69 緩んだ機械の心
「キュウ? お前、一体どうしたんだよ……」
「──あは」
キュウは恍惚とした笑みを浮かべてブルブルと肩を震わせた。そして甘い痺れを堪能するように自分の頬に指を這わせて、ゆらゆらと前後不覚に揺れる。そんなまるで酔ったような雰囲気のキュウが、俺に粘ついた視線を向けて語り掛けてきた。
「イチ君は、何が好きなの? 楽しい事? 美味しい事? 気持ち良い事? 私はどれも、何回も、いっぱい経験したよ。でも足りなかった」
キュウは自分の腕に鋭く爪を立てる。白い肌に痛々しく赤い線が伝った。彼女の身体には、濁った廃油のような液体ではなく健康的な赤色が流れている。だというのに、その顔付きはまるで機械に支配されていた頃と同じだった。
「……記憶を取り戻したのか?」
「記憶? そんなの関係ないよ。今も昔も、私を満たしてくれたのは一つだけだもん。分かるでしょ? だから聞いてるの。イチ君はそんな私を、ずっと想ってくれてたよね?」
「待て、落ち着け。お前は混乱してる。脳を怪我したせいで、気持ちが荒ぶってるんだ」
「うるさい! 聞きたいのはそんな事じゃない!」
人が変わったような絶叫と共にキュウの拳がバーカウンターに叩き付けられる。砕かれた木片が飛び散り、ズタズタに裂かれた彼女の手から、壊れた蛇口のようにボタボタと血が流れた。
「応えて。君は私をどう想ってた? こんな壊れた女を、君はどんな風に感じてたの?」
「……頼もしい相棒だろ」
「それ、嘘だよね?」
冷え切った声色。先程までの激情は一瞬にして燃え尽きて、脆く崩れる灰に変わったようだった。
「嘘じゃない。昔からの、気の知れた仲間だろ? 何度も一緒に仕事をしたんだ、信頼してるに決まってる」
「嘘、嘘、うそうそうそ! なんで!? すぐに分かる嘘はつくなって、イチ君が言ってたのにッ!!」
「……じゃあ、俺になんて言って欲しいんだよ。お前は」
つい不貞腐れたように冷たい言葉を返してしまった。それに対してキュウは黙って、血塗れの手で涙を拭う。その綺麗な顔にベッタリと血の跡がついた。
そして充血した瞳を細めて、穏やかに笑う。
「"好き"って、言って」
「……は?」
「私を愛してたって言って。今度は嘘でも良いから。……それが出来ないなら、本当の事を言って。鬱陶しくて、無駄に手が掛かって、簡単に壊れる私を、どんなに邪魔に思っていたのか。全部ぜんぶ、ここで言って」
やはり記憶が戻ったのだろうか、それとも錯乱していて、自分でも訳の分からない事を言っているのか。いずれにしてもこれ以上キュウをはぐらかす事はできないようだ。……"真実"を告げるしかない。
「俺はお前が好きだよ」
「それ、本当? ふふ……嘘でも嬉しい。相思相愛だね?」
キュウは本当に幸せそうに笑って、溢れてくる涙を延々と拭っている。どんどん顔面が赤く染まるが、もはや気にしてもいないほど、心の底から幸せそうだった。そんな彼女に……俺はこれから真実を告げなければならないのだ。
「違う、それは違うんだ。キュウ。お前の事は確かに好きだけど、愛してはいない。この迷宮には、多分、愛なんてものは無い。あるのは本の中の知識だけで、現実には存在しないんだ」
「……? 私は愛を知ってるよ? 君の事を考えると心が暖かくなって、どんな苦痛も我慢できる。この感情の為なら、命なんて簡単に捨てられるくらい好き。愛ってそういう事でしょ」
キュウは、俺が思っていた通りの回答をする。だがやはりそれは愛ではないのだ。もっと即物的で、現実に則していて、それでいて都合の良い、有り触れた感情に過ぎない。
「お前のはただ知識として知っている概念に、似たような感覚を押し込めてるだけだ。本当に愛を持っている生き物なんてこの世界には居ない。居たら、こんな世界にはなってない」
「……じゃあ私の感情は何だって言うの? 他の、何?」
「"勘違い"だ」
「──え」
プツンと、電源の切れた機械のように、キュウの瞳から光が消える。暗く淀んだ瞳を大きく見開いて硬直したまま、キュウは必死に演算処理をしているようだ。それを待たずして、俺は畳み掛けるように真実を告げる。
「俺と一緒に孤児院で育った頃から、お前は勘違いをしてたんだ。孤独で狭い世界に生きていた俺達が偶然に意気投合して、初めて感じた信頼という感覚を、愛だと思い込んだ。そして身体が機械になったお前を、俺が助けて、弱い俺を、お前が助けた。その協力関係の理由を、適当に"愛"として定義したんだ」
