『断罪は成功した。国が傾いたのは、別の理由だと思いたい』─失われたものの名
本作には、
婚約破棄、断罪、追放といった、よくある展開が出てきます。
拍手が起き、正義が語られ、物語としては「成功した」場面です。
その先で、何が起きるのか。
あるいは、何が起きなかったのか。
この短編は、
ざまぁの瞬間ではなく、
その後に残る時間を描いています。
派手な説明や、明確な答えは用意していません。
登場人物たちが選んだことと、
その選択のあとに積み重なった結果だけがあります。
もしよろしければ、
最後の一行まで読んだあと、
もう一度タイトルを見返してみてください。
では。
大理石の床は、よく磨かれていた。磨かれすぎて、頭上のシャンデリアの光が足元に落ち、そこに立つ人間の顔色まで映してしまうほどだった。
アルデリア王国の大広間。玉座の前に扇状に並ぶ貴族席は、今日はいつもより密だった。騎士団の白い外套が壁際を固め、背後にはなぜか、許可された“見物人”までいる。正義の祝祭は、観客が多いほど映えるからだ。
王太子ルシアンが一歩前に出ると、ざわめきが波のように引いた。わずかな沈黙のあと、彼は声を張った。
「アルデリア公爵家令嬢、エリシア・ヴァンデル。貴様を、ここに糾弾する!」
糾弾、という言葉が空気を切った瞬間、大広間の温度が一度上がった。誰かが息を呑み、誰かが期待に唇を歪め、誰かが“ようやく始まった”という顔をする。
玉座の前に立つ当の本人は、動かなかった。背筋だけが、端正に真っ直ぐだった。
「罪状は三つ。第一に、民を見下し、慈悲を欠いたこと。第二に、王太子である私を操り、国政を私物化したこと。第三に、忠誠を装いながら王国の秩序を乱し、貴族社会を混乱させたこと!」
罪状は、どれも強い言葉だった。どれも、具体に触れていない。だが具体がないからこそ、反論しにくい。空気が“そうだ”と決めてしまえば、証拠など飾りに過ぎない。
誰かが続けざまに叫ぶ。「そうだ!」と。誰かが、それに乗る。どこからともなく、すすり泣きの演技じみた声が混じる。騎士団長が剣の柄に手を置き、正義の形を作る。
王太子の隣、聖女と呼ばれる少女が、涙に濡れた瞳を上げた。彼女は小さく首を振り、か細い声で言う。
「わ、わたし……エリシア様を信じたかった……でも……」
その台詞は、舞台装置の最後の釘だった。大広間の空気が固まり、視線が一斉に、令嬢へ突き刺さる。
ルシアンが勝ちを確信した口調で言う。
「弁明はあるか」
エリシアは一度だけ、瞬きをした。まるで遠い時計の針が、ようやく音を立てたみたいに。その後、唇が少しだけ動いたが、声にはならなかった。彼女は言葉を探さない。言葉で戦わない。最初から、ここが議論の場ではないと知っている人間の沈黙だった。
沈黙は、ときに否定よりも都合がいい。周囲は勝手に解釈する。“反論できないのだ”と。
「ならば宣言する」王太子は声をさらに上げた。「本日をもって、貴様との婚約を破棄する! そしてアルデリア王国より追放だ!」
一拍置いて、誰かが拍手をした。拍手は伝染する。正義の拍手は、響けば響くほど気持ちがいい。大広間は拍手と歓声で満たされ、王は重々しく頷き、貴族たちは互いに視線を交わして“歴史的瞬間”を共有した。
その中で、エリシアだけが静かだった。
彼女はゆっくりと一礼した。形式だけが残る角度で、十分な時間をかけて。顔を上げるとき、目が王太子の方へ向いたのかどうか、誰も確信できない。拍手と歓声の中で、人は見たいものしか見ないからだ。
エリシアは振り返り、扉へ向かった。護衛の騎士が二人、左右につく。彼女は一度も振り向かない。誰の言葉も拾わない。まるでこの大広間が、最初から自分の居場所ではなかったみたいに。
扉が閉まった瞬間、拍手が一段大きくなった。舞台から役者が去って、ようやく観客が安心したのだ。
