外伝・第十四話
根乃己という盆地を満たした秋の残暑が、山の隙間からゆるゆると抜けていく。入れ替わりにやってくる夕刻の涼風。静かな村を撫でるように吹く。
カスタネットの縁側にて、夕涼みをしている2人がいる。枯滝瑛子と草苅真未である。
縁側には少し高めのウイスキーと、氷と炭酸水がある。カクテル用のドライジンやライムジュースも。
「瑛子さん、伝城資料館でなんかあったんですか?」
すっかり腫れも引いた草苅は、誘われるまま飲みに付き合っている。
「大したことじゃないわ。水穂たちは戦闘のヒントを掴んだみたい。今は練習中」
ストレートのウイスキーを傾けて、チェイサーがわりの発泡酒を飲む。
つまみとして用意したのは黒酢とホールトマトで炒めたベーコン、フードプロセッサーでペースト状にしたイカを塗ったチョリソー。
それに羊肉の餃子。これはチョコレートベース、ココナッツミルクベース、バルサミコ酢ベースの三種のタレが用意されている。
「瑛子さんの料理のセンス独特ですよね」
「人と同じもの作るの嫌なの。勝率は悪くないのよ」
カスタネットは夜の海に浮かぶ船のごとく。水の抜けた水田はただ暗色をたたえ、虫の声がひそやかに聞こえ始める時刻。瑛子は気だるい沈黙を抱えながら水割りをあおる。
「やっぱり何かあったんでしょ?」
「さあね」
この一ヶ月、人類はかつて無かったほどの激動の時代を迎えているらしいが、今この場所だけはひどく静かに感じる。
それは不思議なことだ。見ようによってはカスタネットこそが世界の中心とも言えるのに。
「草苅さん。逃げるなら今のうちよ」
「逃げませんよ。ってかやっぱり何かあったんでしょ。教えてくださいよ」
「黒現たちと戦闘になるかもしれない」
それだけ言う。
「怒らせたんですか? というかあの人たち時間とか止められるんでしょ。怒らせたなら地球なんか一撃でボンでしょ」
「そうはならない。彼らはかなり高位の存在だけど、超常存在を打ち倒せるほどではないの。地球を壊そうとすれば、地球に存在するいくつかの超常存在がそれを許さない……おそらく許さないだろう、としか言えないけど」
「じゃあ、根乃己だけピンポイントに襲われる感じですか」
「そうじゃないの」
瑛子にも事態の行方は読み切れない。
ひとまず職員を招集し、事態を説明したものの、いつ何が起きるとも言えない。タツガシラに少数の人員のみ残して解散となった。
事実上、REVOLVEは壊滅したかに見えるが、根乃己とアーグルトンはまだ健在とも言える。瑛子は実に奇妙な立場に置かれた。
「彼らは、彼らよりも強いものと戦うかも知れない。それが最悪なの」
「それって何が起きるんです?」
「分からない……どれほどの戦いになるのか、何をもって決着となるのか、誰にも分からないの」
はて、と草苅は首を傾げる。
では、なぜ瑛子は酒など飲んでいるのか。カスタネットでつまみを作って草苅を誘ったのか。
「飲んでる方が気合が入るのよ」
グラスを置き、再び琥珀色の液体を注ぐ。
「アルコールが人から奪うだけとは考えてないの。私はいつも大事な時は飲んでた。あいつに結婚しようと切り出した時も。お義父さんがネットカフェを作ると言い出して、経営計画を作ってた時もね」
「どうにかなりますかね」
「ならないかもしれないけど、ガソリンは入れておくのよ。愛車にもね」
「私はいくらでも付き合いますけど、瑛子さんの料理も食べられるし」
それで、と耳打ちのような姿勢になる。
「具体的にいつ頃起きるんです?」
「おそらく、映画祭の日」
カレンダーをグラスで示す。映画祭の日は4日後の日曜日だ。
「どうしてです?」
「太陽雨が映画祭を楽しみにしてたからよ。その翌日に須走さんと山極さんのご家族も帰ってくる予定だし」
「そっか、そりゃもうその日で決まりですね」
「そうよ、何もかも、あの子たちの都合に合わせて決まるのよ」
夕景は夜に変わり、太陽は山の向こうに去って久しく。
瑛子は草苅の肩を抱き、その耳にそっと囁く。
