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11. 国際法と主権――中国法は日本人を支配できるのか

 

 中国民族団結法を考える時、避けて通れない問題がある。


 それは、中国の国内法が、どこまで国外の人間に及ぶのかという問題である。


 第63条は、中国国外の組織や個人に対しても、民族団結進歩を破壊し、民族分裂を作り出す行為をした場合、法的責任を追及するという構造を持っている。


 この条文を見た時、まず確認しなければならないのは、国家は自国の国内法にそのような規定を書くこと自体はできる、という点である。


 中国が自国の法律の中で、「国外の組織や個人も対象にする」と書くこと自体は可能である。

 国家は、自国の安全保障、主権、統一、公共秩序に関わる問題について、国内法上の規定を作ることができる。


 実際、世界の多くの国にも、一定の域外適用を持つ法律は存在する。


 たとえば、国外で行われた犯罪であっても、自国民が被害を受けた場合、自国の安全保障に関わる場合、テロや組織犯罪のように国境を越える問題である場合、国家が一定の関心を持つことはある。


 だから、単純に「国外の行為を対象にする法律はすべて異常だ」と言うだけでは不十分である。


 問題は、何を対象にしているのかである。


 暴力行為なのか。

 テロ行為なのか。

 武装分離活動なのか。

 具体的な犯罪の資金援助なのか。

 それとも、政府批判、研究、報道、人権活動、政治的意見まで含むのか。


 この違いが極めて重要である。


 国家が国外からの武装攻撃やテロ支援を問題視することと、国外で行われた言論や研究を問題視することは違う。


 犯罪行為と政治的意見は違う。

 暴力の実行と政府批判は違う。

 テロ支援と人権報告は違う。

 民族憎悪の扇動と少数民族問題の研究は違う。

 外国からの武装介入と台湾・香港・ウイグル・チベット問題への意見表明は違う。


 この区別を失うと、国家安全保障という言葉によって、あらゆる批判的言論が危険視される。


 中国民族団結法の第63条が危険なのは、まさにこの境界が曖昧になり得るからである。


「民族団結進歩を破壊する」

「民族分裂を作り出す」


 この表現は、非常に広く解釈できる。


 もしそれが、具体的な暴力活動やテロ支援に限定されるなら、まだ安全保障の範囲で議論できる。

 しかし、政府批判、人権報告、学術研究、台湾や香港への政治的意見、ウイグルやチベットに関する発信まで含まれるなら、それは他国の自由空間に踏み込むことになる。


 ここで問題になるのが、主権である。


 主権とは、国家が自国の領域内において、最終的な統治権を持つということである。


 日本国内では、日本の憲法と法律が基本になる。

 日本国内でどのような行為が違法なのか。

 どのような言論が保護されるのか。

 どのような表現が制限されるのか。

 どのような研究が許されるのか。


 それを決めるのは、日本の法秩序である。


 中国政府ではない。

 中国共産党ではない。

 中国民族団結法ではない。


 この原則は、非常に重要である。


 中国国内で違法とされる言論が、日本国内でも違法になるわけではない。


 中国国内では、台湾独立を支持する発言が国家分裂に関わるものとして扱われるかもしれない。

 香港の民主化運動への支持が、国家安全への脅威と見なされるかもしれない。

 ウイグルやチベットの人権問題への批判が、民族団結を損なうものとして扱われるかもしれない。

 中国共産党の民族政策への批判が、国家統一を害するものとして扱われるかもしれない。


 しかし、日本国内では、それらの発言が直ちに違法になるわけではない。


 日本国内で、中国政府の民族政策を批判する。

 台湾の自己決定について論じる。

 香港の自由について書く。

 ウイグルやチベットの人権問題を扱う。

 中国民族団結法を批判する。

 中国共産党の統治構造を分析する。


 これらは、日本の法秩序の中では、基本的に表現の自由や学問の自由の範囲で扱われるべきものである。


 もちろん、日本でも表現の自由は無制限ではない。


 脅迫、名誉毀損、差別扇動、暴力の呼びかけ、犯罪教唆などは、日本国内でも問題になり得る。

 自由には責任が伴う。

 他者の権利を侵害する言論まで無制限に守られるわけではない。


 しかし、政府批判や政策批判や人権問題の指摘は、それらとは分けて考えなければならない。


 中国政府にとって不快な発言であっても、日本国内で合法な言論は存在する。

 中国共産党が危険視する意見であっても、日本国内では政治的意見として守られるべきものがある。

 中国の法律が問題視する表現であっても、日本の憲法秩序では保護される表現がある。


 この違いを守ることが、主権を守るということである。


