外伝・第十八話
静寂が広がる。あるいは音が死に絶えていく。
空は夕闇が降りようとしている。東の空には世界を隔てる壁のように惑星の影が見えている。映写機だけが低い駆動音を放ち、己の責務を全うしようとしている。ビーチ・ボーイズのエンディングテーマが流れている。
周囲は彫像の森のよう。人々は直立不動のままに鉛に変わっている。水穂は手近にいた人物に触れて確かめようかと思ったが、これが何らかの毒物か、感染性のものである可能性を考えて止める。
「コユビおじいちゃん……大貫さんも」
母を見る。枯滝瑛子はまだ変化していない。口元に手をあてて言葉をこぼしている。
「全地球規模の異常存在……? あまりにも早すぎる。それにいったい、これは何なの。何らかの器物なのか、能力を持つ個人なのか、だとすれば抗異化因子存在が黙っていないはず……」
その顔に影が降りる。
瑛子は最初の数秒、それは夜の到来だと思った。異様な気配が何もなかったからだ。
だが影が明確に動いたことを周辺視野がとらえ、はっと顔を上げれば、そこには巨人が。
「な……」
身長およそ4メートル。目も鼻も体毛もない、服すら体形の中に溶け込んだ、鋳潰した金属のような質感の巨人。ゆっくりと動いて、だが巨体のために相対的にはかなりの速度で瑛子に襲いかかる。
後方へ跳躍。鉛となっていた誰かの上半身に乗り、さらに後ろへ。巨人の拳が数体の鉛人形をなぎ倒す。
「お母さん!」
叫ぶのと折り紙を繰り出すのは同時だった。飛び出すのは蝶。手裏剣のように鋭く飛び、鉛の巨人に衝突する。
だが何も起きない。巨人は瑛子を追いすがり、瑛子は素早く背後を確認しながら跳ねるように逃げる。
「嘘……あの蝶の折り紙は300キロ以上あるのに」
「水穂、私が」
太陽雨が両腕に光を集中させる。
だがその2人の前に僧服の人物が降りる。網代笠を背中に垂らし、旅装の直綴ではなく黒と金の袈裟を着ている。
「黒現さん!」
「お二人とも、おやめなさい、あれは人間が変じたものです。攻撃するべきではない」
「ちょっと待って!」
僧侶の言葉を遮って、太陽雨がぐいと前に出る。
「これ、あなたがやってるの!? みんなに何をしたの!」
「いえ、我々は……少なくとも私は何もしておりません」
「じゃあ、あなたの仲間の跳ねっ返りの仕業!?」
「いいえ……この事象は私でも理屈が分からない。すなわち我々の仲間のいずれの仕業でもありません。ただ観測はできております。ほぼ全世界で同時期に起きている事象です。私はひとまず全世界の原子力発電所を冷温停止させました」
「……ほんとに知らないの? ほんとでしょうね」
「あなたに対して偽りは申しません」
その言葉に、太陽雨もそれ以上追求するのは止める。
黒現は、この人類をはるかに超越した技術を持つ彼らすらも困惑しているのが見て取れた。後方にいた水穂は周囲の様子をうかがう。
(黒現さんたちは異常存在を集めてた、お仲間の誰かが、危険なものを使った可能性はあるのかな)
(たぶん違う。黒現さんたちは自分たちに制御できないものを収集しない)
では、何が起きているのか。
分からない。という言葉が壁のように立ちふさがる。
(そう、分からない)
(この事象……折り紙に落とし込めない)
(どうして? 作動原理の分からない異常存在でも折り紙にできるのに、なぜあの巨人は……)
(……いま考えることじゃない、それよりお母さんを)
瑛子はいつの間にか照明用のポールに上がっていた。巨人は瑛子を追うのをやめたのか、彼女から離れている。
視線が動く、巨人の歩む先にスーツ姿の人物がおり、その姿が一瞬で袈裟へと変わる。かなり長めの数珠を握っている。
鉛色の巨人が手を伸ばす。それに向かって僧侶が手を突き出すが、巨人の動きにまったく影響がない。驚愕に目を見開くのを確かに見た。
そして鉛の手が僧侶に触れる瞬間、その僧侶もまた鉛色になって硬直する。太陽雨が声を上げる。
「うっそでしょ!? あの僧侶さんがやられた!?」
「あれは……金属化? 硬直させられてるだけ? それとも何かにコーティングされた?」
巨人はいつの間にか新たに出現しており、今は3体が動いている。
「おのれ妖め!」
「たとえ条理に反したるものでも、我らを打ち倒せると思うか!」
また二人の男が僧服に変わる。持っているのは錫杖と、独鈷杵と呼ばれる法具。両端が剣のようになった手持ち武器である。水穂は目を凝らしてその技を見ようとする。
(分かる。独鈷杵の人がやってるのは確率操作)
(あの巨人が存在する確率を限りなくゼロにしてる)
(もう一人の人は分子間引力をいじってる。あの錫杖は原子の隙間がぎゅっと詰まっててビルみたいに重い。それで殴り飛ばそうとしてる)
そして知覚する。次の一瞬、どちらの宝具からも異常性が消えた。
