表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

怪異?っぽい?――気づいた時には遅いもの

『断罪は成功した。国が傾いたのは、別の理由だと思いたい』─失われたものの名

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/02/18

本作には、

婚約破棄、断罪、追放といった、よくある展開が出てきます。

拍手が起き、正義が語られ、物語としては「成功した」場面です。


その先で、何が起きるのか。

あるいは、何が起きなかったのか。


この短編は、

ざまぁの瞬間ではなく、

その後に残る時間を描いています。


派手な説明や、明確な答えは用意していません。

登場人物たちが選んだことと、

その選択のあとに積み重なった結果だけがあります。


もしよろしければ、

最後の一行まで読んだあと、

もう一度タイトルを見返してみてください。


では。

大理石の床は、よく磨かれていた。磨かれすぎて、頭上のシャンデリアの光が足元に落ち、そこに立つ人間の顔色まで映してしまうほどだった。


アルデリア王国の大広間。玉座の前に扇状に並ぶ貴族席は、今日はいつもより密だった。騎士団の白い外套が壁際を固め、背後にはなぜか、許可された“見物人”までいる。正義の祝祭は、観客が多いほど映えるからだ。


王太子ルシアンが一歩前に出ると、ざわめきが波のように引いた。わずかな沈黙のあと、彼は声を張った。


「アルデリア公爵家令嬢、エリシア・ヴァンデル。貴様を、ここに糾弾する!」


糾弾、という言葉が空気を切った瞬間、大広間の温度が一度上がった。誰かが息を呑み、誰かが期待に唇を歪め、誰かが“ようやく始まった”という顔をする。


玉座の前に立つ当の本人は、動かなかった。背筋だけが、端正に真っ直ぐだった。


「罪状は三つ。第一に、民を見下し、慈悲を欠いたこと。第二に、王太子である私を操り、国政を私物化したこと。第三に、忠誠を装いながら王国の秩序を乱し、貴族社会を混乱させたこと!」


罪状は、どれも強い言葉だった。どれも、具体に触れていない。だが具体がないからこそ、反論しにくい。空気が“そうだ”と決めてしまえば、証拠など飾りに過ぎない。


誰かが続けざまに叫ぶ。「そうだ!」と。誰かが、それに乗る。どこからともなく、すすり泣きの演技じみた声が混じる。騎士団長が剣の柄に手を置き、正義の形を作る。


王太子の隣、聖女と呼ばれる少女が、涙に濡れた瞳を上げた。彼女は小さく首を振り、か細い声で言う。


「わ、わたし……エリシア様を信じたかった……でも……」


その台詞は、舞台装置の最後の釘だった。大広間の空気が固まり、視線が一斉に、令嬢へ突き刺さる。


ルシアンが勝ちを確信した口調で言う。


「弁明はあるか」


エリシアは一度だけ、瞬きをした。まるで遠い時計の針が、ようやく音を立てたみたいに。その後、唇が少しだけ動いたが、声にはならなかった。彼女は言葉を探さない。言葉で戦わない。最初から、ここが議論の場ではないと知っている人間の沈黙だった。


沈黙は、ときに否定よりも都合がいい。周囲は勝手に解釈する。“反論できないのだ”と。


「ならば宣言する」王太子は声をさらに上げた。「本日をもって、貴様との婚約を破棄する! そしてアルデリア王国より追放だ!」


一拍置いて、誰かが拍手をした。拍手は伝染する。正義の拍手は、響けば響くほど気持ちがいい。大広間は拍手と歓声で満たされ、王は重々しく頷き、貴族たちは互いに視線を交わして“歴史的瞬間”を共有した。


その中で、エリシアだけが静かだった。


彼女はゆっくりと一礼した。形式だけが残る角度で、十分な時間をかけて。顔を上げるとき、目が王太子の方へ向いたのかどうか、誰も確信できない。拍手と歓声の中で、人は見たいものしか見ないからだ。


エリシアは振り返り、扉へ向かった。護衛の騎士が二人、左右につく。彼女は一度も振り向かない。誰の言葉も拾わない。まるでこの大広間が、最初から自分の居場所ではなかったみたいに。


