」
「でも、彼女は声が大きいし、何より口が軽いらしいから、僕はあんまり話したくないんだよね……」
彼女は静かに頷きながら僕を見つめて返事をした。
「話したくない気持ち、わかるよ。怖いし、不安だよね」
彼女のその言葉が、胸の奥にそっと触れる。しかし、続けられた言葉は思ってもいない言葉だった。
「でもね、君が大切に思うことは、案外誰も裏切ったりしないものだよ。怖い気持ちも、不安な気持ちも、全部抱えていいと思う。私も、ずっと怖くて、苦しくて、理不尽な現実に押しつぶされそうになったことある。逃げたくなる日もあった。でもね、向き合うことには必ず意味があるって私は思ってる。あの時君にも、私の苦しい気持ちが届いたでしょ?本当に伝えたい想いは、必ず届くから。だから、恐れずに、信じてみて」
彼女はそう言って、少しだけ笑った。
「……ありがとう。話してみる」
「うん。頑張って」
「それにしても、君にしてはいいことを言うね」
「それ褒めてる?」
「ちょっとだけ褒めてる」
僕は笑いながらそう言った。彼女は照れながらも、優しい笑顔で僕を見送ってくれた。
僕は家に帰り、メールを開いて低島の連絡先を押し、まぁむのことを話した。出会い、関係、今の状況、そして僕の気持ち。彼女から返ってくるのは「うん」だけだった。真剣に話を聞いてくれているのだと思い、少しホッとした。
次の日、学校で彼女は僕を薄暗い、誰も使わない階段へ呼び出した。
「……」
「……」
「……ねぇ」
「うん?」
「あの話って本当?」
「うん……本当だよ」
「余命はいつまでなの?」
「夏の終わりまでらしい」
「そっか……」
「うん……」
長い沈黙が流れた。重くて緊張感のある空気に、僕は少し胸が痛んだ。でも、その時彼女は笑ったように言った。
「ちゃんと抱きしめてあげるんだよ!」
「……は?」
「女の子って、抱きしめられるとすっごく嬉しいんだよ。それに、私だったら、こんな状況で彼氏に抱きしめられたら泣いちゃうと思う」
「そう……なの?」
「そう。だから、抱きしめる勇気が出ないなら、しっかり彼女のそばにいてあげな」
「わ、わかった。ありがとう。……あ、そうだ!」
僕は教室に戻ろうとする彼女を呼び止めた。
「ん?どうしたの?」
「このこと、昨日も言ったけど、僕らだけの秘密にしておいてくれるよね?」
「……当たり前じゃん!」
彼女は笑ってそう答えた。僕は少し信用しなかった自分を後悔し、心の中で謝った。気のせいかもしれないけれど。低島が笑って「当たり前じゃん!」と言った言葉が、なんだか不思議と心強かった。彼女なら、この秘密をちゃんと守ってくれる。そう思うと、胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。
そうして僕は教室に戻った。またこれからいつも通りの一日が始まる――そんな気がしたのも束の間、予想外の出来事が起きた。
「おはよう!」
「あぁ、おはよう」
元気よく挨拶してきたのは、僕の前の席に座る蟹山。僕とは対照的な陽キャ男子だ。そんな彼は僕の席に座り、手の中で、あの人形を両手でもち、もみくちゃにしていた。僕は咄嗟に彼の手から人形を奪うように取り戻す。
「ちょっと、これやめてくれない?」
「ん?ああ、ごめん。いやさ、こんなのつけてるの珍しいなって」
「ま、まぁね……」
まさか、とは思ったが、僕の予感は見事に的中した。
「この人形、どうしたの?一人でこういうの買うタイプじゃないでしょ、お前」
「えっ……」
最悪だ。蟹山にまで突っ込まれるとは。どうにかごまかさなければ、と咄嗟に言葉を探す。
「い、いや、実は僕……こういうの、ちょっと好きでさ。あ、アハハ……」
視線を斜め後ろに向けると、低島がこちらを見ていて、親指を立ててニヤリと笑った。いや、何もよくないよ!?内心でツッコんでいると、蟹山がさらに追撃してくる。
「へえ?でもさ、そんな趣味あるって聞いたことないけど。……誰かからもらったやつなんじゃないの?」
なぜこんなに勘が鋭いのか。僕はもはやお手上げ状態だった。
こいつは本当に口が軽い。僕は知ってる。だからこそ話したくなかった。でも、「プレゼント」ってだけじゃ、どうしても話が繋がらない気がして……ほんの少し、彼に打ち明けることにした。今思えば、あのときの僕は、ずいぶん甘かったと後悔している。
「ま、まぁ、プレゼントなんだよ。『こういうの、好きそう』って言ってくれてさ……」
「ふ〜ん。彼女?」
「なんでそうなるの⁉︎」
本当になんで⁉︎どうして僕の周囲の人間は、“プレゼント=彼女から”という脳内変換が即座に起きるんだ。これが思春期というやつなのか。僕には、いまだに青春の法則がわからない。
「え?そんな反応するってことは、やっぱ彼女だな〜」
