26 腐り落ちる愛情
"人類は一種の魔物である"。そう唱えたのは、ある高名な学者だった。
魔物とは、迷宮の奥に潜む有害で凶暴な怪物のことだ。中には人間に危害を加えない有用な怪物が捕獲され、家畜として分類されている例もあるが……とにかく、迷宮に潜む生命の大半は魔物だ。
では、人間は何に分類されるのか。決まっている。人は人だ。
しかし考えて欲しい。人類は歴史の上では迷宮の外から来た生き物だとされているが、それも遥か昔の話だ。今や迷宮の外なんてものの存在を証明できる人間は居ない。もはや人類は迷宮に根を張った生き物と言えるのではないだろうか。その場合、人類もまた魔物の仲間入りをしているのではないか。
"進化教団"と呼ばれる宗教団体がある。この説を唱えた男が創設した、人類を次のステージへ進ませようとする集団だ。人類が保持する無駄な尊厳や姿形を捨て、新たな魔物の一種として進化することを目的としている。
ある日。その敬虔な信徒たる青年は、人類を魔物に近付ける為に一匹の標本を捕獲しようと迷宮に潜っていた。標的は"タナカ鳥"という魔物だ。かつて竜殺しの英雄が飼っていたという魔物だが、これには普通の魔物には見られない特別な性質があった。
それは、交尾をしないこと。
矛盾していると思われるかもしれない。現にタナカ鳥は迷宮の一角を支配する程に繁殖し、日々コレクターの目を眩ませ、掃除屋の手を煩わせている。だがそれは交尾以外に増える方法を持っているという単純な事実に過ぎない。タナカ鳥は、繁殖に魔術を使うのだ。自身と全く同一の存在を創り出す、あまりにも冒涜的な魔術を。
もし、それと同じものを人類が獲得すれば、その永久的な繁栄は約束されたようなものだ。なにせ何万人の死者が出たところで、その何万倍にでも個体数を増やせるのだから。
その信徒の青年は人類の輝ける未来を想像し、えも言われぬ絶頂感に身を震わせた。そんな彼が大股で、軽やかに迷宮領域を進んでいると、やがてある建物を見つけた。大きな石造りの古い建物で、荒れ果てた迷宮の中で一際目立っていた。
「……なんだ、焦げ臭いぞ」
幻想的な空間には釣り合わない、あまりにも異質な臭いに思わず青年が足を止める。タナカ鳥の生息区域には火を吐く魔物など生息していない事を彼は知っていた。
生態系が変化したのか、人間が火を放ったのか、何れにしても調査すべき事だと青年は確信した。彼は敬虔な信徒である前に、真っ当な善人でもあった。
「お邪魔します〜っと。誰かいませんか?」
青年が恐る恐る建物に足を踏み入れると中からは煤と血、そして不快な廃油の臭いが漂ってくるのが分かる。
そして、一人の人間が倒れているのを見つけた。それはとても小柄な青髪の少女だった。
「っ、君!? こんな所で何をしているんだ!」
彼はすぐさま少女に駆け寄った。死んでいるかも、なんて無駄な事は考えなかったし、魔物の罠かもしれない、という不安は大きな正義感の前に掻き消えた。
少女を抱き起こすと僅かに呼吸をしているのが分かる、青年は安堵の息を漏らしたが、すぐに真剣な顔付きに戻って少女の体を揺する。
「君、おい君! 大丈夫かい? どうか起きてくれ!」
「……ん。セン、パイ?」
青年の熱心な声掛けによって青髪の少女は薄く目を開ける。そして彼の清潔で真っ白な服装を見て、引き攣った声を上げた。
「ひっ! だ、誰ッス!?」
どんっ。青年の肩を押し退けて、少女は地面に尻を打ち付けた。そしてズルズルと肘だけで這いずって逃げていく。その途中で、少女は不快そうに顔を歪め、出血した側頭部を抑える。
そして忌々しげな表情で数刻前の出来事を想起しているようだった。
「わ、私、気を失って……! あぁ、なんで私がこんな目に! くそ、キュウちゃんとハキリのやつ、揃いも揃って暴走して……許さない!」
「おい君! 落ち着いてくれ、僕は敵じゃない!」
「だ、黙っててッス! アンタには話しかけてないッスよ!」
「そんな……僕が助けたのに」
恩着せがましくも聞こえる青年の言葉は、しかし純然な事実だ。
彼にはまだ仕事がある。それこそ、人類の明暗を分ける使命とすら考えている重大な仕事だ。それを差し置いてまで助けた相手に、まさかこのような反応をされるとは思ってもいない事だった。
「……あのね、君? ここは迷宮なんだよ、とても危険なんだ。こんな所で寝てちゃマズイだろ? だから僕は起こしたんだ。それ以上でも以下でもない。だから君が大丈夫そうなら僕はもう行くけど、本当に平気なのかい?」
若干の不満を覚えながらも青年は極めて冷静に少女を諭した。出来るだけ相手を不安にさせない為に、しっかりと目を合わせて。
