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第12話:デミグラスソースのハンバーグ

 午後。考え事をしながら廊下を歩いていたら、王宮の魔術実験室の方角から甲高い鳴き声と人の悲鳴が聞こえてきた。


「おい」


 ゾディの声が硬くなる。


「わかってる」


 アリアは駆け出した。角を曲がった瞬間、視界いっぱいに魔獣の群れが押し寄せていた。一匹一匹は猫ほどの大きさだが、その全てに鋭利な角が生えている。黒い毛並みに真紅の瞳を光らせ、それが二十匹以上の群れになって、アリアに向かって疾走してくる。


「逃げてください! 実験用の魔獣が、いきなり凶暴になって檻を……!」


 向こうから白衣の研究員が叫びながら走ってきた。魔術学院の実験室で飼育していた魔獣が、一斉に逃げ出したらしい。


 二十匹以上が、アリアを見つけた瞬間に方向を変えた。まっすぐこちらに向かってくる。アリアの魔力に反応したのだ。王宮で最も濃い魔力を持つであろうアリアに、小さな魔獣たちはまるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、押し寄せてくる。


 廊下の先から騎士たちが走ってきたが、魔獣の群れに阻まれて近づけない。


「魔術だと、逆に刺激して凶暴化する可能性があります!」


 研究員らしい青年が大声を張り上げる。


 面倒くさい。


 アリアは杖を一度だけ、床に突いた。


「——束縛鎖・広域展開シェーヌ・リエ・ヴァスト!」


 光の鎖が床から放射状に広がった。通常の束縛鎖は一体ずつしか拘束できない。だがアリアは術式を改変し、面制圧の形に再構築していた。こんなものは魔術の応用で十分だ。百年以上かけて磨いた術式改変の技術が、こういう場面で役に立つ。


 二十匹以上の魔獣が一瞬で全て床に縫い止められた。光の鎖が角も牙も脚も封じ、もがく間もない。甲高い鳴き声が、情けない鳴き声に変わった。


 杖を一突き。たった一突きだった。


 廊下が静まり返った。


「大賢者様が……」


「一瞬で全部……」


「見ろ、魔術で凶暴化するはずなのに、逆におとなしくなってるぞ」


「魔術とはいえ、術式の構造が我々の常識を遥かに超えているんだ」


 騎士たちが呆然と立ち尽くし、研究員たちは口を開けたまま動かない。


 レオンが駆けつけてきた。拘束された魔獣の群れと、杖を持ったまま立つアリアを見て、碧い瞳を丸くした。


「アリア殿。これは」


「ただの猫よ。角が生えてるだけの」


「ただの猫でも、これだけの数を傷一つつけずに同時に拘束する魔術を、私は見たことがありません」


「術式をちょっといじっただけよ。そんなに大したことじゃないわ」


 大したことだった。普通の魔術師には不可能な芸当だ。だがアリアにとっては、揚げパンをちぎるのとなんら変わらない。いや、きな粉の揚げパンを、きな粉をこぼさずに食べる方がはるかに難しい。


「だ、大賢者様……」


 騎士たちの間にまた「大賢者様万歳」の空気が流れ始めたので、アリアは足早にその場を離れた。


 廊下の角を曲がった先で、足を止めた。


 シルヴィアが壁に背を預け立っていた。ノートを開き、羽根ペンを動かしていた。アリアが角を曲がってきたのを見ても、書く手を止めなかった。


「また観察?」


「はい」


 シルヴィアが、ノートから顔を上げた。冷たい目ではなかった。困惑でもなかった。今の目は、もっと厄介な目だ。考え込んでいる。何かを整理しようとしている目だ。


「大賢者殿。今の魔術、お見事でした。術式改変による面制圧。王立図書館にある文献でも、数例しか記録がない高等技術です」


「ありがとう」


「だからこそ、わからないんです」


 シルヴィアがペンを止めた。


「これだけの魔術を操れるあなたが、なぜ禁呪を使う時だけ、あんな反応をするのか。魔術の行使後には一切の動揺が見られない。その証拠に、今も平然としています。なのに禁呪を使った後だけは、真っ赤になった顔を覆い、うずくまり、泣きそうになる」


 正確な観察だ。何一つ、間違いないとアリアは感心する。


「魔術が得意なら、禁呪を使う必要は限られるはずです。それでも使わなければならない場面がある。その場面で、あなたは何かに苦しんでいる。それは、禁呪の副作用ですか? それとも、別の理由からですか?」


