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インク アライブ  作者: おーひょい
影には影のルールがある
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疑念と手段-1

 オリヴィエは早朝の岩場でスケッチを手に、海を眺めていた。

 手首に残るリカルドの掴んだ熱い手の鼓動。袖から覗く手首にはラップが巻かれ、その下の傷には腫れが残り、ジンジンと疼いている。


──足りないなら、僕の腕、針で刺して。


 そう懇願するように叫んだあの日から、彼の指が、針が、自分の肌を貫いた。愛おしげに撫でるが、自らも彼の影に針で触れたいと願っているのに、未だ叶えられずにいる事実に手が止まった。

 そして、「Dimentica」と低く唸るような彼の声が、あの日の暖炉に照らされた、狼みたいな目に重なった。

 練習中に放たれた、突き放すような何気ない言葉。オリヴィエにとっては救いにも、死よりも深い慈悲にもなる言葉であった。

 だが、もしリカルドが本当に「あの人」であるならば、彼は自らが殺人者であることを認めてしまうことになる。


(まさか、人を殺したか、なんて……聞けないよ)


 だが、自分を救い出してくれた光であることに変わりはないはずだ、と言い聞かせるように、オリヴィエはもう一度、手首の太陽を愛おしげき撫でた。

 早朝の陽射しは、ひどく白々しく網膜を焼いていく。冷たい潮風が髪を靡かせ、一瞬視界を奪った。


 オリヴィエは目を細め、昇り始めた朝日を見上げる。ふと、リカルドの癖を思い出した。彼が左腕を撫でながら海を見つめる時、遠くを見るような、あるいは消えない痛みを確かめるような目。

