第71話 隣の人
教会本部での騒乱が収まり、帝都に平穏が戻ってから数日。
夜。
公爵邸の寝室は、しんと静まり返っていた。
私は久しぶりに自室の羽根布団に埋もれ、ごろりと寝転がる。
「ふぅ~……やっと一息つけるわ」
緊張の糸が切れたせいか、身体がずっしりと重い。
フェンリルとソルも、アルヴィンを寝かしつけたあと、部屋の隅でのんびりとくつろいでいた。ソルは窓辺で羽をばたつかせながら、大きなあくびをしている。
聖獣たちが休んでいると、不思議と世界そのものが穏やかに見える。
そんな静寂の中、私は布団に沈み込みながら、安らぎに身を委ねていた。
――すべて解決した。
少なくとも、そう思っていた。
けれど。
「……あれ?」
部屋の隣から、妙な生活音がする。
紙をめくる音。低く落ち着いた声。
こんな時間に?
私は上着を羽織り、そっと廊下を覗いた。
――そして、固まる。
隣の部屋に、見覚えのない扉が増えていた。
しかも。
「陛下、そちらはまだ未整理の書類です」
「……そうか。ではここにまとめろ」
(……えっ? ユリウス?)
そっと中を覗く。
そこには、豪華な調度品を備えた執務机に向かい、当然のように書類をさばく皇帝ユリウスの姿があった。
背筋を伸ばし、淡々と署名を重ねている。
まるで――ここが自分の執務室であるかのように。
「え? ちょ、ちょっと待って……なんでユリウスが隣にいるの?」
思わず小声で突っ込む。
ソルが首をかしげた。
『サヤ、気づいてなかったの? 数日前から毎晩ここに泊まってるよー。しかも“残業だ”って言いながら、山のような決裁を持ち込んでるんだよ』
「ええ!? はあああ!? 聞いてないけど!?」
フェンリルは寝返りを打ち、尻尾をひと振りする。
『……若僧の考えることだ。気にするな』
「気にするでしょ普通!?」
そのとき。
ユリウスがふと顔を上げ、廊下のこちらを見た。
――目が合う。
次の瞬間。
彼の表情が、ふわりとほどけた。
険しかった眉が緩み、翠の瞳がやわらかく光る。
まるで、春の花が一斉に咲いたかのように。
「……サヤ」
名を呼ぶ声は、皇帝のそれではなかった。
ただひとりの男が、心から嬉しそうに呼ぶ声だった。
「……な、何その顔。今まで見たことないんだけど……ひい……」
思わず頬が熱くなる。
だがユリウスは満足げに微笑んだまま、すぐに机へと向き直り、何事もなかったかのように筆を走らせ始めた。
廊下を通りかかった侍女やレオンハルトは、にこやかに、しかしどこか生温かい目でこちらを見ている。
「……え、何? なんでみんな普通なの? 普通に生活してるの? 皇帝様だよ? もう全部終わったのに、なんでユリウス毎日いるの?」
問い詰めても、誰もはっきりとは答えない。
ただ、ほんの少しだけ頬を緩ませて――
「さあ……」と濁すばかり。
どうやら私は。
とても大事なことを、見落としているらしい。
作者⋮ユリウスくん外堀から埋める所存みたい




