12. 中国式友好の正体
友好とは、本来、対等な関係を前提にする言葉である。
互いの違いを認める。
互いの主権を尊重する。
意見が違っても、対話の余地を残す。
協力できる部分では協力する。
受け入れられない部分では、無理に従わない。
これが、本来の友好である。
友好とは、相手に逆らわないことではない。
友好とは、相手の価値観をすべて受け入れることでもない。
友好とは、相手の政府を批判しないことでもない。
友好とは、相手国の国内法や政治的定義に自国の自由を合わせることでもない。
仲良くすることと、従うことは違う。
この区別は、非常に単純である。
しかし、国際関係においては、この単純な区別がしばしば曖昧にされる。
特に、中国政府が語る「友好」を見る時、この区別は極めて重要になる。
中国政府のいう友好は、単なる相互尊重として語られるだけではない。
そこにはしばしば、中国の核心利益、国家統一、中華民族共同体、主権、安全、発展利益といった言葉が結びつく。
表面的には、平和、協力、交流、相互理解、共同発展という言葉が使われる。
しかし、その内側には条件がある。
中国の核心利益を傷つけないこと。
中国の国家統一に疑問を投げかけないこと。
台湾、香港、ウイグル、チベット、内モンゴルなどの問題で、中国政府の立場を否定しないこと。
中華民族共同体という中国側の定義を乱さないこと。
中国共産党の統治正当性に深く踏み込まないこと。
中国政府にとって不都合な人権問題を大きく扱わないこと。
この条件を満たす限りにおいて、友好は成立しやすい。
逆に言えば、その条件を外れると、相手は友好的ではないものとして扱われやすい。
ここに、中国式友好の本質がある。
それは、完全な対等関係ではない。
中国が定義する秩序に逆らわない範囲で成立する友好である。
もちろん、中国側からすれば、それは自国の主権を守るための当然の立場だと説明するだろう。
国家統一は譲れない。
台湾問題は内政問題である。
香港問題も中国の国内問題である。
ウイグルやチベットの問題も民族団結と国家安全に関わる問題である。
外国がそれに干渉することは許されない。
このように説明することは予想できる。
国家が自国の主権や安全保障を重視すること自体は、どの国にもある。
中国だけが主権を主張しているわけではない。
どの国家も、自国の統一や安全を大切にする。
問題は、その主張が他国の言論や判断にまで、どこまで及ぶのかである。
中国国内で中国政府が自国の主権を主張することと、他国の市民や研究者や報道機関にまで、中国政府の定義する主権観を受け入れさせようとすることは違う。
中国国内で台湾独立論を違法視することと、日本国内で台湾の自己決定について議論することを中国側の価値判断で問題視することは違う。
中国国内でウイグルやチベット問題への批判を警戒することと、日本国内の研究者や評論家が人権問題を論じる自由を圧迫することは違う。
中国が自国の核心利益を主張することと、他国にその核心利益への沈黙を求めることは違う。
ここを分けなければならない。
対等な友好であれば、相手は中国の主張を聞くことができる。
同時に、中国と異なる意見を持つこともできる。
中国政府は台湾を中国の一部だと主張する。
しかし、他国の人間が台湾の民主主義や自己決定について論じる自由もある。
中国政府は香港の統治を内政問題だと主張する。
しかし、他国の報道機関が香港の自由や法制度の変化を報じる自由もある。
中国政府はウイグルやチベットの問題を民族団結や国家安全の問題だと主張する。
しかし、他国の研究者が人権問題として検証する自由もある。
中国政府は民族団結を守る必要があると主張する。
しかし、他国の評論家がその法律の危険性を批判する自由もある。
これが対等な関係である。
ところが、中国式友好では、この対等性が弱くなりやすい。
中国側の核心利益に触れない限り、友好である。
中国側の国家統一観を傷つけない限り、協力できる。
中国側の民族団結の定義に逆らわない限り、良好な関係を保てる。
中国側が不快に感じる問題を大きく扱わない限り、平和的な関係でいられる。