その夜、王都には祝杯が並んだ。悪役が去り、正義が勝った、と。
誰も知らない。勝利の祝杯が、ひどく薄い味になる日が来ることを。
*
追放令は迅速だった。荷物は最低限。付き人は許されず、馬車一台、護衛の騎士は国境まで。王都の門を出るとき、石畳の隙間に落ちた光が、奇妙に冷たく見えた。
国境の森は、冬の気配を含んでいた。枯れ枝が風に擦れて、細い音を立てる。護衛の騎士が形式的に告げた。
「ここから先は、我が国の管轄外です」
エリシアは頷いた。必要な礼だけで、必要以上の言葉は返さない。馬車を降り、森の道を自分の足で歩き始める。
背後で馬車が引き返す音が遠のく。彼女は一度も振り返らなかった。振り返っても、何も残っていないからだ。
森を抜けると、ゆるい丘陵の向こうに小さな町が見えた。旗は質素で、城壁も低い。だが、遠目でも分かる。畑の色が揃っている。家々の屋根が整っている。道に人がいる。生きている国の匂いがした。
町の門で、意外なほど丁寧に迎えられた。役人が名を確認し、緊張しながらも、礼を尽くして言う。
「こちらへ。宰相閣下がお待ちです」
隣国セレスティア。大国の陰で目立たない小国だ。だが、役人の動きに無駄がない。声が荒くない。門番の目が、怯えではなく警戒である。守るべき秩序がここにはある。
城、と呼ぶには控えめな石造りの館で、老宰相ユリウス・グランが待っていた。白髪は整えられ、背は曲がっていない。年齢を感じさせるのは、目の奥の静かな重さだけだった。
「アルデリアの公爵令嬢が、国境を越えると聞きましてな」
ユリウスの声は低い。決して押しつけがましくないのに、言葉が逃げ場を作らない。
エリシアは礼をした。ここでも形式は正確だった。
「追放の身でございます。ご迷惑でなければ、一夜の宿を」
「一夜では足りまい」老宰相は穏やかに言った。「あなたは追われる。アルデリアは面子を守るために、あなたを“消す”誘惑に勝てないでしょう」
その言い方は、恐怖を煽るためではなかった。天気の話をするみたいに淡々としていた。だからこそ、現実味がある。
エリシアは眉をわずかに動かした。驚きではなく、確認の表情だ。
「保護を申し出ます」ユリウスは続けた。「名目は、亡命貴族の受け入れ。実質は、国家の判断です」
そこまで言って、老宰相は一度だけ視線を外した。扉の方へ。
「息子が同席してもよろしいかな」
扉が開き、青年が入ってきた。背が高く、軍人ほど硬くはないが、姿勢が良い。髪は濃い栗色で、目は冷静だ。礼をした動きに、癖がない。
「クラウス・グランです。父の補佐をしています」
彼の声は若いが、軽くない。エリシアは一度、彼を見てから視線を落とした。品位のある距離の取り方だった。
老宰相が言う。
「彼女を“客”として扱え。だが、客という言葉の裏に、縄を隠すな」
クラウスは一瞬だけ目を細めた。縄、という言葉の意味を理解したのだ。保護とは、善意だけでは成り立たない。守るには、管理が要る。
「承知しました」
その返事の端正さを聞いたとき、エリシアの唇がわずかに上がった。笑みには見えないほど薄いが、確かに角度が変わった。
「……では、お世話になります」
それだけで十分だった。多くを語らなくても、ここでは多くが動く。
*
セレスティアの生活は、驚くほど地味だった。豪奢な舞踏会はない。日々は会議と帳簿と裁可で埋まる。だが、その地味さが、国を生かしている。
クラウスは、エリシアを“判断の場”に同席させた。だが彼女に決めさせない。決めさせないことが、彼女を守る最善だと直感していた。
最初の会議で、地方の水路工事の予算が揉めた。農民組合が増額を求め、商人が反対し、役人が責任逃れの言い回しを並べる。いつもの光景だ。クラウスが収めようとするが、言葉が重なる。
そのとき、エリシアが椅子にもたれ、腕を組んだまま、軽く言った。