 アリアは答えない。答えようがないからだ。シルヴィアの論理が正確すぎて、嘘をつく隙がない。


「あなたには関係ないわ」


 そう返すだけで精一杯だ。


「そうかもしれません。ですが」


 シルヴィアが一瞬、言葉を切った。次の言葉を選んでいるようだった。


「……気になるんです」


 その声は、調査員が出す声ではなかっただろう。もっと別の何か。だがそれは、アリアには判別できない、初めて聞く種類の声だった。


 アリアは背を向けて歩き出した。シルヴィアは追ってこなかった。


   ◇ ◇ ◇


 夕食の食堂は、いつにも増して賑やかだった。今日のメニューはハンバーグとガーリックライス、コーンスープだ。


 アリアはハンバーグというものを初めて食べた。この百年間の食生活で挽肉を捏ねて焼くという発想は存在しなかった。肉は干して保存し、そのまま齧るものだった。


 フォークを刺すと切れ目から肉汁が溢れ出した。アリアは思わず目を見開いた。しるを「じゅう」と呼ぶのは果汁みたいだな、とアリアは思ったが、口には出さなかった。


「ソースをかけると、もっと美味しいですよ」


 レオンが横から小さな器を差し出した。デミグラスソースというらしい。茶色い。匂いは悪くない。言われるままにかけた。一口頬張る。肉の旨味とソースの深みが、口の中で一つになった。


 美味しい。これは、美味しい。デミグラスソース。


 ガーリックライスにもソースが合った。コーンスープは甘い。だがハンバーグの衝撃が大きすぎて、他の味がよくわからなかった。


「アリア殿。おかわり、取ってきましょうか」


「いい。自分で行く」


 配膳口でハンバーグをもう一つもらった。食べ放題の契約がこういう時に効く。二つ目のハンバーグにはデミグラスソースを多めにかけてもらった。


「太るぞ」


「うるさい」


 食堂でのゾディの小言は、一切聞かないようにしている。


 席に戻ると、レオンの隣にゲオルクが立っていた。


 第七騎士団の副団長。短髪で傷だらけの顔は、食堂には珍しい顔だった。ゲオルクは普段、騎士団の詰所で食事を取るとレオンから聞いていた。わざわざ王宮食堂まで来たということは、何かトラブルがあったのだろうか。


「団長。少しよろしいですか」


「どうぞ。何かありましたか」


 ゲオルクがレオンの隣に腰を下ろした。アリアの方を一瞬見たが、すぐにレオンに向き直った。以前の剥き出しの警戒は薄れているが、アリアの前で話すべきかどうか迷っているような間があった。


「アリア殿のことなら、気になさらずに」


 レオンがあっさりと言った。アリアが背を正し頷くと、ゲオルクも小さく頷いた。


「ヘルマン・アルトマンという名前に、心当たりは?」


 アリアは二つ目のハンバーグを切り分けながら、耳を傾ける。


「情報商人です。各地の災害情報を騎士団や商会に売っている男で、王都でもそこそこ名の知れた人物なのですが」


「聞いたことはあります。毎度、かなり精度の高い情報を持ってくると」


「はい。それが問題なんです」


 ゲオルクが声を落とした。


「この半年、災害級の魔獣が出現した四十七件のうち、少なくとも十二件について、ヘルマン・アルトマンが事前に情報を持っていました。災害が起きる数日前に、発生場所と時期をほぼ正確に言い当てている」


 アリアの手が止まる。


 災害を事前に知っていた? 四十七件中十二件。それは偶然で片づけられる数字ではない。


「情報源は?」


 レオンが聞いた。


「不明です。本人は『情報網が優秀なだけだ』と言っていますが、第十騎士団の偵察部隊が裏を取ろうとしても、情報の出所を掴めていません」


「つまり、災害の発生を事前に知り得る立場にいる人間、ということですか」


「あるいは、災害を起こしている側と繋がっている可能性、です」


 災害を起こしている側。その言葉が、アリアの頭の中で引っかかる。災害級の魔獣は自然発生するものだと思っていたからだ。だがもし、誰かが意図的に災害を起こしているのだとしたら。


「現在、七と十の合同で調査を進めています。近いうちに本人からも事情を聞く予定です。団長には、ご報告まで」


 七と十? 数字からそれが、第七騎士団と第十騎士団のことなのだと推測する。


「わかりました。引き続きお願いします」


 ゲオルクが立ち上がった。去り際に、もう一度アリアの方を見た。今度は警戒ではなかった。何かを言いかけるような顔だったが、結局何も言わず頭を下げて去っていった。


 食堂の喧騒が戻ってくる。


「お騒がせしてすみません。大したことではないと思うのですが」


 レオンが穏やかに言った。だがその碧い瞳の奥には、普段は見せない、思慮深さが浮かんでいた。


「情報屋が災害を予知してるって、おかしくない?」


 アリアが聞いた。


「おかしいですね。ですが、世の中には不思議な能力を持つ人間もいますから」


 レオンの答えは穏やかだった。だが、答えにはなっていない。この騎士が考え込む顔を見せるのは珍しい。それだけで、この情報の重さがわかった。


「ヘルマン・アルトマン、ね」


 ゾディがテーブルの端で干し肉を呑み込みながら呟いた。


「胡散臭い名前だ」


 アリアは二つ目のハンバーグの最後の一切れを口に入れた。デミグラスソースの味が、さっきより少しだけ重く感じた。

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