扉が閉まった瞬間、拍手が一段大きくなった。舞台から役者が去って、ようやく観客が安心したのだ。


その夜、王都には祝杯が並んだ。悪役が去り、正義が勝った、と。


誰も知らない。勝利の祝杯が、ひどく薄い味になる日が来ることを。



追放令は迅速だった。荷物は最低限。付き人は許されず、馬車一台、護衛の騎士は国境まで。王都の門を出るとき、石畳の隙間に落ちた光が、奇妙に冷たく見えた。


国境の森は、冬の気配を含んでいた。枯れ枝が風に擦れて、細い音を立てる。護衛の騎士が形式的に告げた。


「ここから先は、我が国の管轄外です」


エリシアは頷いた。必要な礼だけで、必要以上の言葉は返さない。馬車を降り、森の道を自分の足で歩き始める。


背後で馬車が引き返す音が遠のく。彼女は一度も振り返らなかった。振り返っても、何も残っていないからだ。


森を抜けると、ゆるい丘陵の向こうに小さな町が見えた。旗は質素で、城壁も低い。だが、遠目でも分かる。畑の色が揃っている。家々の屋根が整っている。道に人がいる。生きている国の匂いがした。


町の門で、意外なほど丁寧に迎えられた。役人が名を確認し、緊張しながらも、礼を尽くして言う。


「こちらへ。宰相閣下がお待ちです」


隣国セレスティア。大国の陰で目立たない小国だ。だが、役人の動きに無駄がない。声が荒くない。門番の目が、怯えではなく警戒である。守るべき秩序がここにはある。


城、と呼ぶには控えめな石造りの館で、老宰相ユリウス・グランが待っていた。白髪は整えられ、背は曲がっていない。年齢を感じさせるのは、目の奥の静かな重さだけだった。


「アルデリアの公爵令嬢が、国境を越えると聞きましてな」


ユリウスの声は低い。決して押しつけがましくないのに、言葉が逃げ場を作らない。


エリシアは礼をした。ここでも形式は正確だった。


「追放の身でございます。ご迷惑でなければ、一夜の宿を」


「一夜では足りまい」老宰相は穏やかに言った。「あなたは追われる。アルデリアは面子を守るために、あなたを“消す”誘惑に勝てないでしょう」


その言い方は、恐怖を煽るためではなかった。天気の話をするみたいに淡々としていた。だからこそ、現実味がある。


エリシアは眉をわずかに動かした。驚きではなく、確認の表情だ。


「保護を申し出ます」ユリウスは続けた。「名目は、亡命貴族の受け入れ。実質は、国家の判断です」


そこまで言って、老宰相は一度だけ視線を外した。扉の方へ。


「息子が同席してもよろしいかな」


扉が開き、青年が入ってきた。背が高く、軍人ほど硬くはないが、姿勢が良い。髪は濃い栗色で、目は冷静だ。礼をした動きに、癖がない。


「クラウス・グランです。父の補佐をしています」


彼の声は若いが、軽くない。エリシアは一度、彼を見てから視線を落とした。品位のある距離の取り方だった。


老宰相が言う。


「彼女を“客”として扱え。だが、客という言葉の裏に、縄を隠すな」


クラウスは一瞬だけ目を細めた。縄、という言葉の意味を理解したのだ。保護とは、善意だけでは成り立たない。守るには、管理が要る。


「承知しました」


その返事の端正さを聞いたとき、エリシアの唇がわずかに上がった。笑みには見えないほど薄いが、確かに角度が変わった。


「……では、お世話になります」


それだけで十分だった。多くを語らなくても、ここでは多くが動く。



セレスティアの生活は、驚くほど地味だった。豪奢な舞踏会はない。日々は会議と帳簿と裁可で埋まる。だが、その地味さが、国を生かしている。


クラウスは、エリシアを“判断の場”に同席させた。だが彼女に決めさせない。決めさせないことが、彼女を守る最善だと直感していた。


最初の会議で、地方の水路工事の予算が揉めた。農民組合が増額を求め、商人が反対し、役人が責任逃れの言い回しを並べる。いつもの光景だ。クラウスが収めようとするが、言葉が重なる。