「今はあの子たちが、世界の中心だから……」
※
「だからね水穂、回転なんだよね」
深夜の根乃己小学校。人はおらず、木工室が校庭の隅にたたずんでいる。
太陽雨は右手に熱を生み出し、左手は水で包む。無重力空間のように手にまとわりつく水。水は変形して渦を巻き、竜巻のようにねじれ、やがて直線を維持したまま高速回転を始める。
「こーやって水と熱で渦を作る。この中に複数の折り紙を放り込めば、きっと黒鉾に近いものになるよ」
「うん……だんだん原理が分かってきた。黒鉾は見たことあるし、素材にするためにはどんな折り紙を、どんな順番で投じたらいいのかも……」
ふと、言葉を投げる。
「ねえ太陽雨ちゃん」
「うん」
「映画祭、もうすぐだよ、一緒に行こうね」
「そうだね。アニメとか楽しみだね」
「ねえ、太陽雨ちゃん」
呼びかける、呼びかけている間だけ、その存在が近くにあるような気がする。
「あなた、根乃己だよね」
「うん」
声は明るく言わんとしていたが、その奥に悲哀の色もある。いつか明らかになるとしても、なるべく先であってほしかった、という感情がにじむ。
「そうみたい。私は根乃己。異常存在を生み出してきた根乃己なの」
「晴南ちゃんと美雨ちゃんは?」
「二人とも生きてる。私の中で生きてるよ。私がこの世界に現れるのに、媒体になる身体が必要だったの。私はとても大きなものだから、2人の人間が必要だった」
「そう……生きてるなら、よかった」
その場にかがみ込む。
二人が生きている、その言葉に深い安堵があった。常にざわめいていた水穂の内面が、ふと落ち着くような気がする。
何か適切なことを言いたいけれど、言葉を練るような気分でもない。そんな数秒が流れる。あらゆる感情をいったん棚に置いて、しげしげと自分自身を眺めてから口を開くような感覚。
「どうして現れたの?」
「わからない、たぶん、水穂を成長させるため」
灰色のワンピースが夕方の風になびく。黒い山々に身をさらす。両手を開いて胸をそらし、涼しい風を浴びて身体を冷やそうとするかに見える。
「この星を守っていた超常存在が舞台を降りた。だから誰かが「お役目」を務めないといけない。水穂がそれになる手伝いをしたかったのかもしれない」
「太陽雨ちゃんがなったらダメなの?」
「わからない。私が「お役目」になるために現れたのかも。私と水穂の両方がなってもいいの。でも水穂には目的があるでしょ」
目的。
父親である枯滝路を探す。探して根乃己に連れ戻し、人生の舞台に立たせる。
それは遠い遠い目標に思える。その人物は今どこにいるのだろう。どこかの本の中にでも入ったかも知れない。誰かの夢の中にいるかも知れない。同じ星にいる実感がない。
それでも、いつかは探さなければ。
「水穂を手伝うよ。私からたくさん学んで。私もたくさんのものから学ぶよ。二人で強くなろうよ」
「うん……そうだね」
太陽雨が具体的な目的を言えないことは嘘ではないと感じる。だから彼女はシステムとしての人格ではない。
(でも、それでいいのかな)
水穂はぼんやりと考える。いくら考えても正解にたどり着けないかも知れない。考えた先に絶望しかないかも知れない。
それでも考える。人間は考える葦だから。
(何のために生まれてきたのか、何をしたいのか、なぜはっきりと言えないんだろう)
(どうして、自由な意志を持ってるんだろう)
(お役目が、自由な意志を持つって、どういうことなんだろう……)
※
場の全員が柱に変じている。
革張りの椅子から、大理石の床から、紙束が散乱する中から屹立する12本の柱。
「彼らは……元に戻るの」
「我々は同志です。命を奪うなどあり得ましょうか。きっと、常識的な時間の範囲で姿に戻るでしょう」
黒現の声はひどく落ち着いている。地球人類とはあまりにも隔絶した存在。それは感情という面でも同じだろうか。その気になればひとにらみで人を卒倒させるほどの殺気を放てるのか。笑み一つで人を壊せるのか。