「それ、今決める必要あります?」
一瞬で空気が止まった。誰もが“外から来た追放令嬢”の言葉を咎めるべきか迷う。その迷いが、議論の熱を冷ます。
クラウスは視線だけで彼女を制しようとしたが、エリシアは気づいた様子もなく続けた。
「急ぐと、だいたい失敗しますよね。工事の季節は逃げません。先に、水量の実測を揃えたらどうです。予算の議論は、その後のほうが早い」
提案は正しかった。だが彼女は断定しない。命令もしない。“どうです”で終える。責任の所在を奪わない。結果、役人たちは安堵して頷き、商人は反論の矛先を失い、農民組合も“実測”という言葉に納得の余地を見つけた。
会議が終わったあと、クラウスは廊下で彼女に言った。
「あなたは、会議を止めるのが上手い」
「止めてません」エリシアは肩をすくめた。「勝手に止まっただけです。私は、口を挟んだだけ」
「同じことだ」
「違います。決めたのはあなたです」
さらりと言って、彼女は窓際へ歩いた。外には小さな庭があり、冬の前の草が短く揃えられている。庭師が丁寧に手入れしているのだろう。
「ここは……静かですね」
言い方が少しだけ柔らかかった。クラウスは気づく。彼女の声が、ほんの少しだけ幼くなる瞬間がある。
「静かな国は嫌いですか」
「嫌いじゃない。落ち着く」
その短い言葉が、妙に素朴だった。彼女はすぐに言い直すように、咳払いをひとつした。
「……失礼。こういう環境は、助かります」
クラウスは追わなかった。追えば、彼女は扉を閉じる。追わなければ、隙間から素が見える。彼はその加減が分かる男だった。
それから、似た場面が何度もあった。
執務が長引いた夜、クラウスが書類の束を抱えたまま息を吐くと、エリシアが机の端を指で叩き、笑いを含んだ声で言う。
「え、まだやるの? 体、壊れますよ」
「あなたは壊れないのか」
「私は……」彼女は言いかけて、ふっと視線を逸らした。「壊れたことにするほうが、便利なときもあります」
その言い回しは皮肉だったが、刺さるほど鋭くはない。笑って流せる温度だ。
別の日、厨房から甘い香りがした。焼き菓子だ。侍女が持ってきた皿を見て、エリシアがふいに目を輝かせた。
「……それ、今日の?」
「はい。リンゴのタルトです」
「やった。じゃあ、お茶飲も」
言い終わって、彼女は固まった。まるで自分の口が先に走ったことに驚いたように。次の瞬間、背筋を整え、視線を落とす。
「……いえ。お茶を、いただきましょう」
クラウスは何も言わず、ただ頷いた。侍女が微笑みを押し殺して去っていく。部屋に残った甘い香りだけが、彼女の“素”を肯定していた。
エリシアは気まずそうに言った。
「聞かなかったことに」
「聞こえました」
「……なら、忘れてください」
「忘れません」
それは、告白の形をしていないのに、告白よりも近い距離の言葉だった。エリシアは小さく舌打ちしかけて、寸前で飲み込んだ。
「あなた、意外と意地が悪い」
「あなたほどではない」
「私は、意地悪ではなく合理的です」
「同義語だ」
エリシアは笑った。初めて、はっきりと笑った。その笑い声は軽く、短く、部屋の角で消えた。だがその後、部屋の空気がなぜか整った。タルトの香りが、妙に安心を連れてくる。
クラウスは、その感覚に名前をつけなかった。つけてしまえば、理屈の外へ出てしまうからだ。
*
一方、アルデリアは、すぐには崩れなかった。大国は、多少の欠落では倒れない。倒れないからこそ、欠落に気づかない。
最初は小さな事故だった。
倉庫の鍵が合わない。帳簿の数字が一桁ずれる。各地の収穫量の報告が食い違う。役人が責任を押し付け合い、議論が増え、決裁が遅れる。遅れた分だけ現場が疲れる。疲れた現場がまたミスをする。
王都の噂は早い。“最近、運が悪い”と誰かが言い、それが“最近、治安が悪い”に変わり、“最近、王太子の采配が心配だ”に育つ。