「な……」
そう声を漏らすのは誰か。巨人の腕が伸び、二人の僧を鉛の彫刻に変える。一瞬で、すべてを黄金に変えたミダス王の手のように。
「お二人とも、少し開けた場所へ移動しましょう」
黒現が促し、2人は周囲を覗いながらじりじりと後退。鉛の巨人は僧侶たちの前で立ち尽くしている。完全に鉛に変わるまで待っているかのようだ。
瑛子はポールから飛び降りて合流、この場に残っている者は4人のみとなる。
「水穂、太陽雨も、身体に異常はない?」
「大丈夫だよ」
「うん、水穂も私も大丈夫」
巨人たちがこちらを向いた。どれほど重量があるのか分からないが、金属とも粘土ともつかない質感の体を動かし、ゆっくりと近づこうとする。
「退きなさい」
黒現がひとにらみすれば、彼我の間に黒い壁が出現。厚さ1メートルの鋼鉄の壁。巨人たちが壁にごつごつと当たる音がする。
「ありゃりゃ、鉄の壁で防げちゃうのか。じゃあこのまま封印してよ」
「ええ、すでに四方を壁で囲みました。ひとまずはこれで」
グラウンドの方に移動する。根乃己小の運動場とトラックはさほど大きなものではない。周囲には鉛に変わった人々がいるため、4人は外側を向いて円陣を組むように集まり、互いの背中に注意する。
「水穂、あれ何なんだろう。まず鉛の人形になって、それが巨人に変わってたよね」
「うん、私も見てたけど、合体したって感じじゃなかった。一体の人形が大きくなってた」
「それに、拙僧らの力が通じなかった、これは驚くべきことです」
「うん……僧侶さんたちの武器が効かなかった、というより異常性を消されてた」
「……水穂どの、異常性と言われますが、あれは我々にとっては確たる理論に基づいた武器なのですが」
それには瑛子が答える。
「REVOLVEは地球よりも高度な文明を持った流れの者と何度か接触してるの。地球人類の科学を大幅に超えた技術は異常存在なのよ。凶兆の天秤でもそう判定されるの。だからあの巨人は……異常存在を打ち消す異常存在? つまり封宮存在のような……」
「む」
黒現は、瑛子に向けていた視線を前方に伸ばす。
「どうしたの」
「巨人が壁を破ろうとしております。いえ、というより壁が消えつつある。どのような作用で……」
瑛子が振り向けば、鋼鉄の壁に鉛の指が突きだしている。氷を溶かすように鋼鉄が溶け崩れて、巨人がゆっくりと出てこようとする。
太陽雨がその様子を見て言う。
「異常性を消す異常存在かあ。どこまでが異常存在と見なされるか気をつけないと」
「……ううん。そうじゃない気がする」
水穂はそう言う。
そのような異常存在もあるのかも知れない。だが水穂はそもそも鉛の巨人を異常存在と感じていない。
理解しがたい理屈というのとも違う。矛盾した言葉が浮かぶが、その表現が今のところ近いような気がする。
「異常性が消えてるのは間違いないと思う。でも、それは巨人の側が何かをしてる感じじゃないの。それなら私の目はそれを捉えられる。雪縞の虎みたいに折り紙に還元することができるはず」
「うーん。よく分かんないけど激ヤバだねえ。こんな事が全地球規模で起きてるの? いったい何なんだろこれ」
「お母さん、これって特定のモノじゃなく、現象としての異常存在かな。喫茶ブラジルの転移現象みたいな……」
「……。いいえ」
枯滝瑛子は親指の爪を噛む。まなじりを絞って顎を引き、深い思考に沈む。
「この事象……確か、あの人が何か言っていた気がする。枯滝路が」
「お父さんが?」
では水穂の父親は、このような事態に遭遇したことがあるのだろうか。
REVOLVEとは違う世界の切り札、単独であらゆる異常存在を排除できる人物。その彼ならば対応できる事象なのだろうか。
「ちょっと……思い出すから待って。あれは、確か……」
そして疑問にも思う。きわめて優秀で博覧強記なる人物。枯滝瑛子がなぜ思い出せていないのだろう。
母の頭にREVOLVEのデータがすべて入っているわけではないだろうが、少なくとも枯滝路のデータはあるはずだ。父はREVOLVEにとっても最重要人物であり、偽物が根乃己を襲撃した事件の際にも振り返ったはず。
(……もしかして、それはとても古い記憶)
そう推測する。
瑛子がREVOLVEに属するより以前。まだ枯滝の姓ではなく、瑛子と路は同級生であり、根乃己の小中学校に通っていた頃。
「鉛の」
泥の詰まった井戸から、銅の鐘を掘り起こすような時間。瑛子が歯を食いしばるような思考とともに語る。
「鉛の人形なんだ。そう言ってた」
「? お母さん、それってお父さんの言葉?」
「そう……枯滝路はまだ7歳だった。折り紙ばかり折ってる変わった子で、私と一緒にいた時に、確か、路のお父さんのこと、を」
「お父さんのお父さん? それって竜興おじいちゃんだよね、どういう流れで言ったの?」
