1話 終わりを告げる春
「桜は、今年もきれいだね。」
縁側で湯飲みを包み込むように持ちながら、
桐島遼は静かに微笑んだ。 四月。 風に舞う花びらが庭石を淡く染めていく。
八十年生きてきた人生で、この景色だけは何一つ変わらなかった。
変わったのは、自分だけだった。
指先には無数のしわが刻まれ、節くれ立った手は昔のようには動かない。
立ち上がるだけで膝が軋み、階段を上れば息が切れる。
若い頃は、自分が老人になる日など想像もしなかった。
「あなた、お茶が冷めちゃいますよ。」 妻の美咲が湯飲みに熱いお茶を注ぎ足す。
七十八歳。 白髪は増えたが、その笑顔は初めて会った二十歳の頃と少しも変わらない。
「ありがとう。」 遼はゆっくりと湯飲みを受け取った。
二人で過ごす静かな時間。
会話がなくても心地よい。
それだけ長い年月を一緒に歩いてきた。
玄関の向こうから元気な声が聞こえた。
「おじいちゃん!」 勢いよく庭へ飛び出してきたのは、小学四年生の孫娘・陽菜だった。
ランドセルを放り投げると、そのまま遼の膝へ飛び込む。
「今日は学校でね、宇宙の勉強をしたの!」
「ほう。」 「今度、人間が木星の向こうまで行くらしいよ!」
遼は思わず笑った。 「そうか。」 「おじいちゃんも宇宙のお仕事してたんでしょ?」
「昔ね。」
「宇宙人っていると思う?」 「どうだろうな。」
少し考えてから答える。
「私は、いると思ってる。」 陽菜は目を丸くした。
「ほんと?」 「ああ。でも会えないからこそ、探しに行く価値があるんだ。」
その言葉を口にした瞬間、自分でも不思議な感覚を覚えた。
まるで誰かが、自分の未来を先に知っているかのような。 その夜、遼は一人で病院へ向かった。 半年に一度の検査結果を聞くためだった。
診察室は静かだった。 担当医は何度も言葉を選び、ようやく口を開く。
「桐島さん……。」 その一言で、遼はすべてを理解した。
医師は机の上の画像を見つめながら言った。
「進行が予想以上に早く……。」 「余命、ですか。」 医師は静かにうなずく。
「半年ほどだと思われます。」 半年。
その数字は驚くほど現実味がなかった。 八十年という時間を生きてきた人間にとって、半年は一瞬であり、永遠でもある。
「痛みは……。」 「薬で抑えられるでしょう。」 「そうですか。」 遼は深く息を吐いた。
不思議と恐怖はなかった
。
ただ一つだけ、心に浮かんだのは家族の顔だった。
美咲。 息子。 娘。 陽菜。 『もう少し、一緒にいたかったな。』
病院を出ると、夜空には満月が浮かんでいた。
遼は足を止め、月を見上げる。
若い頃、自分は宇宙飛行士を夢見ていた。
叶わなかった夢。 だが、不思議と後悔はしていなかった。
十分に生きた。 そう思っていた。 そのときだった。 ポケットの端末が震えた。
画面には見慣れない表示。
【内閣宇宙開発安全保障局】 そして、その下には短い一文だけが記されていた。
『桐島遼様。あなたの人生を、人類の未来のために使わせていただけませんか。』
遼は画面を見つめたまま、動けなかった
。 春風が吹き抜け、桜の花びらが一枚、静かにスマートフォンの画面へ舞い落ちた。