そのとき、エリシアが椅子にもたれ、腕を組んだまま、軽く言った。


「それ、今決める必要あります?」


一瞬で空気が止まった。誰もが“外から来た追放令嬢”の言葉を咎めるべきか迷う。その迷いが、議論の熱を冷ます。


クラウスは視線だけで彼女を制しようとしたが、エリシアは気づいた様子もなく続けた。


「急ぐと、だいたい失敗しますよね。工事の季節は逃げません。先に、水量の実測を揃えたらどうです。予算の議論は、その後のほうが早い」


提案は正しかった。だが彼女は断定しない。命令もしない。“どうです”で終える。責任の所在を奪わない。結果、役人たちは安堵して頷き、商人は反論の矛先を失い、農民組合も“実測”という言葉に納得の余地を見つけた。


会議が終わったあと、クラウスは廊下で彼女に言った。


「あなたは、会議を止めるのが上手い」


「止めてません」エリシアは肩をすくめた。「勝手に止まっただけです。私は、口を挟んだだけ」


「同じことだ」


「違います。決めたのはあなたです」


さらりと言って、彼女は窓際へ歩いた。外には小さな庭があり、冬の前の草が短く揃えられている。庭師が丁寧に手入れしているのだろう。


「ここは……静かですね」


言い方が少しだけ柔らかかった。クラウスは気づく。彼女の声が、ほんの少しだけ幼くなる瞬間がある。


「静かな国は嫌いですか」


「嫌いじゃない。落ち着く」


その短い言葉が、妙に素朴だった。彼女はすぐに言い直すように、咳払いをひとつした。


「……失礼。こういう環境は、助かります」


クラウスは追わなかった。追えば、彼女は扉を閉じる。追わなければ、隙間から素が見える。彼はその加減が分かる男だった。


それから、似た場面が何度もあった。


執務が長引いた夜、クラウスが書類の束を抱えたまま息を吐くと、エリシアが机の端を指で叩き、笑いを含んだ声で言う。


「え、まだやるの? 体、壊れますよ」


「あなたは壊れないのか」


「私は……」彼女は言いかけて、ふっと視線を逸らした。「壊れたことにするほうが、便利なときもあります」


その言い回しは皮肉だったが、刺さるほど鋭くはない。笑って流せる温度だ。


別の日、厨房から甘い香りがした。焼き菓子だ。侍女が持ってきた皿を見て、エリシアがふいに目を輝かせた。


「……それ、今日の?」


「はい。リンゴのタルトです」


「やった。じゃあ、お茶飲も」


言い終わって、彼女は固まった。まるで自分の口が先に走ったことに驚いたように。次の瞬間、背筋を整え、視線を落とす。


「……いえ。お茶を、いただきましょう」


クラウスは何も言わず、ただ頷いた。侍女が微笑みを押し殺して去っていく。部屋に残った甘い香りだけが、彼女の“素”を肯定していた。


エリシアは気まずそうに言った。


「聞かなかったことに」


「聞こえました」


「……なら、忘れてください」


「忘れません」


それは、告白の形をしていないのに、告白よりも近い距離の言葉だった。エリシアは小さく舌打ちしかけて、寸前で飲み込んだ。


「あなた、意外と意地が悪い」


「あなたほどではない」


「私は、意地悪ではなく合理的です」


「同義語だ」


エリシアは笑った。初めて、はっきりと笑った。その笑い声は軽く、短く、部屋の角で消えた。だがその後、部屋の空気がなぜか整った。タルトの香りが、妙に安心を連れてくる。


クラウスは、その感覚に名前をつけなかった。つけてしまえば、理屈の外へ出てしまうからだ。



一方、アルデリアは、すぐには崩れなかった。大国は、多少の欠落では倒れない。倒れないからこそ、欠落に気づかない。


最初は小さな事故だった。


倉庫の鍵が合わない。帳簿の数字が一桁ずれる。各地の収穫量の報告が食い違う。役人が責任を押し付け合い、議論が増え、決裁が遅れる。遅れた分だけ現場が疲れる。疲れた現場がまたミスをする。