「根乃己とは根の気。地の底にありて渦巻く力の流れ。それは法則を歪ませ、奇なる器物を生み出す力。あなたがたの言う超常存在という言葉すら生ぬるい混沌なのです」
「……それを制御しようとした人物がいた。人格と混沌を融合させ、一つに練り上げたものが伝城の館、伝城資料館」
「まこと尊き御前によって成し遂げられた偉業でした。ここにおいて人は特異点の一つを制御し、人々が御仏の教えと、律令と道徳に生きる時代が訪れた」
しかし、と黒現は数珠を鳴らす。
「現代においてその制御が失われた。根の気は地上に噴き出し、二人の女性を依代として顕現した」
「須走晴南と山極美雨のことね」
「新しく生まれた存在は自らを太陽雨と名乗った。一見すれば善良にして純朴。REVOLVEの上層部はその出現すら予見していた。きっかけはおそらく、枯滝路」
「……あの人が、舞台を降りたから」
「左様。本来の枯滝路はもはや俗世と関わらないことが明らかとなった。彼が生み出した分身も消えてしまった。世界は切り札を失い、瓶の蓋が外れてしまったのです。そのため、新たなる世界の調停者が生まれようとした」
「生まれようと……? 太陽雨は生まれたはず」
「いいえ、不完全です」
振り向く。
そこには何の感情もない。声にも緊張は乗っていない。ただ言葉だけで、ただならぬ事態であると解釈されるだけだ。
「かの存在を受け止めるのに、二人の少女だけでは足りなかったのです」
「なぜそんなことが分かるの」
「太陽雨は伝城資料館の記憶を持っていなかったのでしょう? 現世に生まれ出る時に、己を制御していた伝城の館の部分が切り離されたのです。切り離された部分は異常存在を制御し、あるいは打ち壊す意志だけの怪物になった」
「! あの黒い杖の僧侶は」
「あれが伝城の館の概念そのものです。本来は太陽雨と一つだった。あの少女は、根乃己という土地で制御され、その力を底上げしていた根の気そのもの。しかも人としての知恵を身に着けている。分かりますか瑛子どの、あれが伝城の館の部分を残していれば問題はなかったかも知れない。だが、最も肝心な部分のみが失われているのです。あれがどう成長するか誰にも分からない」
「…………」
「それに、それにです、我々なのです」
「あなたたち、が」
「我々が、あの存在を看過できない。超常存在だからというだけではない。我々にとってもあれは大変な存在なのです」
瑛子はすでに気づいている。
あるいはずっと以前から気づいていたのかも知れない。ただ心の中で思考を避けていた。その名は、異常存在と片付けるには、あまりにも大きすぎる。
あの黒杖の僧侶は何なのか。太陽雨とは何なのか。渺茫という概念。それらのすべてを統括するような、ただ一つの人名。
「時に瑛子どの、太陽雨という名前は示唆的だとは思いませんか」
瑛子が理解しかけていることを見て取り、黒現は視線を彼女に定める。
「太陽とは天にありて総てを照覧するもの。密教において大日如来とは宇宙の真理そのもの、森羅万象の根源とされます。あらゆるものを象徴するからこそ、あらゆる真理が変化して定まることのない「空」の概念とも融合できるのです」
「そうね……宗教は素人だけど、言いたいことは分かるつもりよ」
「そして雨とはあまねく降り注ぐ恵み、仏の教えにも喩えられます。雨とは天の対比。地に降り注ぎ流転するもの。雨はやがて川となり、海となる。分かりますか瑛子どの、太陽と雨とは天地にあるすべてを表す言葉。そして天気雨とは異常存在を表す概念。まさに根乃己のすべてを押し固めたような名前。そして、我らにとっても最も尊き名前なのです」
「分かっている……今ではもう分かっているわ。あなたたちにとっても、あれはもはや放置できない。そしてきっと戦うことになる。あれは混沌の極みだから」
「そうです。我々は、初めてあなたがたに、この地球に恐怖している。たった一つ。絶対に避けたかった未来が一つだけあるのです。まさか、我々が」
「空であり海であるもの……あのお方と、戦うなどと……」