正義の拍手は、長くは保たない。拍手はすぐに、別の誰かを殴る手になる。
王太子ルシアンは苛立ち、苛立ちをごまかすように声を張った。
「改革だ! あの女の影響を一掃する!」
だが影響とは、制度に染み込むものだ。人の癖に潜むものだ。誰かを追放した程度で消えるものではない。逆に、追放したことで、制度の穴だけが露になる。
聖女の涙は、いつしか責めの涙に変わる。
「私、こんなはずじゃ……」
大広間での正義は、現実の泥を拭えない。
*
セレスティアでは、逆の現象が起きていた。
何かが劇的に変わったわけではない。戦争に勝ったわけでもない。金鉱が見つかったわけでもない。だが、揉め事が揉め事のまま終わらない。決裁が遅れても、必要なところで止まらない。商人が、隣国よりもここを選ぶ。移住者が増える。兵士が荒れない。農民が口を閉ざさない。
クラウスは数字でそれを確認しながら、説明できない違和感を抱いていた。
国が、呼吸を始めたような感覚。
エリシアは何もしていない。そう見える。実際、彼女は決めない。断じない。命じない。責任を背負わない。会議で軽口を言い、時に核心を突き、必ず最後は他者に渡す。
「あなたが決めてください。あなたの国でしょう」
その言葉が、クラウスの背骨を支える。背負いすぎれば折れるが、背負わなければ国は倒れる。彼女はその中間を、言葉の温度で作る。
ある日、街の視察で、子どもが転びかけた。荷車の車輪が滑り、倒れそうになった瞬間、エリシアが反射で声を上げた。
「それ、危ないよ!」
彼女が駆け寄るより早く、荷車は不思議と止まった。引いていた男が踏ん張っただけだ、と誰もが言うだろう。偶然、道の石が噛んだのかもしれない。子どもは泣かずに済んだ。
エリシアは子どもの頭を撫でかけて、途中で手を引っ込めた。公爵令嬢としての距離を思い出したのだ。
「……怪我は?」
「だいじょぶ!」
「よかった」彼女は短く言って、すぐに咳払いをする。「よかったですね。お母様のところへ戻りなさい」
言い直しは、癖だ。癖の奥に、素がある。素の奥に、彼女が隠してきたものがある。
夜、クラウスはそのことをふと口にした。
「あなたは、安心すると言葉が幼くなる」
エリシアは手元の書類から目を離さず、淡々と返した。
「そうですか」
「自覚は」
「ありません。……ありませんが」彼女は一瞬だけ、指を止めた。「気を抜くな、ということでしょう」
「気を抜いていい」
「国は?」
「国も」
「それは、あなたが言うことではありません」
「あなたが言うことでもない」
エリシアは鼻で笑った。否定でも肯定でもない笑いだ。
「……あなた、今日は機嫌がいい」
「あなたがタルトを二切れ食べたからだ」
「私は食べてません」
「見ていました」
「見たなら、忘れてください」
「忘れません」
その会話は、恋人のそれに似ているのに、恋人の言葉を借りていない。二人の間にあるのは、相手を縛る契約ではなく、相手がここにいていいという黙認だった。
*
春、アルデリアから使者が来た。
衣装は豪奢で、言葉は丁寧で、匂いは焦りだった。応接室で、使者は礼を尽くし、遠回しに言う。
「我が国は、過去の誤解を正したい。エリシア……いえ、令嬢を、迎え入れたい」
クラウスは黙って聞き、エリシアを横目で見た。彼女は椅子に深く座り、指先で肘掛けを軽く叩いている。いつもの癖。退屈しているときの癖。
「迎え入れる、というのは」エリシアが口を開いた。「どの立場で?」
使者が微笑む。
「それは……国がふさわしい形を用意いたします」
「便利ですね」エリシアはさらりと言った。「ふさわしい形、という言葉ほど、責任の所在を消すものはない」
使者の笑みが硬くなる。クラウスは息を吐きたいのを堪えた。エリシアはやはり、場の温度を変えるのが上手い。