「……ぇ? わ、わかんないよ。何を言ってるの? じゃあ私の、この気持ちは? 君の為に、私は死ねるんだよ?」
「"勘違い"でも人は死ねる。他人の為の死は、愛の特権じゃない」
残酷な事だが、それが答えだ。この苦痛に満ちた世界の中で、孤独だったキュウは勘違いに縋った。自分を騙して、愛の為という行動理念を空想し、人生の柱にした。そうでもしないと生きるのが嫌になるからだ。
「そう、なんだ……私は君のこと、愛してなかったんだね……えへ、恥ずかしいなぁ。間違えちゃった。好きだと思ってたのに、そんなの勘違いだったんだ。私には、何も無かったんだ。記憶も、チカラも、気持ちでさえ──もう空っぽなんだ」
意気消沈する彼女に、何と言葉を掛けたら良いのかわからず、俺はただ押し黙ってしまう。
いいや、それでも良い。黙っていたって時間が解決してくれる。何故ならキュウは記憶を失っているのだから、きっとすぐに残留した想いも消え去るだろう。
「そんな事、ないっ!!」
──突然、スラジが大声を張り上げた。どうやら怒り心頭といった様子で、しかも俺を睨み付けている。彼女がこんなふうに怒鳴るのは初めて見たかもしれない。
「キュウさんは、お兄さんを愛してた! それは本当の事だよ! だっていつもお兄さんの事を考えてたんでしょ!? 会いたい気持ちを抑えられなかった! 記憶を失っても、心の中で覚えてた! だから再会できたんだ! それを、勘違いとか、普通の言葉で片付けるなっ!!」
「お、おい……? スラジ、お前までどうしたんだ」
「ダメ男は黙っててください! フィオナちゃん! そのボンクラを簀巻きにして部屋の隅に転がしておいて!」
「え、は? ちょっと!?」
ずっと手の中で大人しくしていたフィオナまでもが、暴走したように触手を振り回し、一瞬にして俺を拘束した。──いったい何が起きている? こいつら全員おかしくなったのか?
ボタボタと大粒の涙を流したスラジが、同じく涙目になっているキュウに詰め寄って、その胸倉を掴み上げた。
「情けない、情けないよ! キュウさんはそれで良いの? お兄さんの言う事なら、そうやってハイハイって何でも信じるの? 自分の気持ちくらい、自分で決めたらどうなの!?」
「ぁ、う……でも、イチ君は間違ったこと、言わないから……」
「そんな訳ない! あの男のボケたツラを見て! あんなの、人生経験もロクに積んでない童貞のクソガキですよ! アレの何を信じる事があります!?」
──スラジの奴、俺がガチガチに拘束されてるからって言いたい放題だ。そもそも何を考えているんだこいつは、急に怒ったと思えば泣き出して、次は説教か?
「自分の感情に正直になるんですよ! できるでしょ、今、すぐに! そうしなきゃお兄さんは、二度とキュウさんに振り向いてくれなくなりますよ!!」
「ぇ、でも……! 私の気持ちは、偽物で……それに、記憶だって失くしてるのに……」
「なにか! 問題でも!? 好きなんですよね!? じゃあ手に入れなきゃ! あなたは機械じゃなくて、人間でしょ! 自分の気持ちに素直になって良いんですよ!」
「…………す、素直に?」
キュウの視線が、部屋の隅で転がされている俺に向いた。なにか、嫌な予感がする。
「そうです! もう分かってますよね? 誰の為でもなく、自分がどうするべきか」
「ぅ、うん……!」
一歩、二歩と、床を踏み締めながらゆっくりとキュウが歩いてくる。俺は地面に縛り付けられたまま、それを見上げるしかない。彼女のガタイの大きさも相まって、えも知れぬ恐怖が湧き上がってくる。額から不愉快な汗が噴き出した。
「お、おい……!? どうしたんだ、落ち着けよ! くそっ、離せよフィオナ! どうしてこういう時に限って俺の言う事を聞かないんだ!?」
「ねぇ。イチ君」
「な、なん──」
キュウが片手で俺の口元を押さえる。万力のような握力によってギリギリと顎の骨が軋んだ。
「ちょっとだけ、眠ってて……すぐに済むから」
「──っ!?」
赤く染った頬を引き攣らせて、キュウは拳を握る……次の瞬間、強い衝撃が俺の脳を揺らし、いとも簡単にその意識を刈り取った。