このような構造になると、友好は対等な相互尊重ではなくなる。
それは、中国が定義する秩序への配慮を前提にした関係になる。
もちろん、国際関係には配慮が必要である。
相手国を無意味に挑発する必要はない。
相手国の文化を侮辱する必要もない。
外交関係を壊すことだけを目的にした発言は賢明ではない。
現実的な交渉や経済関係を考えれば、言葉を選ぶ必要がある場面もある。
しかし、配慮と服従は違う。
配慮とは、自分の立場を持ったまま、表現や方法を調整することである。
服従とは、相手の立場に合わせて、自分の自由な判断を捨てることである。
配慮は、対等な関係の中でもあり得る。
服従は、対等性を失った関係である。
日本が中国と安定した関係を保つことは重要である。
経済交流も必要である。
人的交流も必要である。
文化交流も必要である。
外交的な対話も必要である。
しかし、それは中国政府の定義する「友好」に日本国内の言論や学問や報道を従わせることとは違う。
日本国内で中国政府を批判する自由はある。
日本国内で中国の民族政策を研究する自由はある。
日本国内で台湾、香港、ウイグル、チベットについて論じる自由はある。
日本国内で中国民族団結法の危険性を指摘する自由はある。
これらを失ってまで保つ友好は、対等な友好ではない。
それは、相手の機嫌を損ねないための沈黙である。
沈黙を友好と呼ぶ時、そこには危険がある。
なぜなら、その友好は、相手の価値判断に自分を合わせることで成立しているからである。
相手が不快に思うから言わない。
相手が怒るから扱わない。
相手が経済的に圧力をかけるかもしれないから批判しない。
相手が外交問題にするかもしれないから研究しない。
相手国の法律に触れるかもしれないから発言しない。
この状態が続けば、友好は自由の上に成り立つものではなくなる。
それは、恐れの上に成り立つ関係になる。
恐れによって保たれる友好は、本当の友好ではない。
本当の友好には、批判する余地がある。
拒否する余地がある。
距離を取る余地がある。
相手と違う意見を持つ余地がある。
それでも関係を維持するから、対等な友好なのである。
一方、批判した瞬間に関係が壊れるなら、それは友好ではなく支配に近い。
拒否した瞬間に敵と見なされるなら、それは協力ではなく従属に近い。
距離を取ることが許されないなら、それは信頼ではなく拘束に近い。
中国式友好の問題は、この点にある。
表面的には、仲良くしようと言う。
しかし、その仲良くしようの中に、中国が定義する秩序への同意が含まれている。
中国の核心利益を傷つけるな。
中国の国家統一観に逆らうな。
中華民族共同体の定義を乱すな。
台湾や香港やウイグルやチベットの問題で、中国政府の立場を否定するな。
中国政府の体面を傷つけるな。
中国の発展や安定に不利な言論を広げるな。
この条件付きの友好は、対等な友好とは言いにくい。
それは、「仲良くしたいなら、こちらの定義した秩序を乱すな」という関係である。
ここで、タイトルの副題である「対等性なき友好の論理」が見えてくる。
対等性なき友好とは、表面上は友好を語りながら、実際には一方の秩序をもう一方に受け入れさせる関係である。
そこでは、友好とは相互尊重ではない。
友好とは、上位側の不快を避けることになる。
友好とは、上位側の核心利益を傷つけないことになる。
友好とは、上位側が決めた歴史観や国家観を否定しないことになる。
友好とは、上位側に都合の悪い自由を自分から制限することになる。
この構造では、一見すると争いは減る。
相手を批判しない。
不都合な問題を扱わない。
敏感な話題を避ける。
経済関係を優先する。
表面上の協力だけを強調する。
すると、関係は安定して見える。
しかし、その安定は本当に対等な安定なのか。
片方が言いたいことを言い、もう片方が言えないなら、それは対等ではない。
片方の核心利益は常に尊重され、もう片方の自由は配慮の名で削られるなら、それは対等ではない。
片方の国内法や政治的定義が国外にも影響し、もう片方がそれを恐れて沈黙するなら、それは対等ではない。
それは、秩序の上下関係である。