「私は追放されました」エリシアは続けた。「追放は、国の決定でしょう。国の決定は、国が背負うべきです。私が戻ったところで、何が変わります?」
「国の安定が——」
「安定」エリシアは言葉を繰り返し、少しだけ首を傾げた。「あなたは本気で、安定が欲しいんですか。それとも、あなたの主君が欲しいのは、過去の正しさですか」
使者は言葉に詰まった。答えは分かっているが、口に出せない。彼は、ここが交渉の場ではなく、“体裁”の場だと理解している。体裁は、核心を嫌う。
クラウスが口を開く。
「我が国は、エリシア嬢を保護しています。引き渡す意志はない」
使者は顔色を変えた。「保護、とは……」
「国家の判断です」クラウスは淡々と言った。「あなた方がかつて行ったのと同じ」
同じ、という言葉が刃になった。使者は反論できない。過去を否定すれば、今の要求が崩れる。
エリシアがふいに、ほんの少しだけ柔らかい声を出した。
「帰る家、という言葉が、私は好きでした。……昔は」
その“昔は”が、短くて重い。使者の目が揺れる。
「でも、今は違います」エリシアは続けた。「家は、私を追い出しました。私は、出ました。それで終わりです」
彼女はそこで言葉を切った。余計な情緒を足さない。足せば、相手はそこに付け込む。付け込ませないために、言葉は短くする。
使者が最後の切り札のように言った。
「あなたが戻らねば、国は……」
エリシアは少しだけ笑った。笑いは軽い。だが目は笑わない。
「国が傾くのは、私のせいですか?」
使者は答えられない。答えれば、追放の正義が崩れる。答えなければ、要求が崩れる。
沈黙が落ちた。沈黙の中で、クラウスは一つだけ確信した。エリシアは裁いていない。罰していない。彼女はただ、戻らないと言っているだけだ。それだけで、相手が勝手に崩れていく。
使者は退いた。礼を尽くし、焦りを隠しきれず、去っていった。
扉が閉まったあと、エリシアは息を吐いて椅子に背を預けた。
「疲れた」
言い方が、少し幼い。彼女はすぐに眉を寄せて直す。
「……失礼。少々、疲れました」
クラウスは机の上の水差しを差し出した。
「飲む?」
「うん」
返事が短い。彼女は水を一口飲んで、グラスを置く。置き方が丁寧すぎる。丁寧さが、彼女の防壁だ。
「あなたは、戻りたいと思うことはないのか」
クラウスの問いに、エリシアはしばらく答えなかった。窓の外で、庭師が花壇を整えている。土の匂いが、薄く入ってくる。
「戻ったら」エリシアはぽつりと言った。「私がそこにいた理由まで、全部、言葉にしないといけない気がする」
「言葉にできない理由か」
「言葉にしたら、壊れる理由」
クラウスは頷いた。理屈では分からないが、感覚として分かる。説明は、ときに本体を削る。
エリシアは、ふいに小さく笑った。
「ねえ。今日、タルトある?」
「ある」
「やった。……あ」彼女は自分の口を押さえるように、指先で唇の端に触れた。「……では。いただきましょう」
クラウスは笑わなかった。笑えば、彼女はまた扉を閉める。代わりに、彼は静かに言った。
「今日は二切れまでにしろ」
「見てたの?」
「見ていた」
「……意地悪」
「合理的だ」
「それ、私の台詞」
言い合いの最後に、エリシアが肩を落として、ほんとうに小さな声で言った。
「ここ、あったかいね」
クラウスは答えた。
「そうだな」
彼女が“あったかい”と言える場所が、ここにある。その事実だけで、国は充分に価値がある。クラウスはそう思った。だから、守る。決める。背負う。彼女に背負わせないために。
*
数年が過ぎた。
セレスティアは変わらず小国のままだった。地図の上で大きくはならない。だが、地図の上に載らない豊かさが増えた。市場の声が太くなり、通りの石畳が補修され、子どもの数が増えた。人が、ここに未来を置き始めた。
