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七月二十八日午後四時五十一分。
JRの駅前から一日二本しか運行していないバスに揺られること二時間で、橘花は終点「梅墓村」の停留所――アスファルトで舗装されていない道路の脇に時刻表が設置してあるだけの――でバスを降りた。
「懐かしいなぁ」
そう言ったのは橘花ではない。彼女に続いて錆の浮いたタラップを降りた青年が、灰色の空を見上げて感慨深そうに言い、息を大きく吸い込んだ。そうしてから目を細めて言葉通り懐かしそうに眼下に広がる風景を眺めていた。
斉田 亮――本人曰く梅ノ木小学校の同級生だそうだ。彼もまた、同窓会に出席するために故郷へ戻ってきた。バスの発車時刻ギリギリでバス停に走り込んできた彼は、最後尾の窓際に座っていた橘花を見るなり「橘花!?」と叫んで走り寄って来た。
同窓会の開始時刻は同日午後五時半。幹事でもない橘花と同じように、できるだけ時間ギリギリになるように調整しようと考えた輩と同じバスに乗り合わせてもまったくおかしくない。
馴れ馴れしく話しかけてくるのも、もと同級生と再会できた嬉しさからだろう。親しみの籠った視線を鬱陶しく思いながらも、亮をまったく覚えていない気まずさがそれを態度に表すことを留まらせていた。
斉田 亮という名前が生徒名簿にあったかどうか。
ともかく青年の顔――短く刈り込んだ茶髪、少しキツイ目元に不似合な泣きぼくろ――にはまったく見覚えがない。
二人きりの乗客を吐き出したバスが、まるで逃げるように反対方向へ走り去った。
梅墓村はバス停がある道路から五十メートルほど緩やかな坂を下った土地に存在しており、土地の大部分が水田で占められていた。トラクターや耕耘機の類いが一切見られず、歩道よりあぜ道の方が多い。家屋と言えば日本ではあまり見かけない石造りの平屋が十軒だけで、車庫らしいものは見当たらない。自転車すらも、だ。電柱と電線は見られたが街灯が存在していない。
この村の住人は、日用品をいかにして手に入れているのか。
恐らくは移動販売などが定期的に来るのだろう。
バスに揺られている間、大きなトンネルを通り抜けてからスーパーやコンビニの類いを見かけなかった橘花はそう判断した。
「ほら橘花、あそこがお前んちだったんだぜ?」
幼少期を共に過ごした気安さからか。
無遠慮に至近距離に入り込んできた亮が村を指差して大きな声を出した。
どの家も頑丈そうなブロック塀に囲まれ、窓が極端に小さい。そこから漏れ出る光は間違いなくごく僅かだろう。亮が指し示したのは、夜になったら本当に暗闇が支配すると思われる村の中に在っては異物にしか見えない洋館だった。
村で唯一の木造建築物は、遠目に見ても分かるほどに荒れ果てている。
壁のペンキは元が何色だったかわからないほどに変色し、窓ガラスは内側から木材らしいもので塞がれている。
伸び放題どころか草一本生えていない庭に囲まれているおかげで、懐かしい我が家と言うより空き地に建つ幽霊屋敷と言った方がしっくりくる。
生家を目にした橘花の素直な感想がこれである。
彼女は自分でも不思議なほど望郷の念というものがなく、実際に故郷を目にしてもなんら感慨が浮かんでこないことに首を捻った。
実を言うと洋館には見覚えがある。しかしそれはアルバムの写真の中にあったような、なかったような……その程度のものだった。
「ぜんぜん覚えてないのか? 参ったなぁ……」
亮はゆるゆると首を振った橘花の顔を覗き込んで、茶髪を短く刈り込んだ頭を抱えた。
幼馴染との再会を喜んだのも束の間、バスの中で橘花が故郷や小学校のことをまったく覚えていないと告白した後の亮は少なからずショックを受けたようだった。
生家を目にすれば何か思い出すかもしれない、そんな風に期待していたのは橘花も同じだ。残念ながら村はちぐはぐなジオラマのようにしか見えなかったし、元は洒落た洋館だったらしいが心霊スポットさながらに荒れ果てた生家を見ても嫌悪感しか抱けなかった。
「とりあえず、学校に行ってみませんか?」
入学祝に両親から贈られたブランド物の時計をチラリと見て時間を確認した橘花が促すと、亮は頷きながら「ん」と言って右手を差し出した。
「荷物、持ってやるよ」
亮は意味が分からず目をしばたたかせる橘花のボストンバッグを指差した。一泊二日の小旅行に持参した荷物は華奢な橘花でもたいして重さを感じるようなものではない。橘花は亮の申し出を丁寧に断った。見知らぬ仲でもないらしいが、他人に荷物など持ってもらったことなんてない。
中には財布なども入っているし、そうした背景が無くても他人に預けるのは気が引けた。
小学校は歩いて三十分程度の距離にあるそうだ。
道のりは事前にインターネットの地図サイトで調べたものを印刷して持参していた橘花だったが、それの出番は無いようだった。
「見ろよ、あそこの古井戸に飯野がさ……」
「この林でかくれんぼするのは禁止だったんだ。やぶ蚊がすごくて、酒井は病院に運ばれたことも……」
「梅ノ木神社だ! 懐かしいなぁ! そういやウメボシばばぁってまだいるのかな!?」
道すがら、あれこれと思い出話を披露する亮だったが、十分もすると口をつぐむようになった。
何を語って曖昧な笑みを浮かべて首を横に振るしかない自分に嫌気がさしたのだろう。
橘花は亮以上に沈んだ表情で歩みを進める。
「美香はもう来てるかな……」
「美香? それって、梅田美香のことか?」
杉林に囲まれた道を進む。人の手がほとんど入っていないのだろう。立ち枯れたものが多く、進むにつれてセミの鳴き声もしなくなっていく中で、橘花の呟きは亮の耳にはっきりと届いたようだった。
「ええ……」
自分を気安くファーストネームで呼ぶ亮の口から「みっちゃん」という愛称が飛び出すかと期待していた橘花だが、それは脆くも崩れ去ることになる。
「橘花……それも忘れちまったんだな」
「それもって、どういうことですか?」
「美香は……梅田さんは来ないよ」
死んだから。
亮の口からこぼれたのは、到底信じられない言葉だった。