中国式友好では、中国はしばしば自分を単なる一国家としてではなく、独自の文明秩序、国家統一、歴史的正統性を持つ存在として位置づける。
そのため、相手国に求めるものも、単なる外交儀礼にとどまらない。
中国の主張を尊重せよ。
中国の核心利益を害するな。
中国の国家統一に関わる問題で慎重であれ。
中国の内政に干渉するな。
中国の民族団結を乱す言論を支持するな。
これらは、形式上は主権尊重の要求として語られる。
しかし、実際には、相手国の言論や政治的判断にまで影響を及ぼし得る。
ここで問題になるのは、中国の主権を尊重することと、中国の政治的要求に従うことの違いである。
中国の主権を尊重するとは、中国国内で中国が一定の統治権を持つことを認めることである。
しかし、中国の政治的要求に従うとは、中国政府が望む価値判断を他国側も受け入れることである。
この二つは違う。
日本が中国の存在を国家として認めることと、日本国内で中国政府批判を控えることは違う。
日本が中国と外交関係を持つことと、日本の学者がウイグル問題を研究しないことは違う。
日本が中国との経済関係を保つことと、日本の報道機関が香港問題を扱わないことは違う。
日本が中国との友好を望むことと、日本人が中国民族団結法を批判しないことは違う。
ここを混同すると、友好は服従へ変わる。
仲良くするために、相手の文化を尊重する。
これはよい。
仲良くするために、相手の国民を差別しない。
これも当然である。
仲良くするために、外交上の言葉を慎重に選ぶ。
これも必要な場合がある。
しかし、仲良くするために、相手国政府への正当な批判をやめる。
仲良くするために、人権問題を見ないふりする。
仲良くするために、研究や報道を控える。
仲良くするために、自国の表現の自由を相手国の国内法に合わせる。
これは、友好ではない。
それは、従属である。
中国式友好の怖さは、露骨に「従え」と言うのではなく、「友好を大切にしよう」という言葉で現れる点にある。
友好を損なうな。
関係を悪化させるな。
相手を刺激するな。
内政に干渉するな。
大局を見ろ。
協力関係を壊すな。
これらの言葉は、一見すると現実的で穏当である。
もちろん、すべてが間違いというわけではない。
外交には大局も必要である。
無意味な挑発は避けるべきである。
相手国民への差別や侮辱は避けるべきである。
感情的な対立を煽るだけの発言は慎むべきである。
しかし、その言葉が、正当な批判や研究や報道まで封じるために使われるなら、問題は別である。
「友好を守るために黙れ」という構造になった瞬間、友好は自由を奪う言葉になる。
この構造は、国内にも影響する。
日本国内で、中国政府への批判が出る。
すると、「日中友好を壊すな」と言われる。
ウイグル問題を扱う。
すると、「中国を刺激するな」と言われる。
台湾問題を論じる。
すると、「内政干渉だ」と言われる。
香港の自由を語る。
すると、「関係悪化につながる」と言われる。
中国民族団結法の危険性を指摘する。
すると、「反中だ」と言われる。
このように、友好という言葉が批判封じに使われることがある。
しかし、ここで冷静に考えなければならない。
政府批判は、敵意とは限らない。
人権問題の指摘は、差別とは限らない。
法制度の分析は、反中感情とは限らない。
台湾や香港やウイグルやチベットについて論じることは、中国人一般への攻撃ではない。
制度批判と民族差別は分けなければならない。
中国政府の法律を批判することと、中国人を差別することは違う。
中国共産党の統治構造を分析することと、中国文化を否定することは違う。
中国式友好の論理を批判することと、中国人個人を敵視することは違う。
この区別を明確にしなければ、正当な批判まで「友好を壊すもの」として処理されてしまう。
中国式友好の論理において、最も注意すべきなのは、相手の自由がどこまで認められているかである。
中国と友好的でありながら、中国政府を批判できるのか。
中国と経済関係を持ちながら、ウイグル問題を報じられるのか。
中国文化を尊重しながら、中国共産党の民族政策を批判できるのか。