くそ、やっぱりこの手の相手に嘘は通じない。けど、こいつはノリも軽いし、口も軽い。そう思った瞬間、彼女の言葉が、ふと胸に蘇った。
『君が大切に思うことは、誰も決して裏切ったりしないんだよ』
それが本当なら。信じていいのなら。こいつにも、話していいんだろうか。胸の奥で、葛藤がせめぎ合う。
「……わかった。話すよ。でも、条件がある。この話は絶対秘密。他に知ってるのは低島だけ。だから、僕と君と彼女、三人だけの秘密にする。それを守ってくれるなら……」
「あぁ、もちろん。誰にも言わないよ」
その返事は、あまりにも軽かった。彼はこれから知ることの重さを、まだ知らない。それでも僕は、信じてみることにした。彼女がくれたあの勇気を、もう一度、信じてみたかった。
僕は他の友達にバレることがないようパソコンのメモにこれまでの経緯をまとめて、蟹山にそっと見せた。彼は目を丸くしながら、じっと画面を見つめていた。そして――
「これ、ほんと?」
「ほんとだよ。全部……ほんと」
「そうか……。……辛かったな」
そう言って、僕の肩をポンと叩いた。その手の温度が、妙に優しくて。少しだけ、友達ってものを、信じてみてもいい気がした。
その日の放課後。僕は病室に向かい、今日の出来事を彼女に話した。
「なるほど、蟹山くんって子にも話したんだね」
「うん。君のおかげだよ。君の“信じてみて”って言葉が、僕の背中を押してくれた。本当にありがとう」
「でしょでしょ!もっと褒めてもいいんだよ〜?」
「うん……そういうとこはあんまり、見習わなくてもいいかな」
「ねぇ〜なんでそうやって、すぐ冷たくするの?」
「冗談だよ」
僕は笑いながら、そっと、彼女の頭に手を伸ばした。まさか撫でられると思っていなかったのか、彼女は驚いた顔をしたあと、満面の笑顔で僕の肩に頬をすり寄せてきた。花のような匂いと、やわらかな温もりが伝わってくる。僕はこの温もりを、ずっと感じていたかった。
「じゃあ、もう帰るね」
「ちょっと待って!」
ドアノブに手をかけた僕に、彼女が声をかける。
「え?」
「私のこと知ってる友達が、もう二人できたんでしょ?じゃあ、学校でもやりとりしていいよね!」
「やりとりって……まさか、連絡手段?」
「そう!学校でもメールしようってこと」
「僕、スマホに入ってるメッセージアプリなんてパソコンに入ってないよ」
「そこは君が工夫するんでしょ?」
「いや、学校のパソコンにそんなの入れたら僕、速攻で没収されるよ」
「うーん……じゃあどうすれば……」
そうしてしばらく二人して唸っていたが、僕は天才的なアイデアを思いついた。
「じゃあ、Mメールを使おう」
「えむ……めーる?」
困惑する彼女の隣に、僕はまた座る。
「うん、Mメール。学校のパソコンに元々入ってるマーブルって検索アプリ、知ってる?」
「知ってるけど……私、そんなのスマホに入れてないよ?」
「大丈夫。そこの病室にあるパソコンにも入ってるはずだよ。開いてみて」
僕が指さすと、彼女は嬉しそうに眼鏡をかけて、ノートパソコンを開いた。その横顔が、いつもより少し大人びて見えた。
「えっと、まーぶる……まーぶる……あ、あった!これ?」
「それそれ。で、Mメールを開くと……」
「うわっ、メール画面だ!」
「この“宛先”ってとこに僕のアドレスを入れれば、学校でもやりとりできるよ」
僕は小さな紙にMメールのアドレスを書いて渡す。
彼女はその紙を両手で受け取って、パァっと顔を輝かせた。
「ありがとうっ!」
その笑顔があまりにも眩しくて、病室の蛍光灯なんかよりずっと明るかった。自然と僕の顔にも、笑顔が浮かんでくる。
「じゃあ、またね」
「うん、またね!」
病室を出ると、背後から「わ〜っ!」という彼女のはしゃぐ声が漏れてきた。どうやら、よっぽど嬉しかったらしい。彼女の笑顔が、まだ脳裏に焼き付いている。僕は廊下を歩きながら、小さく息を吐く。さっきまでいたあの小さな部屋と、この長い廊下。たったそれだけの移動なのに、今日は景色が少し違って見えた。
彼女とこうして繋がれるようになったこと。蟹山に話せたこと。
どれも、ほんの些細なことかもしれない。でも、それがたしかに、何かの始まりのように思えた。未来のことなんて、まだ何もわからない。けれど
「……また、会いに来よう」
独り言のように呟いた声が、病院の壁にやさしく吸い込まれていった。
その夜、彼女からメールが届いた。
内容は、頭を撫でてくれて嬉しかった、本格的にカップルみたいになってきて嬉しい。というようなものだった。
何の特別な意味もない、でもなぜか胸がふわりと温かくなる、そんなメッセージだった。まだ何も変わっていないはずなのに、ほんの少しだけ、未来のことを想像してみたくなった。
眠りにつく前、ふと二人が頭に浮かんだ。顔が出てこない。何か忘れている、そんな気がしながら、僕は深い眠りについた。