 それでも、狼のような鋭い眼差しと、拒絶するような冷たい声は、彼があの殺人者であることを物語っていた。


 スタジオに戻ると、リカルドがマシンを調整する「あの子」の規則正しい声が聞こえてくる。

 オリヴィエは慣れた足取りでシャッターの閉まった表を避け、裏口から自室を通ってスタジオへと向かう。

 リカルドはオリヴィエが入ってきても顔すら上げない。ただ、手元の灰皿には山のような吸い殻が積まれている。


「……ただいま戻りました」

「アンナの図案、まだ甘いとこがあるだろ。さっさと仕上げるぞ」


 普段通りの刺々しい言葉。だが、オリヴィエはその低い声に過剰に反応して、無意識に手首を撫でた。あの小さな太陽が、心臓の鼓動に同期して疼き出す。


「すみません……少し、考え事してて」

「……そうかよ」


 リカルドは静かになったスタジオでようやく顔を上げた。

 その冷徹な青い瞳がヴェローナのあの人に重なり、オリヴィエは一瞬、反射的に袖を引いて手首の太陽を隠す。リカルドはその動きを一瞥したが、何も言わずに視線を戻す。


「十二月にカターニアでコンペがある。お前が出たがっていた。……あれ、俺が出ることになった」

「え……? でも、急にどうして……?」


 リカルドはくしゃくしゃと頭を掻きながら、めんどくさそうに鼻を鳴らす。


「俺一人じゃねぇ。見習い一人なら同行は許可されてる。……お前も来い」

「僕も……ですか?」

「アンナの背中、あのデザインをあそこまで仕上げたのはお前の「意地」なんだろ。なら、最後まで自分の目で見届けろ。向こうで続きを彫る。道具の準備、忘れんなよ」


 それだけ言うと、リカルドはマシンに向き直り、それ以上の会話を拒否するようにマシンのフットスイッチを踏んだ。

 静かなスタジオに響き渡る「あの子」の低く唸る声。拒絶の音でもあり、同時に「ついて来い」と圧を掛けてられているようにも思えた。

 嫌でも人目に触れる表舞台。不法滞在という薄氷の上でも危うい存在の自分。そんな場所に、あえて飛び込むような真似を、なぜ今、リカルドは選んだのだろうか。


 オリヴィエは震える手首を握り、リカルドの横顔を見つめる。彼の目は、やはりどこか遠い場所を見つめているように見える。

 彼は何を隠し、自分をどこへ連れて行こうというのか。

 何もかもがマシンの音に掻き消されて、本当のところは何も聞こえなかった。



 翌日の朝、オリヴィエはリカルドとともに市場へ向かっていた。

 海沿いの散歩道は、十一月の冷たい潮風がオリーブの匂いを運び、鋭く体を冷やしていく。石畳を踏む二人分の足音が波音に溶けていく。

 オリヴィエは薄汚れた長袖のシャツを震わせ、薄金色の長髪が顔をくすぐるたび、身震いのように肩を跳ねさせている。

 目の前を歩くリカルドは、相変わらず何も言わずに灰色の煙を纏わせ、時折髪を掻き上げている。


「あの、アンナおばあちゃんも……連れていくんですか?」

「コンペで現地調達すんのは稀だ。大抵は信頼するモデルを連れて行って、会場で彫り上げんだよ」


 紫煙を吐き、無愛想な返事を返すとまた沈黙に包まれる。二人は市場への路地を抜け、リカルドは足元の空き缶を端に蹴り飛ばすと、低い声で続けた。


「今回、婆さんの背中のラインはすでに終わってる。それなら、会場で最も映えるシェーディングを彫るのが一番審査員の目につきやすい」

「そこまで考えて、彫ってたんですか?」


 急に決まったのだと思っていた。だが、リカルドの言葉を聞き、オリヴィエは彼がアンナの肌の回復速度からインクの馴染みまで、すべてをコンペの日に逆算していたのだと気付いた。オリヴィエは翡翠色の瞳に、純粋な驚嘆と尊敬が灯る。


「……仕上げが十二月になりそうだったからってだけだ。深読みすんな」


 リカルドはぶっきらぼうに返し、オリヴィエの視線を避けるように少しだけ歩幅を広げた。灰色の煙が風に流され、オリヴィエの頬を掠めて消えていった。

 それから市場へ着くと、リカルドはまっすぐトマト屋の露店アンナの店へ向かう。


「おや、オリー。……あんたも今日は何の用だい?」


 アンナはオリヴィエの姿に親しみを込めた笑顔で見つめるが、リカルドの姿を見て一瞬で顔を曇らせた。

 リカルドはそれを見て、忌々しそうな顔でタバコを地面に投げ捨て、足で踏み消す。


「おい、婆さん。十二月の末開けとけよ」

「なんだい、藪から棒に。あたしは忙しいんだよ」

「カターニアでコンペがあるから、そこで仕上げる。死にかけの婆さんの背中に最高の祈りが刻まれるってなら、ジャッジの連中も涙を流して喜ぶだろ。見せ物小屋の主役にはぴったりだ」


 「最高傑作を彫るから協力してくれ」というリカルドなりに絞り出した不器用な依頼の言葉だったが、当然アンナには最悪の侮辱の言葉として伝わる。


「……なんだって? あんた、あたしをその辺の若造と並べて見せびらかそうってのか!? この罰当たりが! 誰が死にかけだって?! その生意気な指全部へし折ってやるよ!」


 アンナの怒声が市場の活気を一瞬で静まらせた。彼女の皺だらけで太い腕が、完熟したトマトをリカルドの無愛想な顔目掛けて投げつけた。

 ぐしゃりと音を立ててリカルドの額で弾けたトマトの汁が、鮮血のような赤を撒き散らす。


「ちょっ……! アンナおばあちゃん、落ち着いて…!リカルドさんも、言い方が……」


 激怒するアンナをオリヴィエは必死に止めたが、追撃のトマトは止まることはなかった。


「二度と来るな! 地獄へ堕ちろ、クソッタレ!」


 背中に響く怒号と、石畳に散らばる赤い染みを後にして、二人は逃げるように市場を後にした。額から垂れるトマトの汁を汚らしく拭いながら、リカルドは「……頑固な婆め」と小声で毒づいた。


「……クソ、これだから女は。とりあえず、現地で適当なキャンパスを見繕うしかねぇな」


 リカルドは忌々しそうに吐き捨て、Tシャツにこびりついたトマトの果肉を雑に払い落とした。早々に諦めたような仕草で新しいタバコに火をつけるが、その指先はわずかに苛立ちで震えている。

 オリヴィエは隣でその様子を眺めながら、なんて不器用な人なのか、と呆れるようにため息をついた。

 「信頼するモデル」と彼自身が不意に呟いた言葉は、きっとアンナの背中に描くインクが生きていると信じている証なのに。いつも口をついて出る言葉は、人を傷つける言葉ばかり。オリヴィエは何も言えず、汚れの残るリカルドのTシャツに目をやった。

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