中国人と個人として良好な関係を築きながら、中国国家の法律には反対できるのか。
これができるなら、友好は対等性を保っている。
しかし、それができないなら、友好は中国側の秩序に従う関係へ変質している。
対等な友好とは、相手を批判しても即座に敵認定されない関係である。
対等な友好とは、違う意見を持っても関係を維持できる関係である。
対等な友好とは、相手の主権を尊重しながら、自分の主権と自由も守る関係である。
対等性なき友好とは、その逆である。
相手の価値観に合わせなければ関係が壊れる。
相手の核心利益を傷つける発言をすれば敵視される。
相手の国内法や政治的定義を恐れて、自分の社会の議論が萎縮する。
相手が不快に感じる問題を扱えなくなる。
この状態では、友好という言葉は、相互尊重ではなく管理の言葉になる。
そして、管理の言葉としての友好は、団結という言葉と結びつく。
中国国内では、民族団結が少数民族、教育、言語、家庭、ネット、報道、研究を統合する論理になる。
国外では、友好が他国の言論や態度を中国側の秩序に合わせる論理になる。
国内では「団結せよ」。
国外では「友好を守れ」。
一見、別の言葉に見える。
しかし、構造は似ている。
どちらも、対等性を欠くと服従の論理になる。
団結は、違いを認めるなら価値がある。
しかし、違いを消して国家の共同体意識に従わせるなら、服従になる。
友好は、互いの違いを認めるなら価値がある。
しかし、中国が定義する核心利益や国家統一観に逆らわないことを条件にするなら、従属になる。
ここに、本書の主題がある。
「団結という名の服従」
「対等性なき友好の論理」
この二つはつながっている。
国内では、団結という言葉で人々を中華民族共同体へ統合する。
国外では、友好という言葉で他国に中国の核心利益への配慮を求める。
国内外で言葉は違っても、根本には「中国が定義する秩序に従うかどうか」という基準がある。
だから、中国式友好を考える時に重要なのは、「中国と仲良くすべきかどうか」ではない。
問題はそこではない。
国と国が争わず、協力できる部分で協力することは必要である。
中国人個人と友好的に接することも当然である。
文化交流や経済交流を否定する必要もない。
問題は、友好の条件として、自由な批判や研究や報道まで差し出すのかという点である。
仲良くすることは必要である。
しかし、従う必要はない。
協力することは必要である。
しかし、沈黙する義務はない。
相手を尊重することは必要である。
しかし、相手の政府を無批判に受け入れる必要はない。
外交的配慮は必要である。
しかし、自国の自由を相手国の政治的定義に従属させてはならない。
この線引きが重要である。
中国式友好の論理は、この線引きを曖昧にする。
友好を守るためには、中国の核心利益を傷つけてはならない。
友好を守るためには、台湾や香港やウイグルやチベットについて慎重でなければならない。
友好を守るためには、中国の国家統一観を尊重しなければならない。
友好を守るためには、中国政府が不快に感じる言論を控えなければならない。
この考え方が広がると、他国の中に中国の秩序が入り込む。
法律として直接支配しなくても、言葉として支配する。
外交として直接命令しなくても、配慮として沈黙を作る。
処罰しなくても、関係悪化への恐れによって発言を弱める。
これが、対等性なき友好の論理である。
そして、この論理は非常に見抜きにくい。
なぜなら、表面上は平和を語っているからである。
争うな。
関係を壊すな。
友好を守れ。
大局を見ろ。
協力を優先せよ。
これらは、一見すると正しい。
しかし、その結果として、片方だけが自由に主張し、もう片方だけが沈黙するなら、それは平和ではない。
それは、圧力の不均衡である。
本当の平和は、批判を封じることでは成り立たない。
本当の友好は、相手の都合に合わせて沈黙することでは成り立たない。
本当の対等関係は、片方の核心利益だけを絶対視することでは成り立たない。
国際関係において、相手国の主張を聞くことは必要である。
しかし、自国の自由を放棄する必要はない。