王都の噂は早い。“最近、運が悪い”と誰かが言い、それが“最近、治安が悪い”に変わり、“最近、王太子の采配が心配だ”に育つ。


正義の拍手は、長くは保たない。拍手はすぐに、別の誰かを殴る手になる。


王太子ルシアンは苛立ち、苛立ちをごまかすように声を張った。


「改革だ! あの女の影響を一掃する!」


だが影響とは、制度に染み込むものだ。人の癖に潜むものだ。誰かを追放した程度で消えるものではない。逆に、追放したことで、制度の穴だけが露になる。


聖女の涙は、いつしか責めの涙に変わる。


「私、こんなはずじゃ……」


大広間での正義は、現実の泥を拭えない。



セレスティアでは、逆の現象が起きていた。


何かが劇的に変わったわけではない。戦争に勝ったわけでもない。金鉱が見つかったわけでもない。だが、揉め事が揉め事のまま終わらない。決裁が遅れても、必要なところで止まらない。商人が、隣国よりもここを選ぶ。移住者が増える。兵士が荒れない。農民が口を閉ざさない。


クラウスは数字でそれを確認しながら、説明できない違和感を抱いていた。


国が、呼吸を始めたような感覚。


エリシアは何もしていない。そう見える。実際、彼女は決めない。断じない。命じない。責任を背負わない。会議で軽口を言い、時に核心を突き、必ず最後は他者に渡す。


「あなたが決めてください。あなたの国でしょう」


その言葉が、クラウスの背骨を支える。背負いすぎれば折れるが、背負わなければ国は倒れる。彼女はその中間を、言葉の温度で作る。


ある日、街の視察で、子どもが転びかけた。荷車の車輪が滑り、倒れそうになった瞬間、エリシアが反射で声を上げた。


「それ、危ないよ!」


彼女が駆け寄るより早く、荷車は不思議と止まった。引いていた男が踏ん張っただけだ、と誰もが言うだろう。偶然、道の石が噛んだのかもしれない。子どもは泣かずに済んだ。


エリシアは子どもの頭を撫でかけて、途中で手を引っ込めた。公爵令嬢としての距離を思い出したのだ。


「……怪我は?」


「だいじょぶ!」


「よかった」彼女は短く言って、すぐに咳払いをする。「よかったですね。お母様のところへ戻りなさい」


言い直しは、癖だ。癖の奥に、素がある。素の奥に、彼女が隠してきたものがある。


夜、クラウスはそのことをふと口にした。


「あなたは、安心すると言葉が幼くなる」


エリシアは手元の書類から目を離さず、淡々と返した。


「そうですか」


「自覚は」


「ありません。……ありませんが」彼女は一瞬だけ、指を止めた。「気を抜くな、ということでしょう」


「気を抜いていい」


「国は?」


「国も」


「それは、あなたが言うことではありません」


「あなたが言うことでもない」


エリシアは鼻で笑った。否定でも肯定でもない笑いだ。


「……あなた、今日は機嫌がいい」


「あなたがタルトを二切れ食べたからだ」


「私は食べてません」


「見ていました」


「見たなら、忘れてください」


「忘れません」


その会話は、恋人のそれに似ているのに、恋人の言葉を借りていない。二人の間にあるのは、相手を縛る契約ではなく、相手がここにいていいという黙認だった。



春、アルデリアから使者が来た。


衣装は豪奢で、言葉は丁寧で、匂いは焦りだった。応接室で、使者は礼を尽くし、遠回しに言う。


「我が国は、過去の誤解を正したい。エリシア……いえ、令嬢を、迎え入れたい」


クラウスは黙って聞き、エリシアを横目で見た。彼女は椅子に深く座り、指先で肘掛けを軽く叩いている。いつもの癖。退屈しているときの癖。


「迎え入れる、というのは」エリシアが口を開いた。「どの立場で?」


使者が微笑む。


「それは……国がふさわしい形を用意いたします」


「便利ですね」エリシアはさらりと言った。「ふさわしい形、という言葉ほど、責任の所在を消すものはない」


使者の笑みが硬くなる。クラウスは息を吐きたいのを堪えた。エリシアはやはり、場の温度を変えるのが上手い。