「異能が二つ……離れている。絶対に出会わない、全反射現象……鈍色に染まっていく……あいつ、昔から何を言ってるのか分からないやつだったから。私は、そんなあいつがどんどん進化していくのを見てた。あいつの折り紙は、中学に上がる頃には、理解不能、に」
ばき、という音がする。
瑛子のドレスシャツ、肘のあたりが黒ずんでいる。次の瞬間に背後からの影。鉛色の巨人。新たに巨人となった個体か。
「お母さ……」
一瞬の葛藤。背後からの巨人に対応すべきか、母に駆け寄るべきか。
「――顎戈水折り」
手の中に生まれるのは的。弓道の的のような円盤。地面に落とされるとほぼ同時に衝撃。
太陽雨の雨の力を再現した折り紙である。的を設置すると、設置した瞬間に数分間の落下を経た水滴が命中する。水量は20リットルあまり、的を斜めに設置すれば、向けた方向に手榴弾なみの衝撃が生まれる。鉛の巨人は大きく押し戻されて後方に倒れる。
「効いた……やっぱり異常存在から間接的に生まれる物質なら効くんだ。でもこれも対応してくるかも……」
「水穂! 瑛子おばさんが!」
振り向けば、そこには鉛色の銅像。
「う……」
心臓のあたりをぎゅっと握る。
鉛に変わればどうなるのか。元に戻すことは可能なのか。母の意識はまだあるのか。あるとすれば永遠に意識を内包したままなのか。
ざわつかない。
もはやREVOLVEというシステムは無く、事態は無かったことにできないかも知れない。すべての人間が彫像に変わり、原因も理由も分からぬままに世界が終わる。異常存在の出会いとは、本来はそのぐらい唐突で理不尽で容赦のないものだ。
だが、水穂の心は破滅を感じていない。心が絶望に落ちてくれない。この現象を異常存在であると感知できないためか。黒現たちが時間を巻き戻せる可能性を考えているのか。あるいは自分か太陽雨の力が何とかすると思っているのか。
なぜ心が騒がないのか。
絶望や怒りを覚えないのか。
思えばそれは、もっと前の段階から。
(……晴南ちゃん、美雨ちゃん)
あの二人。
水穂をリーダーとしてチームを主張していた友人たち、あの二人が異常存在の中で太陽雨に変じたとき、水穂は動揺しなかった。少なくとも恐慌は起こさなかった。
最初は身につけた冷静さだと思った。異常存在に立ち向かうためには心の揺れを抑えなければならない。技術として、あるいは経験の結果として身につけた冷静さだと。
だが、そうではないのか。
根本的に、自分は喪失や変化を悲しむことができなくなったのか。折り紙の技に目覚めたから。もはや枯滝水穂という人間自体が異常存在だからなのか。
精神の超越性。それについて考えるのは、まだ恐ろしい。
「水穂どの」
と、二人が力場で包まれる。瞬時に地上を離れ、遥か上空へ。
それをやったのは黒現である。袈裟を風になびかせながら浮遊している。
「あの巨人はポールに登った瑛子どのを襲わなかった。ひとまず上空なら安全でしょう」
「……黒現さん、時間を巻き戻せない? 騒動が起きるより前に」
「すでに試しました、だがうまく行かない。時空をいじること自体ができなくなっております」
そう甘くはないだろう。あの巨人は確率操作すら拒絶したのだ。
「ですが、この浮遊も異常性と見なされて消えるかもしれない、すぐにどこかに降りましょう」
「太陽雨ちゃん。力は使える?」
「うん、今のところは」
水穂も折り紙を試す。問題なく手の中で折ることができる。便宜上「折る」としているだけで、水穂が折り紙に加えている行為に、適切な表現は存在しないが。
(この折り紙は技術……少なくとも私の中では再現性もあるし理屈もある。これが消えるなんてあり得るのかな)
「黒現さん、カスタネットに行こう」
「承知しました」
飛行する。黒現はそうとは説明しなかったが、瞬間移動もできなくなっているようだ。
「まいったねえ、せっかく私が重大な決断しようって時に、やっかいな異常存在が出てきちゃって……水穂も映画楽しみにしてたでしょ」
「うん……でもそれどころじゃないよ。映画はまた見られるし」
東の空には惑星。
地球とは異なる地形の星が、空のすべてを覆い尽くす巨大さでのしかかってくる。マンホールの蓋が閉ざされるところを内部から見るような、そんな想像に背中が震える。
(異常存在……全地球規模の、文明崩壊級の異変。確かにそれも大変なこと)
(でもこれは、そんな問題じゃない気がする)
(もっと、何か、根源的で、根本的なこと)
異常存在であると感じられない、鉛の人形。
あらゆる異常を拒絶する、鉛の巨人。
(……そう、異常存在が消えるというより、あの巨人が、異常存在を否定してる感じ。拒絶するとか、許さないとか、そんな感じに見えた)
あらゆる異常を許さない。
(許さないのは、誰?)