 もし、中国の国内法が日本国内の言論を実質的に支配するようになれば、それは日本の主権と衝突する。


 たとえば、日本人が日本国内で中国政府を批判したとする。

 その発言が、日本の法律では合法であり、表現の自由の範囲にあるとする。

 それにもかかわらず、中国側が「その発言は民族団結を破壊する」として法的責任を追及しようとするなら、そこには明確な緊張関係が生まれる。


 日本国内で行われた合法な言論を、中国の価値判断で裁くことは、日本の法秩序を迂回する行為になり得る。


 もちろん、中国が国内法上でその人物を問題視すること自体は、紙の上ではできる。

 しかし、日本国内で中国当局が勝手に捜査し、拘束し、脅迫し、処罰しようとすれば、それは日本の主権侵害になる。


 日本国内で警察権を行使できるのは、日本の法制度に基づく日本の当局である。


 外国政府が、日本国内で自国の法律を勝手に執行することは許されない。


 これは、中国に限った話ではない。


 どの国であっても同じである。


 ロシアの法律が、日本国内のロシア政府批判を直接裁くことはできない。

 イランの法律が、日本国内の宗教批判を直接裁くことはできない。

 北朝鮮の法律が、日本国内の体制批判を直接裁くことはできない。

 中国の法律が、日本国内の中国政府批判を直接裁くこともできない。


 これが、国家主権の基本である。


 もちろん、現実には、外国政府が他国の言論に影響を与えようとすることはある。


 外交圧力。

 経済的圧力。

 入国拒否。

 ビザ制限。

 企業への圧力。

 研究機関への圧力。

 メディアへの抗議。

 在外家族への圧力。

 ネット上での攻撃や宣伝。

 海外コミュニティ内での監視や通報。


 こうした形で、国内法が直接執行されなくても、国外の言論に影響を与えることがある。


 だからこそ、問題は単なる法律論にとどまらない。


 中国法は、日本国内で日本人を直接支配できるのか。


 法的に言えば、日本国内の日本人や在日外国人は、日本の法秩序の下にいる。

 中国法が日本国内で自動的に適用されるわけではない。

 日本国内で合法な言論を、中国政府が一方的に違法と呼んでも、それだけで日本の裁判所が処罰するわけではない。


 この意味では、中国法が日本人を直接支配できるわけではない。


 しかし、実質的な影響は別である。


 中国への渡航リスクを恐れて発言を控える。

 中国にいる家族への圧力を恐れて沈黙する。

 中国市場への影響を恐れて企業が批判を避ける。

 中国との研究協力が失われることを恐れて学者がテーマを避ける。

 外交問題化を恐れて政治家が言葉を弱める。

 炎上や嫌がらせを恐れて一般市民が投稿を消す。


 このように、直接支配できなくても、間接的に言論を萎縮させることはあり得る。


 ここが危険なのである。


 法律の力は、逮捕や処罰だけではない。


「危険かもしれない」と思わせるだけでも、人は黙る。

「中国に行った時に問題になるかもしれない」と思えば、発言を控える。

「家族に迷惑がかかるかもしれない」と思えば、投稿を消す。

「仕事に影響するかもしれない」と思えば、研究テーマを変える。

「企業活動に支障が出るかもしれない」と思えば、批判を避ける。


 この萎縮効果こそ、域外適用の現実的な危険である。


 EUや米国が、この法律の域外適用に懸念を示しているのも、この点と関係している。


 問題は、中国が自国内で民族政策をどう設計するかだけではない。

 中国国内法が、国外の個人や団体にまで法的責任を及ぼし得ると示すことで、他国の表現の自由や学問の自由に影響を与え得る点である。


 これは、自由社会にとって重大な問題である。


 表現の自由とは、権力にとって都合のよい発言だけを守るものではない。


 むしろ、権力にとって不都合な発言を守るためにこそ存在する。


 政府を批判する。

 国家政策を検証する。

 少数派の被害を訴える。

 歴史の暗部を調べる。

 人権問題を報告する。

 政治的な意見を述べる。


 これらの自由が守られなければ、社会は権力の説明だけで現実を理解することになる。


 学問の自由も同じである。


 学問は、国家が望む結論を確認するためのものではない。


 研究者は、資料を調べ、証言を検証し、異なる視点を比較し、権力の説明が正しいのかを問い直す。

 その結果、国家に不都合な結論が出ることもある。

 政府の政策が誤っていると示されることもある。

 歴史的な抑圧や人権侵害が明らかになることもある。


 それが学問である。


 もし外国政府が、自国に不都合な研究を「民族団結を破壊する」と呼び、国外の研究者にも圧力をかけるなら、それは学問の自由と衝突する。


 報道の自由も同じである。


 報道機関は、政府が隠したい現実を伝えることがある。