「私は追放されました」エリシアは続けた。「追放は、国の決定でしょう。国の決定は、国が背負うべきです。私が戻ったところで、何が変わります?」


「国の安定が——」


「安定」エリシアは言葉を繰り返し、少しだけ首を傾げた。「あなたは本気で、安定が欲しいんですか。それとも、あなたの主君が欲しいのは、過去の正しさですか」


使者は言葉に詰まった。答えは分かっているが、口に出せない。彼は、ここが交渉の場ではなく、“体裁”の場だと理解している。体裁は、核心を嫌う。


クラウスが口を開く。


「我が国は、エリシア嬢を保護しています。引き渡す意志はない」


使者は顔色を変えた。「保護、とは……」


「国家の判断です」クラウスは淡々と言った。「あなた方がかつて行ったのと同じ」


同じ、という言葉が刃になった。使者は反論できない。過去を否定すれば、今の要求が崩れる。


エリシアがふいに、ほんの少しだけ柔らかい声を出した。


「帰る家、という言葉が、私は好きでした。……昔は」


その“昔は”が、短くて重い。使者の目が揺れる。


「でも、今は違います」エリシアは続けた。「家は、私を追い出しました。私は、出ました。それで終わりです」


彼女はそこで言葉を切った。余計な情緒を足さない。足せば、相手はそこに付け込む。付け込ませないために、言葉は短くする。


使者が最後の切り札のように言った。


「あなたが戻らねば、国は……」


エリシアは少しだけ笑った。笑いは軽い。だが目は笑わない。


「国が傾くのは、私のせいですか?」


使者は答えられない。答えれば、追放の正義が崩れる。答えなければ、要求が崩れる。


沈黙が落ちた。沈黙の中で、クラウスは一つだけ確信した。エリシアは裁いていない。罰していない。彼女はただ、戻らないと言っているだけだ。それだけで、相手が勝手に崩れていく。


使者は退いた。礼を尽くし、焦りを隠しきれず、去っていった。


扉が閉まったあと、エリシアは息を吐いて椅子に背を預けた。


「疲れた」


言い方が、少し幼い。彼女はすぐに眉を寄せて直す。


「……失礼。少々、疲れました」


クラウスは机の上の水差しを差し出した。


「飲む?」


「うん」


返事が短い。彼女は水を一口飲んで、グラスを置く。置き方が丁寧すぎる。丁寧さが、彼女の防壁だ。


「あなたは、戻りたいと思うことはないのか」


クラウスの問いに、エリシアはしばらく答えなかった。窓の外で、庭師が花壇を整えている。土の匂いが、薄く入ってくる。


「戻ったら」エリシアはぽつりと言った。「私がそこにいた理由まで、全部、言葉にしないといけない気がする」


「言葉にできない理由か」


「言葉にしたら、壊れる理由」


クラウスは頷いた。理屈では分からないが、感覚として分かる。説明は、ときに本体を削る。


エリシアは、ふいに小さく笑った。


「ねえ。今日、タルトある?」


「ある」


「やった。……あ」彼女は自分の口を押さえるように、指先で唇の端に触れた。「……では。いただきましょう」


クラウスは笑わなかった。笑えば、彼女はまた扉を閉める。代わりに、彼は静かに言った。


「今日は二切れまでにしろ」


「見てたの?」


「見ていた」


「……意地悪」


「合理的だ」


「それ、私の台詞」


言い合いの最後に、エリシアが肩を落として、ほんとうに小さな声で言った。


「ここ、あったかいね」


クラウスは答えた。


「そうだな」


彼女が“あったかい”と言える場所が、ここにある。その事実だけで、国は充分に価値がある。クラウスはそう思った。だから、守る。決める。背負う。彼女に背負わせないために。



数年が過ぎた。


セレスティアは変わらず小国のままだった。地図の上で大きくはならない。だが、地図の上に載らない豊かさが増えた。市場の声が太くなり、通りの石畳が補修され、子どもの数が増えた。人が、ここに未来を置き始めた。


アルデリアは、目に見えて痩せた。大国の面子は残るが、内側が薄い。役人が辞め、商人が離れ、地方が乾く。王太子は苛立ち、苛立ちが政策を歪ませ、歪みがまた苛立ちを呼ぶ。正義の拍手は、いつしか自分たちを叩く音になる。


