62 戯れに絶望
「ほらぁ見てくださいよ僕の髪、アナタのせいで砂まみれじゃないですか、酷いなぁ。それにあのネバついた触手も酷い、粘液が口に入って、少し飲み込んだんですからね? ねぇ?」
ガツンッ、ガツンッ、と。一定間隔でシィの頭を地面に叩き付けながらハバロは喋り掛ける。彼がその手についた返り血をゴシゴシとシィの長髪で拭いていると、手元から僅かに、聞き取るのが困難なほど小さな声が聞こえてきた。
「……ゃ……て」
「え? なんです? 聞こえませんねぇ、もっとハッキリ喋ってくださいよ」
「たす……げ……ゅ、る……して」
消え入りそうな声で命乞いをするシィ。その目からは涙の代わりに血液が流れ落ち、手足の震えは恐怖によるものではなく死を目前にした危険な痙攣という事が明らかだった。ゼヒゼヒと荒く呼吸する肺も、全く酸素を取り込めていない。
「んー、なんだか苦しそうですね? まずは落ち着いて深呼吸してください。ほら吸って、吸って、吸って」
「──────っ!!?」
シィの頭を影霧の中に沈めながらハバロはニマニマと笑う。すると何処にそんな元気が残っていたのやら、シィは虫のように手足をバタつかせて、言葉なく助けを求めた。先程まであれほど酸素を求めて過呼吸をしていた彼女だが、今は文字通り必死に口元を噤んで、霧を肺に入れまいとしているようだ。
「あぁ、あー、ダメですよ抵抗したら。アナタはバケモノなんですから、そんなまるで人間みたいに、生きようと頑張らないでください。ゴミクズはさっさと死ななきゃ、ほら、死ね死ね」
「──っ! ……!!」
「ははっ、いやぁ、しぶとい。そんなにも死にたくないんですか? しょーがないですねぇ、じゃあ取引します? 僕の命令を何でも聞くなら、助けてあげても良いですよ、一応知り合いのよしみですし」
ハバロの垂らした救いの糸。それを前にしてもシィの態度は変わらず、阿呆のようにじたばたと暴れている。今のシィに交渉するような余力は無い。彼女はただ強い未練と執着心によって、辛うじてこの世にしがみついているに過ぎないのだ。
「おぉ、うーん? よく分からないですけど、これは取引成立なんですかね? まぁいいや」
ハバロが一度指を鳴らすと、それだけで辺りを暗く覆っていた影霧は晴れて元の正常な空間に戻る。
「これでもう大丈夫です。ほら、急いで息吸わないと、本当に死にますよ」
「──? っ! っはが、はぁっ、はっ!? はあっ、ぁぐ、は」
下手くそな呼吸を不規則に繰り返すシィ。喉を空気が通るたびに血の塊が肺に転がり込んでいるが、まだ生き延びられるという奇跡に彼女は感謝すらしていた。
「あははっ、そんなに嬉しそうにしてくれると虐め甲斐がありますねぇ……呼吸制限したまま調教したら、息を吸うのにも許可を求めるようになりますかね?」
「ひっ、ひぃっ、ぁ、ぁひっ、や、嫌っ、やひっ、いやぁ……!」
「んー、呼吸するか怯えるか、どっちかにしてくれます? 横隔膜の使い方も忘れたんですか?」
「ひぎっ、ご、ごめんなさ──っ、や、やだぁ、やめてやめてやめて!!」
ハバロがゆっくりとた手付きでシィの頭を撫でる。それだけの事で、シィの瞳は恐怖と絶望に染まり、歯を楽器のように打ち鳴らしながら、あれほど求めていた呼吸も忘れて謝り続ける玩具に変わった。
「シィさんは面白いですねぇ! さっきまでと態度が大違いだ、変幻自在なのは肉体だけじゃなくて性格もですかぁ? ならアレやってくださいよ、イチさんと一緒に居る時にやってた、あの後輩キャラ! 僕アレ好きなんですよねぇ滑稽で」
「ぁ……ぇ? で、でも──」
「逆らうんですか? 話が違いますねぇ。殺しますか」
「ひっ!? や、やりますっ! ぁっ、やりま、ッス……え、へへ……私、後輩、ッス……」
──尊厳を投げ捨てた卑屈な笑みを浮かべて、シィは侮辱を受け入れる。その様子を見たハバロは大袈裟に手を叩いて喜び、心から嗤った。
「なあははははっ! やー可愛いですねぇ、イチさんがご執心なのも分かります。そうやって男の庇護欲を掻き立てるんですかねぇ」
「あは、はは……そう、ッス。私は……誰かに守られなきゃ、なんにも出来ない、雑魚雌ッスから……」
シィは過去の自分を侮辱するような言葉をすらすらと並べ立てる。捨て去りたかったはずの弱い自分に、縋り付いているかのようだ。
「でしょうね、アナタは負け組だ。たとえ相手が泥鼠だろうと屈服して許しを求め、震えながら驚異が去るのを待つ事しかできない臆病者──当たってます?」
