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 七月二十二日午後二時。

 S短期大学の学び舎からは、中間考査を終えて十代最後の夏を謳歌するべく多数の学生が飛び出して行く。

 彼らの開放感に満ちた若いエネルギーが雲を吹き飛ばしたかのような晴天を、今どきの短大生にしては珍しく日本人らしい黒髪の少女が眩しそうに見上げていた。

 ギラギラと容赦なく照り付ける太陽は、通学時にはメラニン細胞を刺激する不倶戴天の敵としか映らないだろうに、空を仰いで歓声を上げながら走ってゆく彼らには、セミの合唱ですら歓喜の歌声に聞こえていることだろう。

 海に放流された稚魚が水面近くで跳ねまわっているみたい。

 若い男女が楽しげに談笑しながら下校していく姿をそんな風に捉えた少女の名は城崎橘花。

 つい五分前までマークシートとにらめっこしていた橘花はそれを見上げて軽い立ちくらみを起こしたが、彼女の石楠花を思わせる華やかな絵柄のワンピースに包まれた細い身体が地面に倒れることはなかった。


「橘花! ちょっと、しっかりしなよ」


 肩を抱きとめてくれたのは美香だった。彼女の顔を見ると、橘花は縁というものについて考える。それは一度途切れてもどこかで繋がることがある、と。

 小学校卒業直前に引っ越しを経験し、新しい故郷にすっかり居ついてしまいSNSに興味がない橘花が当時の同級生と短大で再会したことは奇跡に近い。


「美香……ありがとう」

「いいって。あんたって、朝礼とかで倒れるキャラだったっけ?」

「そんなことなかったと……思うけど」

 

 橘花が言い淀んだのも無理もないことだ。彼女には小学生の頃の記憶がまったくと言っていいほどにない。六歳~十二歳の記憶が欠落していると言ってもいい。

 しかし橘花自身、短大合格を機に一人暮らしを始めることが決まり、やたらと思い出話に花を咲かせるようになった両親に指摘されるまでそれを気にしていなかったのだ。

 実家に残されているアルバムには、友人たちと笑顔で映っている写真が何枚もある。しかしどの写真を見ても、橘花はピンとこない。修学旅行や林間学校などの、一般的に言って良くも悪くも忘れがたいはずの行事の写真を見ても、「言われてみれば、行ったかなあ」などと思うだけで、その情景はこれっぽっちも浮かんでこない。両親がその時買ってきたお土産の湯呑を差し出しても、どうしても自分で購入したものだという気がしなかった。

 彼らが積極的に思い出させようとしてきたわけだから、何か大きくて深い心的外傷を負うような事件があったわけでもないだろう、と橘花は思っていた。楽しい思い出がたくさんあるのならば、思い出してみようと努力してみたこともある。

 しかし魚のいない海に網を入れても何も獲れないのと同じで、当時のアルバムを見返し、作文等に目を通した橘花の努力は徒労に終わった。

 幼い日の思い出を掘り起こすことを諦め、当時の品々を木箱――まるで棺桶だ、まったく関わりのない故人の葬式に出ているようだ、と橘花は思った――に仕舞い込む作業の途中、橘花は一通の葉書を見つけた。

 梅の花が描かれたちょっと古風なデザインのそれには、小学生が書いたとは思えない精緻な文字が整然と並んでいた。内容は引っ越すお友達に贈るものに相応しいというか、ありがちなもので始まり、手紙を出し合おうという約束で結ばれていた。

 差出人の名は「みっちゃん」という愛称で、なぜかそれだけが拙い、まるで字を覚えたての幼児のような筆致で書かれていた。文面は親に代筆を頼んだのかもしれないと橘花は考えたが、結局のところ差出人のみっちゃんが誰かは思い当たらないのだった。

 橘花はあの手紙の差出人が美香であればいいなと期待しつつ、それを本人には切り出せずにいた。切々と大切な友人であることを訴えていたにも関わらず、橘花はそれに対して返事を出した覚えがないのだ。差出人が美香であろうとなかろうと、気まずい思いをしたくなかった。


「城崎さん、よかった。帰っちゃったかと思った」


 きつい太陽光線から避難するため、いったん校舎に戻った橘花。そこへ声をかけてきたのは杵元陽一だった。彼は未だ軽いめまいを覚える橘花の返事を待たずして「サマーキャンプの件だけど」と切り出した。

 陽一はS短大学生会の会長で、「S短サマーキャンプ」の企画立案者だ。芸能事務所に所属していてもおかしくないほどに整った顔立ちをしていて、どこか人懐こさを感じさせる目をしている。そのくせ声はテノール歌手のように低くて張りがあり、会長演説を聞く女子生徒をうっとりさせるのに一役買っている。