「──あ、っあぁ! あぁぁぁっ!!」
だがそれは逆効果だった。少女は突然悲鳴のような絶叫をあげ、膝から上をバタバタと無意味に動かし、震える指先で地面を引っ掻いた。見開いた瞳からは涙すら流している。
本当にこれは巡り合わせが悪かったとしか言いようがないが、残念な事に、少女は生き物と目を合わせるのが昔からのトラウマだった。
「えっ、なんで泣いて──ちょ、血が出てるじゃないか! そんな体で暴れたら駄目だよ!」
「嫌、嫌だ! もう嫌ぁっ! なんなの!? お前誰だよ! センパイは何処に行っちゃったの!? 助けてセンパイ、早く助けてよぉ!!」
少女は癇癪を起こし、酷く割れた爪で自身の肌にある古傷を引き裂き、見せ付けるように派手な自傷行為をする。突発的でありながら、まるで誰かに見せる為に何度も練習したかのように醜悪に手馴れた行動は、青年の心情を大きく揺さぶった。
「な、なんて事を──止めるんだ! この馬鹿!」
しかし青年は怯えるでも諦めるでもなく、激怒した。そして激情のままに少女の肩を掴み、力強く抱き止めた。
「そんな事しちゃあ、駄目だろ!」
「離せよ! お前みたいな誰かも分かんない奴なんかに、同情されたくないんだよ!!」
「同情じゃない! 心配してるんだ! 君みたいな子が自分の体を傷付けるなんて、そんなの止めなきゃおかしいだろ!」
「私が止めて欲しいのは──抱いて欲しいのは! お前なんかじゃない!!」
少女が青年の頬を殴りつける。それでも彼は怯みもしない。元より単独で迷宮を探索できる実力を持つ彼に、戸惑う少女の拳が通用するわけもなかった。それでも少女は尚も諦めずに、不自由な脚をばたつかせて藻掻く。
その時、青年の視界の端に、倒れた車椅子が映った。
「っ! 君まさか、脚に障害があるのか!?」
「……車椅子を、見たの? そのくらいで理解した気になって、哀れんで、見下してるのかよ! 卑劣な奴!」
「違う、話を聞いてくれ! 僕はこれでも人体には詳しいんだ。だから、君のその脚も……もしかしたら治せるかもしれない! 少しだけで良い、僕を頼ってくれないか!」
それは思わず飛び付きたくなるような提案。初対面の人間を信用できるかという問題を抜きにすれば、少女に断る理由など無いくらいには魅力的な話だった。……そのはず、だったのだが。
「──ふざけるな。今すぐ私を離せ、クソ野郎」
少女は極めて冷徹な態度で拒絶する。それどころか異常なまでの敵意を固め、鋭く豹変した眼光を青年に向けた。思わず青年は彼女の身体から手を放してしまう。
すると少女は演技がかった笑みを浮かべて、自分の肩を優しく抱く。そのどこか悲痛で蠱惑的な雰囲気が滲む仕草は、青年の心を深くまで掻き乱した。
「えへへ、私は今更、普通の体なんか欲しくないんスよ。今の方が、異常な私の方が、まだチャンスがある」
「ふ、普通? 普通って…………そうか。だったら──普通じゃない体なんて、どうかな?」
青年は半ば気狂いのような表情でしつこく食い下がる。元は善意からの行為とはいえ、これ以上の提案はもはや嫌悪感しか抱かれない行動だ。常識的に考えれば彼と少女の間にある溝は二度と埋まらないはずなのだ。
……そんな常識は、彼の非常識な思想によって脆く崩れ去る事になる。
「僕は、進化教団の信徒なんだ。君は人類を超越した体が欲しくはないか? 人間性を捨て去り、欲望を掴み取る気はないか? 僕はその為にここに来たんだ。もしその気があるなら、君にも協力して欲しい」
「……私の、欲望?」
「そうさ! 今、居住区の人間たちは欲望を抑えて生きている。そんなのは生物として正しい姿じゃない! 人間は、魔物になるべきなんだ! 君は分かってくれるかい?」
先程まで強い正義感と頑固な善意で動いていた青年の目に、底知れない狂気が宿る。見えない何かに突き動かされるように彼が口走った話は、おおよそ常人の気を惹く内容ではなかったが、しかし少女の瞳には確かな希望に映っていた。
「魔物になれば……あの人も、私のモノに」
「進化して魔物になろう! 君にも、叶えたい願いがあるんだろう? その脚を捨てて、新たな肉体を手に入れるんだ! その為に進化教団に入団してくれ! 絶対に損はさせないよ!」
完全に正気ではない青年の言葉には、精神が溶ける深い闇が込められると同時に、溢れるような良心、善意、好感の気持ちがあった。
──青年が差し伸べた手を少女が掴み取る。もはや彼女の心には一欠片の恐怖すら無く、ただドス黒い欲望と、全てを引きずり込む泥沼のような愛があった。