アルデリアは、目に見えて痩せた。大国の面子は残るが、内側が薄い。役人が辞め、商人が離れ、地方が乾く。王太子は苛立ち、苛立ちが政策を歪ませ、歪みがまた苛立ちを呼ぶ。正義の拍手は、いつしか自分たちを叩く音になる。
それでも、誰も決定的な原因を言えない。原因を言ってしまえば、過去の断罪が滑稽になるからだ。滑稽になるくらいなら、国が痩せたほうがましだと思う者がいる。人間は、面子のために飢えることがある。
クラウスは宰相となり、老宰相ユリウスは引退した。引退しても、館の奥の書庫に座り、記録を読み、時折、庭を歩く。彼は国の呼吸を聞くように生きていた。
エリシアは変わらなかった。相変わらず軽口を叩き、相変わらず決めず、相変わらず責任を取らない。けれど、彼女がいるところでは揉め事が長引かない。それが国の肌になった。
ある夕方、クラウスが執務室へ戻ると、エリシアが窓辺で本を読んでいた。足を投げ出すほど崩れてはいないが、背中が少しだけ丸い。安心している姿勢だ。
「今日は早いのね」
「会議がまとまった」
「へえ。偉い」
「あなたが同席していたからだ」
「違う」エリシアは本を閉じた。「決めたのはあなた」
「いつもそれだ」
「責任、好きでしょう?」
「嫌いだ」
「じゃあ、どうして背負うの」
彼女の問いは、子どもみたいに真っ直ぐだった。クラウスは一瞬、答えに迷ってから言った。
「背負わないと、誰かが落ちる」
エリシアは少しだけ目を細めた。嬉しそうにも見えるし、寂しそうにも見える。どちらでもない、ただの表情の揺れ。
「……えらいね」
今度の言い方は、完全に子どものそれだった。彼女は気づいて、すぐに視線を逸らす。
「……失礼。褒め言葉の選択が、幼いだけです」
「そのままでいい」
「よくない」
「よくないのは、昔の国だ」
エリシアは笑わなかった。代わりに、窓の外を見た。庭の木々は、風に葉を揺らしている。揺れは穏やかで、乱れない。
彼女は小さく息を吐き、言った。
「タルト、ある?」
クラウスは少しだけ口元を緩めた。
「ある」
「やった」
言ってしまって、彼女は肩をすくめる。直そうとする前に、クラウスが言う。
「直さなくていい」
「……意地悪」
「合理的だ」
「それ、ほんとに便利ね」
二人の会話の先に、説明はない。説明のないまま、日々が積み重なる。積み重なることが、国の繁栄だった。
*
そしてある夜、老宰相ユリウスは書庫の奥で、古い年代記を閉じた。蝋燭の火が、紙の端を黄金色に染める。彼はその光の中で、小さく笑った。誰に聞かせるでもなく。
「……そういえば」
老宰相は、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「座敷わらし、などという言葉もあったな」
もちろん、迷信だ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は、
「断罪そのものは、物語としては成功している」
という前提から始まっています。
喝采も、拍手も、正義の言葉も、あの場では確かに成立していました。
けれど、物語が終わったあとに残るのは、
選択の結果です。
誰かを追い出したこと。
誰かがいなくなったこと。
それによって、何が変わり、何が変わらなかったのか。
本作では、それを説明する言葉を、できるだけ使わないようにしました。
理由を与えることは、時に安心になりますが、
同時に、考える余地を奪ってしまうからです。
何もしていないように見える人物が、
実は何かを「していた」のか。
あるいは、本当に何もしていなかったのか。
その答えは、作中には書いていません。
もし読み終えてから、
「あれは何だったのだろう」
「失われたものは、何だったのだろう」
と少しでも立ち止まっていただけたなら、
この物語は十分に役目を果たしたと思っています。
最後まで、お付き合いいただきありがとうございました。