「ぃひっ! せっ正解、ッス……! わ、私は、泥鼠にも劣る、生ゴミみたいな、人間ッス」
腹の底から甘ったるく媚びた声を出すシィ。だがそれを受けたハバロの表情は、何やら訝しげだ。
「へえ、アナタ人間なんです? 初耳ですねぇ」
「あぁっあっ! ゴミっ! ひっ、ゴミでした! ゴミそのものでした! 間違えてごめっ、ごめんなさい! 馬鹿でごめんなさい!」
この世の終わりのような顔をしてペコペコと頭を下げるシィ。もはやハバロの僅かな言動にでも絶望的な恐怖を感じるまでになっているようだ。
「えぇ? ははっ、いやいや。僕はただ、アナタが世にも恐ろしいバケモノだという事を言いたかったんですがね……ところで、また口調が変わってますよ?」
「ご、ごめんなさい! じゃなくてっ! ごめんなさいッス! 以後気をつけるッス! 許してくださいッス! えへへ、へへ、あの、私まだ、死にたくなくてっ! たすっ助けて欲しくて! ッス!」
「ふぅん、まだ違和感がありますねぇ。そんな状態でイチさんに会って本当に大丈夫ですか? 以前と変わりすぎて、気付いて貰えないかもしれませんよ」
「っ! せ、センパイは、気付いてくれる! 絶対! ……ッス」
ほんの一瞬だけ、シィの瞳には強い光が宿ったが、またすぐに濁りきった臆病者の目に戻ってしまう。
「そうですか? まぁ会わせませんけどね。アナタは今から僕の奴隷です、泣くのも笑うのも許可制ですし、自由行動はありません」
ハバロの宣言によってシィは更に深い暗闇に突き落とされた。濁った赤い瞳がグラグラと揺れるが、なんと言葉を絞り出せば良いのか分からない様子だ。
「──ぁ、う、で、でも、私は……センパイに、会いたく、て……! せっかく、自分の足で、立てるようになったのに!」
「あ、そうですか。じゃあ今から二足歩行も禁止しますね。はい、伏せ」
「……え?」
「伏せ、ですよ。従うのか死ぬのか二秒で決めてくださいね」
まるで犬に命令するような態度のハバロ──いや、事実として今のシィは犬畜生以下なのだろう。現に、その命令を拒めるほどシィの心は強くなかった。
「はひっ! ふ、ふせっ、伏せします! じゃなくて、するッス!」
やっと取り戻した自由な体、何でもできると思っていた強靭な手足……それらを投げ捨てるように地面に叩きつけて、シィは即座に土下座のような体勢を取った。
「はい、判断が早くて良いですね。まぁギリギリ二秒はオーバーしてますけど大目に見ましょう。その代わりほら、もっと深めに伏せてください。頭を地に擦り付けて、強く、強くですよ」
「ひっ? こ、これで良いッスか……?」
シィは躊躇なく自分の額をコンクリートに擦って、血を流しながら恐る恐る様子を伺う。彼女の視界は地面で埋め尽くされており、顔を上げる事は許されていない。故にハバロの顔色を確認する事もできない。それが何より不安だった。
「うーん、これは、思ったよりも退屈な光景ですねぇ。カスを服従させても面白みが薄いですよ。……しかしまぁ、僕はこれでも仕事中ですから、遊んでばかりもいられませんね」
ハバロは思い出したようにそう言うと、足元のシィの頭を軽く蹴飛ばして、スタスタと歩き始めた。
「着いて来てください。アナタに時間を取られた分、仕事は手伝って貰いますよ。──あぁそれと、影霧の巻き添えを食らうのは承知してくださいね? わざわざ奴隷を気遣うような余裕は無いので」
「っ!? そ、そんな……!」
「ははっ、怯えなくても大丈夫ですよぉ。アナタは他の生き物より魂が根深い、だから影霧にも多少の耐性があるようだ。要するに、アナタが死ぬより早く敵を殲滅すれば良いんです」
いつか進化教団の教祖にも言われたような事を、ハバロが口にする。──根深い魂、それはシィの性質を表すのに適切な言葉だった。シィの捻れ絡まった感情、未練、そして愛。それらは彼女の魂を常世に縛り付ける鎖となっている。故に強固。たとえ魔物と交わろうとも、魂を破壊する劇毒を飲み込もうとも、そう簡単には崩れない。
「ぁぁ、ぅ……!」
シィの頬をボタボタと過剰な量の涙が伝う。その理由は本人にも分からない。自信の喪失か、希望の根絶か、はたまた生物的恐怖か。頭の中に後悔がいつまでも巡る。いくら鎖が頑丈だとしても、それを固定する柱が折れては意味が無いだろう。
シィの柱は、既に崩れかけていた。




