72 少年少女脱走中
「……あぁ、ぁぁあああ。はぁ」
気だるげな呻き声をあげながら、作り物のように美しい顔をした少女がシルク素材のベッドの上で二転三転する。その金を紡いだような髪と、宝石を埋め込んだような蒼い瞳を見れば、彼女が何者であるかは明白だろう。
彼女こそが約束された天才ニナである。完成された美貌と、無類の肉体、そして使い切れない程の金。そんなこの世の全てを手に入れたと言っても過言ではない少女は、しかし不満をあらわにしていた。
「あー。最悪だわ。やっぱりアイリスを行かせるんじゃなかったわね」
彼女の直属の部下である二級監視屋のアイリスは、現在はオルステッド捜索のため留守にしている。つまり、アイリスの本来の任務であった"イチの監視"は、他の監視屋が引き継いでいる事になる。
だが今現在この世の地獄と化している東部居住区において、並の監視屋では普通に生き残ることすら困難だ。結果としてニナの元にはこれまでイチの情報が全くもって流れていない。これは由々しき事態であった。
「あの馬鹿、勝手に死んだりしてないわよね……あぁぁもう、気になる……いや違う、これは心配とかじゃなくて。あー、腹立つぅ」
ニナはじたばたと暴れ、シーツを巻き込んでもんどり打ち、やや窶れたような顔に更に深いシワを寄せる。そして唐突に思い至ったように、ベッドから飛び起きた。
「もういい。自分で行くわ」
いつにも増して苛立ちを露わにしたニナが、高級なカーペットをぐしゃりと踏みしめて部屋を抜け出した。
「──なりません」
「……はぁ?」
ニナが寝室の扉を乱暴に開け放つと、その外には黒いスーツを纏った熊ほどもある巨漢が立ち塞がっていた。巨漢はゴツゴツとした顔面に似合わない丸眼鏡に手を添えながら、厳格な態度でニナに語り掛ける。
「あぁニナ様。どうぞ冷静に、冷静になってお聞き下さい。今の東部居住区は大変に危険なのです」
「私は冷静よ。今すぐそこを退いて」
「なりません! あそこには夥しい吸血鬼が跋扈しているだけでなく、複数の研究機関から正体不明な怪物が脱走し、騒ぎに便乗した犯罪組織が派閥争いを行っております! しかも鎮圧の為に、無情な一級掃除屋たちが派遣されるという始末でありまして──」
「邪魔よ」
刹那。ニナの右手が閃光のように瞬いて、巨漢の首から上を刈り取った。ドチャッ、という軽快な水音と共に、その屈強な生首が大理石の廊下に投げ捨てられる。
ゴミのように転がされた生首は、しかしその瞳に鋭い光を宿したままで、あくまでもニナの安否を憂いていた。
「おぉ、おお、ニナ様。こうなっては、もはや私に貴方様を止める手立ては御座いません。しかしどうか、これだけは約束してください……! 何があろうと、決して、"あの力"だけは使ってはなりません。あれはまだ調整中に御座います故!」
「ウザっ、首を切られてるんだから素直に死んだら?」
「口惜しや……この私にもオルステッド殿のように完全な不死性が備わっていれば、むざむざとニナ様を死地に赴かせる事などしなかったのに……あぁ、ここはやはり死で償う他ありませぬ……!」
いつまでも長々と語り続ける巨漢に心底呆れ果てたニナは、その生首を無情にも踏み潰してから、ツカツカと廊下を歩き去った。
─────
「……なぁアベル、俺達はさっきから何処に向かってるんだ?」
「聞くな、黙って着いて来い。モタモタしてると死ぬ事になるぞ」
直剣を片手に持った小汚い老人がぶっきらぼうに答えて、俺たちの前を単独で先導する。彼の話によればこれから東部居住区は中央清掃会の一級掃除屋によって一斉清掃されるらしい。だがそれの何が危険なのか、俺にはイマイチよく分からなかった。
「今更必死こいて逃げ出さなくても、一級掃除屋の仕事が終わるのを待てば良いだろ。わざわざ移動する必要があるのか?」
「……知らねぇってのはこえーな。一級掃除屋が派遣される事の意味をちゃんと考えろ。要するに東部居住区はな、もう完全に滅びたモノって判断されてんだよ」
確かに、中央居住区から一級レベルの人間が他の区域に派遣される時と言うのは、得てしてその場所が滅んだ後である事が多い。それは中央の人間が、手遅れになってからしか援助をしない冷徹な奴らだからだと思っていたのだが、もし別の理由があるとしたら……。
「もう滅んでるから、殺戮にも容赦しないって事か?」
「少し違うな。アイツらは容赦なんて出来ねぇんだ。掃除屋はその殺戮能力によって階級が決まる、その頂点ともなれば街を丸ごと死の世界にするなんて造作もねぇ。だから一級掃除屋が派遣されるって事は、その地区を生存者ごとゴミ箱に捨てるって事なんだよ」
街をゴミ箱に捨てる……スケールが違いすぎて想像がつかない話だ。普段なら冗談だと笑い飛ばしていたかもしれない。だがアベルの態度にはどこか現実味があり、その言葉は真に迫っているように思えた。
「じゃあ、別の居住区にまで逃げなきゃいけないのか……引越しは好きじゃないんだけどな」
「引越し? オメェまだ分かってねぇようだな。東部居住区を捨てるって決めた以上、奴らは徹底的にここの生物を掃除するぞ。別の居住区への移動手段なんて完全にシャットアウトされてるだろうな」
アベルは仏頂面のまま、あっさりとした態度で絶望的な事を言う。つまり逃げる方法が無いって事じゃないか、そんなの話が違うぞ。
「お、おい、じゃあこれは何処に向かってるんだ?」
「その質問には答えねぇ。どうせ教えても理解できねぇよ、文句があるならオメェだけ消えろ」
「……まさか、未開発の迷宮領域に逃げ込む気か?」
「あぁ、半分くらいは正解だな。満足したか? じゃあ黙れ」
アベルは一瞬だけ含みのある笑みを浮かべると、すぐに真顔に戻って、先程と同じようにぶっきらぼうな態度を取る。それだけで俺は何となく、この逃亡先が何処なのか分かってしまった。
「……俺は、"消灯区画"って場所に行った事があるんだ」
「はぁ? オメェ急にどうした?」
「そこは第六千八百迷宮領域よりも深くて、第七千迷宮領域よりも浅い区域にあるらしい。どんな光も通さないくらい真っ暗で、果てが見えないくらい広い場所だった。そういう場所が他にも沢山あるとしたら……追っ手なんて簡単に撒けるだろうな」
「……そうか。オメェ、カスのくせに珍しい体験をしてんだな。第百より深い迷宮領域に足を踏み込むなんて、普通は一生に一度も無いんだぜ? せっかく俺様が驚かせてやろうと思ったのによぉ」
ヘラヘラと底意地の悪さを隠そうともしない表情でアベルが笑う。まさか、勿体つけていたのか? この状況で?
「お前って性格悪いんだな」
「そんな事を言われたのは人生で初めてだな。これでも昔は大勢の人間から尊敬されてたんだぜ? 仲間もいっぱい居てよぉ……」
「嘘は良くない」
「あの世で俺の仲間たちに挨拶してみるか?」
──本当にこんなやつに着いて行って良いのだろうか。もし目的地に着いて、それが罠だったら、すぐにアベルを撃ち殺せるよう準備しておこうと俺は心に決めた。