 夏休み初日に彼を誘いたい女子はいくらでもいるはずだが、どうやらそれを振り切って橘花を探していたらしい。彼女に――もちろん陽一にも――罪はないが、彼を追って校舎のエントランスホールに詰めかけた女子たちの視線が橘花に突き刺さる。

 しかし橘花は橘花で、そういう目線に気づかない。おっとりしていると言えば聞こえはいいが、何かと陽一に絡まれていることで「ぶりっ子」だの「かまとと」だのという陰口が横行しているのだが、彼女は当然それを知らない。

 そして、何より周囲の女子たちの嫉妬を駆り立てるのが、陽一に話しかけられたときの橘花の「迷惑そうな」態度なのだった。


「杵元君……それなら、ちゃんと不参加と書いて提出したから」


 橘花は眉間を抑えて、できるだけ皺を寄せた。

 夏のキャンプなんて、言葉を聞いただけで激しい忌避感が頭をもたげてくる。

橘花は生い茂る木々や実を付ける植物の類いとそれに群がる虫たちが苦手だった。虫はまだ共感してくれるものもいるのだが、アレルギーでもないのにほとんどの植物が苦手という彼女の感性を理解してくれるものは少ない。

 奥多摩の湖畔で行われるそのイベントには、人学年のおよそ九割、五十人からの生徒が参加すると言うのだから橘花としては驚きだ。

 彼女は配布された出欠表に印字された自分の名前の横に、はっきりとバツ印を付けたことを記憶しており、それを陽一に告げた。


「うん、それは見た。でもほら、城崎さんは学年のイベントにまったく参加したことがないだろ。皆夏以降は就活やなんかで忙しくなるし、思い出づくりの最後のチャンスだと思わないか?」

「そうかしら。とにかくその日は都合が悪いの」

「何か、予定でも?」急に真顔になる陽一。

「……そうよ」橘花はたじろぎそうになるのをどうにか踏ん張って肯定した。そうしてから、後ろでまた身体を支えようと身構えた美香を振り返る。キャンプの日に何があるのかは彼女も知っているのだ。


 大丈夫よ。とでも言うように美香が顎を下げた。

 橘花もそれに頷きを返して陽一に向き直る。発言の許可を得たとでも勘違いしたのか陽一が口を開く。


「キャンプは泊りだから、予定が終わってから合流でも――」

「残念だけど、その日は小学校の同窓会と被っているの。田舎まで行かなきゃならないから泊まりがけになるから」


 キャンプには行けないの。


「ちょ、城崎――」

「さよなら。杵元君」


 まだ何か言いたそうな陽一の脇をすり抜けるようにして、橘花は美香と共に校舎を後にした。


「可哀想に……杵元のやつ、橘花とひと夏の思い出を作りたかったんじゃないの?」

「やめてよ、美香。杵元君て、手が早いんで有名なんだから」


 いやらしい笑みを浮かべる美香に対し、橘花は今度こそ眉を潜めてみせた。


「それに、美香だって不参加で出したんでしょ? なのに、私だけしつこく誘うなんて失礼よ」


 美香は橘花の言葉の意味を測りかねたのか顎を前に突き出すようにして目を丸くした。そしてしばらく視線をさ迷わせてから手をポンと打った。


「ほんとだ……言われてみれば。あの野郎、今度会ったら蹴り上げてやるッ!」

「やだ、美香ったら」

 

 橘花は向日葵のような明るい微笑みを浮かべて笑った。







 その日の夜、自宅で独り中間考査終了のささやかな打ち上げパーティーを始めた橘花。彼女は左手に携帯電話を持ち、右手にはリキュールを使用した低アルコールカクテル飲料の缶を持っていた。


「そっかぁ。おばあちゃんが病気じゃ仕方ないよ、うん」


 橘花は小さく頷きながら、沈んだ調子で言葉を発した。


「うん。美香も気を付けて。じゃあ、現地でね。…………バイバイ」


 橘花は携帯をベッドに放り投げ、カクテル飲料を口に含んだ。酒に酔うという感覚が意外と嫌いでないと知ったのはつい最近のことだ。

 コーヒーリキュールの独特の香りと甘みが喉を滑り落ちるたび、頬が少し熱くなるようだった。彼女は冷たい缶を頬に当て、田舎に祖母と二人で住んでいた同級生がいなかったかと記憶を辿ってみた。


「みっちゃん……か」


 同窓会の通知は二か月前に届いた。

 それまではみっちゃんから来た手紙の存在自体を忘れていた橘花であったが、同窓会に出席すれば、みっちゃんの正体がわかるかもしれないと考えていた。

 手紙をきちんと出さなくてごめんなさい。

 その晩、橘花は美香に謝る夢を見た。




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