それでも、誰も決定的な原因を言えない。原因を言ってしまえば、過去の断罪が滑稽になるからだ。滑稽になるくらいなら、国が痩せたほうがましだと思う者がいる。人間は、面子のために飢えることがある。


クラウスは宰相となり、老宰相ユリウスは引退した。引退しても、館の奥の書庫に座り、記録を読み、時折、庭を歩く。彼は国の呼吸を聞くように生きていた。


エリシアは変わらなかった。相変わらず軽口を叩き、相変わらず決めず、相変わらず責任を取らない。けれど、彼女がいるところでは揉め事が長引かない。それが国の肌になった。


ある夕方、クラウスが執務室へ戻ると、エリシアが窓辺で本を読んでいた。足を投げ出すほど崩れてはいないが、背中が少しだけ丸い。安心している姿勢だ。


「今日は早いのね」


「会議がまとまった」


「へえ。偉い」


「あなたが同席していたからだ」


「違う」エリシアは本を閉じた。「決めたのはあなた」


「いつもそれだ」


「責任、好きでしょう?」


「嫌いだ」


「じゃあ、どうして背負うの」


彼女の問いは、子どもみたいに真っ直ぐだった。クラウスは一瞬、答えに迷ってから言った。


「背負わないと、誰かが落ちる」


エリシアは少しだけ目を細めた。嬉しそうにも見えるし、寂しそうにも見える。どちらでもない、ただの表情の揺れ。


「……えらいね」


今度の言い方は、完全に子どものそれだった。彼女は気づいて、すぐに視線を逸らす。


「……失礼。褒め言葉の選択が、幼いだけです」


「そのままでいい」


「よくない」


「よくないのは、昔の国だ」


エリシアは笑わなかった。代わりに、窓の外を見た。庭の木々は、風に葉を揺らしている。揺れは穏やかで、乱れない。


彼女は小さく息を吐き、言った。


「タルト、ある?」


クラウスは少しだけ口元を緩めた。


「ある」


「やった」


言ってしまって、彼女は肩をすくめる。直そうとする前に、クラウスが言う。


「直さなくていい」


「……意地悪」


「合理的だ」


「それ、ほんとに便利ね」


二人の会話の先に、説明はない。説明のないまま、日々が積み重なる。積み重なることが、国の繁栄だった。



そしてある夜、老宰相ユリウスは書庫の奥で、古い年代記を閉じた。蝋燭の火が、紙の端を黄金色に染める。彼はその光の中で、小さく笑った。誰に聞かせるでもなく。


「……そういえば」

老宰相は、誰に聞かせるでもなく呟いた。

「座敷わらし、などという言葉もあったな」


もちろん、迷信だ。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


この物語は、

「断罪そのものは、物語としては成功している」

という前提から始まっています。

喝采も、拍手も、正義の言葉も、あの場では確かに成立していました。


けれど、物語が終わったあとに残るのは、

選択の結果です。


誰かを追い出したこと。

誰かがいなくなったこと。

それによって、何が変わり、何が変わらなかったのか。


本作では、それを説明する言葉を、できるだけ使わないようにしました。

理由を与えることは、時に安心になりますが、

同時に、考える余地を奪ってしまうからです。


何もしていないように見える人物が、

実は何かを「していた」のか。

あるいは、本当に何もしていなかったのか。

その答えは、作中には書いていません。


もし読み終えてから、

「あれは何だったのだろう」

「失われたものは、何だったのだろう」

と少しでも立ち止まっていただけたなら、

この物語は十分に役目を果たしたと思っています。


最後まで、お付き合いいただきありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
>「罪状は三つ。第一に、民を見下し、慈悲を欠いたこと。第二に、王太子である私を操り、国政を私物化したこと。第三に、忠誠を装いながら王国の秩序を乱し、貴族社会を混乱させたこと!」 >追放令は迅速だった。…
なるほど。エリシア嬢は座敷わらしでしたか。 そりゃ追い出した国はこうもなる。 座敷わらし云々を抜きにしても、“場を取り持つ力を持つ存在”を蔑ろにすれば極論として国の運営が上手く行かなくなるのも必然。…
座敷童子が出て行った家は、不幸に見舞われるんですよね。 王家が食中毒で全滅しそう
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