第五話 悪意
ホテル街。悠也は、ターゲットの男と、黒いコートの女が消えたホテルの入口付近で、アヤメと合流した。
「チッ……ロストした」悠也は悔しそうに舌打ちした。「ホテル街に入ったところで、人混みに紛れられて完全に視界から消えた。僕の尾行技術をもってしても、あの女の動きはプロ並みだ」
アヤメも悔しそうに頷いた。
「私のナノマシン探知も、このエリアのノイズが多すぎて追えなかったわ。それに、あの男、恐怖の感情を強く発していた。あれは浮気ではなく、脅迫を受けている時の反応よ」
悠也は、男を脅迫し、ホテルに連れ込んだ怪しい女の正体に、改めて疑問を抱いた。もしや、ルナ・コアの残党か、それともニャルラトホテプの新たな手先か。
悠也が、男と女が最後に曲がった裏路地を調べていると、足元に何かが落ちているのを見つけた。
「アヤメ、これだ」
悠也が拾い上げたのは、一枚の名刺だった。艶消しの黒い紙に、筆記体で店名が印字されている。
『THE BLUE BUTTERFLY - Bar & Lounge』。そして、所在地は、このホテル街から少し離れた歓楽街の一角だ。
「ブルーバタフライ?私たちの探偵事務所と同じ名前ね」アヤメは訝しんだ。
「それに、バーの従業員が、なぜ浮気調査のターゲットをホテル街に連れ込んでいるの?」
悠也は、名刺を握りしめた。
「このバーに行けば、あの女の正体がわかるかもしれない」
翌日の夜。
悠也は、アヤメを研究室に残し、単独で名刺に記されたバーへと向かった。ネオンが輝く雑居ビルの地下に、そのバーはひっそりと存在していた。
重い扉を開け、悠也が中に入ると、店内は薄暗く、静かなジャズが流れていた。カウンターの中には、バーテンダーらしき人物がいるが、客は誰もいない。
そして、カウンターの奥、薄暗いスポットライトの下に、あの女が一人、優雅に座っていた。
彼女は、昨日とは違い、黒いロングコートを脱いでいる。長い黒髪を揺らし、グラスを傾けるその姿は、確かに妖艶な大人の女性の姿だった。
しかし、悠也の瞳は、その女の顔に釘付けになった。その目つき、そして、口元に浮かぶ冷徹な笑み。
悠也は、全身のナノマシンが警鐘を鳴らすのを感じた。心臓が早鐘を打つが、彼は冷静さを保った。
悠也は、迷わず女の隣の席に座った。バーテンダーにウイスキーを注文すると、静かに女の方へ向き直った。
悠也は、静かなバーの空間に響く、冷徹な声で尋ねた。
「ニャルラトホテプが、こんなところで何をやってるんだ?」
女は、グラスを持った手をピタリと止め、ゆっくりと悠也の方へ顔を向けた。その瞳は、昨日見た『怪しい女』の冷たさではなく、以前に会った少年の姿の時と同じ、底知れぬ悪意に満ちていた。
「ハハハ。さすが、七瀬のお兄さん。僕の返信を見破るなんて、君も随分と成長したね」
ニャルラトホテプは、女性の姿のまま、あの不気味なニコニコとした笑みを浮かべた。
「そうだよ、七瀬君。これは、君たち探偵ごっこの始まりを祝うための、僕からのプレゼントだ。浮気調査なんて、実に人間らしくて面白いだろう?」
悠也は、グラスをカウンターに叩きつけた。
「ふざけるな!あの男をどうした!」
ニャルラトホテプは、優雅に笑い続けた。
「さあね。それは、君たち探偵が解き明かすべき、謎だよ。」
悠也は、再び、ニャルラトホテプの仕掛けるゲームに巻き込まれたことを悟った。