中国政府が自国の核心利益を主張するなら、日本も日本の主権と表現の自由を主張すべきである。
中国政府が国家統一を重視するなら、日本も日本国内の議論の自由を重視すべきである。
中国政府が民族団結を掲げるなら、日本も制度批判と民族差別を分けた上で、自由な批判を守るべきである。
それが対等な関係である。
友好とは、相手の秩序の下位者になることではない。
友好とは、対等な相手として、協力できる部分では協力し、違う部分では違うと言える関係である。
もし「違う」と言えないなら、それは友好ではない。
もし「批判する」と言えないなら、それは対等ではない。
もし「それには従わない」と言えないなら、それは独立した主権国家の関係ではない。
中国式友好の危険は、ここにある。
「仲良くする」と「従う」を混同させる。
「配慮」と「沈黙」を混同させる。
「主権尊重」と「中国側の政治的定義への同意」を混同させる。
「反差別」と「政府批判封じ」を混同させる。
「友好」と「服従」を混同させる。
この混同を見抜かなければならない。
中国と友好的に付き合うことは可能である。
しかし、その友好は対等でなければならない。
中国文化を尊重することはできる。
中国人個人と良好な関係を築くこともできる。
経済や観光や学術や民間交流を進めることもできる。
しかし、中国政府の核心利益を傷つけないことを絶対条件とし、そのために自国の言論や研究や報道を制限するなら、それは対等な友好ではない。
それは、中国が定義する秩序の下位に入る関係である。
ここで必要なのは、敵対ではない。
必要なのは、線引きである。
交流はする。
しかし、従属はしない。
尊重はする。
しかし、沈黙はしない。
協力はする。
しかし、自由は差し出さない。
批判する時は、民族差別に落ちないように制度を批判する。
しかし、制度批判そのものはやめない。
この姿勢が、自由社会に必要な対中関係である。
中国式友好の正体を見抜くとは、中国を敵と決めつけることではない。
中国人を疑うことでもない。
交流を断つことでもない。
そうではなく、友好という言葉の中に、対等性があるかどうかを確認することである。
その友好は、こちらが批判しても成り立つのか。
その友好は、こちらが違う意見を持っても成り立つのか。
その友好は、こちらが中国政府の法律を批判しても成り立つのか。
その友好は、こちらが台湾、香港、ウイグル、チベットについて自由に論じても成り立つのか。
もし成り立たないなら、その友好は条件付きである。
そして、その条件が中国側の政治的秩序への服従を意味するなら、それは対等性なき友好である。
本当の友好は、相手の機嫌を損ねないことではない。
本当の友好は、相手の言うことに従うことでもない。
本当の友好は、互いの主権と自由を認めた上で、関係を維持することである。
だからこそ、中国式友好を考える時、私たちは何度でもこの一点に戻らなければならない。
仲良くすることと、従うことは違う。
この区別を失った時、友好は服従に変わる。
そして、服従を友好と呼ぶ社会は、自分たちの自由を守る力を失っていく。
中国民族団結法が示しているのは、国内における団結の強制だけではない。
それは、国外に対しても、中国が定義する秩序に逆らわない関係を友好と呼ぶ論理である。
その友好には、対等性が欠けている。
だからこそ、本書はそれを「対等性なき友好の論理」と呼ぶ。
友好は必要である。
しかし、服従は必要ない。
団結は必要である。
しかし、同化は必要ない。
秩序は必要である。
しかし、自由を奪う秩序は正当化されない。
中国式友好の正体を見抜くとは、この区別を守ることである。
対等な相手として付き合うのか。
それとも、中国が定義する秩序の下位者として振る舞うのか。
この違いを曖昧にしてはならない。
友好という美しい言葉の中に、服従の論理が入り込む時、自由社会は静かに言葉を失う。
だからこそ、友好を語る時ほど、対等性を確認しなければならない。
対等性のない友好は、友好ではない。
それは、相手の秩序に従うことを、仲良くすることだと言い換えただけなのである。




