80 普通人
街中に黒い霧が立ち込める。
生ゴミのような香りと、墨をぶちまけたような深い色に染まった霧は、触れる物を捻じ曲げ、引き千切り、押し潰した。吸引すれば死を誘い、掠りでもすれば抉り取られる。そんな地獄が際限なく広がり続けている。
「うひゃあ、気持ち悪いですねぇ。本当に多種多様な魔物が吸血鬼になっている……しかも、それらが一丸となって人間だけを襲うなんて、おかしいですよねぇ。原因はなんでしょう?」
夥しい吸血鬼の群れを鏖殺しながら、清掃会事務員のハバロは呑気な態度で足元の少女に語り掛ける。獣のように四足で這いつくばった少女は、恐怖にひしゃげた顔で、この街の地獄絵図から目を背けていた。
「ん? あぁ、そういえば発言を禁止していましたね。もう喋っても良いですよ、シィさん」
「……は、はい」
「それで、どう思います? この居住区の現状について」
ハバロはしゃがみ込んでシィの髪を掴み、視線を前方の地獄に誘導した。街を喰らい尽くす黒い霧、あれこそシィに抗いようの無いトラウマを植え付けたハバロの能力"影霧"だ。
「ぁひっ──し、死にたく、ない……!」
絞り出すようにシィが口にしたのは、ただひたすらな死の恐怖だった。勿論その対象は吸血鬼の群れなどではなく、広範囲に渡って散布された影霧への恐怖であるのだが、ハバロはとぼけた態度でシィの頭を撫で回す。
「えぇ? やだなぁ大丈夫ですよぉ。僕がこうして吸血鬼を狩ってるんですから、貴女は安全です……まぁ、ここに一級掃除屋が派遣されたら全部オシマイですけど」
「嫌だ、まだ、まだ終わりたくない……私、センパイに会わなきゃ……!」
「まだそれ言ってるんですか? あの人の何がそんなにも特別なのか、僕には理解できないですねぇ。ただの平凡なカスでしょう。あんな男、街中を探せば何処にでも居ますよ」
「そ、そんな事ない!」
──震える声で、シィが口答えする。するとハバロは愉快そうに目元を歪めた。
「……へぇ?」
正直な所、この反応はハバロにとって予想外であった。もう二度と自分には逆らえないと思っていた少女が、既に折れた心の柱を無理やりに立たせたのだ。もはや反発された苛立ちよりも興味関心が勝っていた。
弱々しい語気で、シィが続けて言う。
「確かにセンパイは、カスだけど……普通の人なんだ。普通の事を、当たり前にしてくれる、人なんだから……」
「はい? 今それ僕も言いましたよね? 平凡なカスだって」
「違う! カスだけど、普通に生きてるんだ! ゴミみたいな暮らしをしてて、クソみたいな人間に囲まれて育ったはずなのに、あの人は普通に優しくて、普通にお節介で! 私の事を、普通に助けてくれた……!」
シィは絶叫するように言葉を吐き出して、ハバロの目を真っ直ぐに睨み付ける。爆発するような激情と、狂いそうな恐怖をない混ぜにして、顔面をグチャグチャに歪めながらも、彼女はその瞬間だけは決して目を逸らさなかった。
「……助けた? それは貴女の勝手な勘違いでは? あの人に何ができるって言うんですか?」
「私を見下しも、見上げもしない目で見てくれた! 怪訝な顔で目を逸らしもしなかった! 何も特別なことなんか無くて、普通に話し掛けてくれて、愚痴を言いながら一緒に仕事をしたんだ!」
シィの真剣な眼差しを向けられて、ハバロは思わず、嗤ってしまった。
「あははっ、やだなぁ……そんなの別に、あの人じゃなくても良いじゃないですか。他の誰だって簡単に同じ事ができるでしょう?」
「……っ! じゃあ! じゃあなんで! 他に誰か一人でも、私に向き合ってくれなかったんだ! なんで普通の目を向けてくれなかった!?」
シィは顔を引き攣らせすぎて何の感情なのか分からなくなった表情で、ハバロの目を見た。そこには、薄汚く濁ったガラス玉のような、冷たく無感情な視線があった。
ハバロは機械のように平常な顔で、無情に口を開く。
「──それは貴女がおかしいからですよ」
「……ぇ?」
「だってそうでしょう? 金持ちの家に産まれた貴女は特別でありながらも、才能は無かった。それは同等の金持ちからは見下され、貧乏人からは羨まれる立場です。生きているだけで好奇の視線は感じるでしょう、当然の事だ」
「そ、そんなの……私は、何も悪くないのに!」
「そうですかね? 貴女は無能なくせに努力を嫌った。掃除屋になってからも、誰かに依存するような卑怯な戦い方を好んだでしょう。今だって、生きているかも分からない男に執着してウダウダと一人で塞ぎ込んでいる……そんな貴女に、誰が手を差し伸べるんです?」
ハバロはシィを追い詰めるように喋りながら、淀んだ瞳をぐりぐりと見開いて、彼女の目を覗き込む。それは海洋恐怖症の子供を深海に引きずり込むような、あまりにも惨い所業だった。
「救われるのが当たり前だと思わない事です。普通の優しさを普通に享受できるのは、普通以上に頑張った人間だけなんですよ」
「ぇひっ、っ? あぅっ、わ、私は……でもっ、私はっ──」
「あー、無理して喋らなくて良いですよ。どうせ言い訳しか出てこないんですから……しかし、再起不能にしたと思っていたんですが存外に粘るものですね。今度こそ、僕に逆らう気が起きないように、深く深く絶望を刻み込むとしましょうか」
既に十分に絶望し、恐怖に凍り付いているシィにハバロが手を伸ばす。暇潰しがてらに、二度と振り払えぬ心の病を患わせる為に。
これからシィは、視界に映る全てに腰を抜かし、少し大きな音がすれば泣き崩れ、僅かな異臭にも慌てふためいて失禁し、呼吸のために横隔膜を動かす事にすら覚悟ができず震えるような欠陥生物へと変貌させられるのだ。……しかしそんな、彼の趣味による人格改造に横槍を入れる者が一人だけ居た。
「そこで何してるんですか、ハバロさん」
「ハイ? ん、んんん? おやぁぁ?」
ハバロはシィの身体に伸ばしていた両手を隠すように背中に回し、のっそりと起き上がる。その顔には、隠しきれない程の困惑があった。
「これはぁ、今一番会いたくない人が来ましたねぇ……ていうか、なぁんで生きてるんです? しかも、こんなタイミングばっちりに、どーしてこんな所を歩いてるんですかぁ、貴方は……ねぇ? イチさん??」
──現れたのは、本来ならここに居るはずの無い、平凡で貧弱な少年だった。
キリ番80話です。
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