 少数民族の置かれた状況を報じることがある。

 被害者の証言を伝えることがある。

 法律の危険性を分析することがある。


 それを外国政府の価値判断で封じようとするなら、報道の自由が傷つく。


 ここで重要なのは、自由社会が何を守るべきかである。


 自由社会は、外国政府に対して無意味に敵対する必要はない。

 外交関係を壊すことを目的にする必要もない。

 相手国を侮辱する必要もない。

 民族差別や憎悪を煽る必要もない。


 しかし、相手国の政府にとって不都合だからといって、合法な批判や研究や報道を差し出してはならない。


 それは、友好ではなく従属である。


 対等な国際関係とは、相手国の主権を尊重すると同時に、自国の主権も守ることである。


 中国が中国国内で自国の法律を持つことは、中国の主権の範囲である。

 しかし、日本国内の言論空間を中国法の価値判断に従わせないことは、日本の主権の範囲である。


 この二つを分けなければならない。


 中国が自国の主権を主張するなら、日本もまた自国の主権を主張する必要がある。


 日本国内の合法な言論は、日本の法秩序によって守られる。

 日本国内の学問は、日本の制度と自由の中で守られる。

 日本国内の報道は、日本の表現の自由の枠内で守られる。


 そこに、中国政府の政治的価値判断がそのまま入り込む余地はない。


 もちろん、日本国内でも中国に関する議論には慎重さが必要である。


 中国政府批判と中国人差別を混同してはならない。

 中国共産党の制度批判と、在日中国人への敵意を混同してはならない。

 中国の民族政策への批判と、中国文化そのものへの侮辱を混同してはならない。


 批判対象は、制度であり、法律であり、権力構造である。


 民族や出自を理由に個人を攻撃することは、論理的にも倫理的にも誤りである。


 しかし、この注意点を理由にして、中国政府批判そのものを封じてはならない。


 制度批判と差別は違う。

 政府批判と民族憎悪は違う。

 学術研究と分裂扇動は違う。

 人権報告と国家攻撃は違う。


 この区別を守ることが重要である。


 中国民族団結法の問題は、まさにこの区別を曖昧にする点にある。


 政府批判を民族団結破壊と呼ぶ。

 人権報告を民族分裂と結びつける。

 台湾や香港についての政治的意見を国家統一への挑戦として処理する。

 ウイグルやチベットへの言及を外部勢力による干渉として扱う。


 このような構造が国外にまで伸びるなら、他国の言論空間は圧迫される。


 国際法上、国家は互いの主権を尊重しなければならない。


 他国の領域内で、勝手に自国の法を執行することはできない。

 他国の市民に、自国の政治的価値観を当然の義務として押しつけることもできない。

 他国の合法な言論を、自国の国内秩序に従わせようとすれば、主権の衝突が起きる。


 ここで、中国民族団結法は重要な問題を投げかける。


 中国法は、日本人を支配できるのか。


 答えは、法的にはできない。


 少なくとも、日本国内にいる人間が、日本国内で合法な発言をした場合、それを中国の価値判断だけで日本国内において裁くことはできない。

 中国当局が日本国内で直接強制力を行使することもできない。

 日本国内の法的判断は、日本の制度によって行われるべきである。


 しかし、実質的な圧力としては影響し得る。


 渡航リスク、経済的圧力、外交的抗議、研究協力の制限、オンライン上の攻撃、家族への圧力、自己検閲。

 これらを通じて、中国法の影は日本国内の言論にも届き得る。


 だからこそ、自由社会はこの問題を軽視してはならない。


「中国国内の法律だから関係ない」と言い切るだけでは不十分である。

「日本国内では直接適用されないから安心だ」と見るだけでも不十分である。


 重要なのは、直接適用されなくても、心理的・政治的・経済的に言論を萎縮させる可能性があるという点である。


 自由は、法律で明確に奪われる時だけ失われるのではない。


 人々が自分から黙ることで、少しずつ失われることもある。


 研究者がテーマを避ける。

 報道機関が記事を控える。

 企業が沈黙する。

 政治家が言葉を濁す。

 個人が投稿を削除する。

 出版社が扱いを避ける。


 こうして、誰も命令していないように見えながら、言論空間が狭くなっていく。


 この状態を放置すれば、外国政府の国内法が、他国の自由社会に影響を与えることになる。


 それは、主権の侵食である。


 主権侵害という言葉は、軍事的な侵入や領土問題だけに使われるものではない。


 他国の法秩序や自由空間に対して、自国の権力や価値判断を及ぼそうとすることも、広い意味で主権への干渉になり得る。


 特に、言論、学問、報道、人権活動の領域に外国政府の圧力が入り込むなら、その影響は深刻である。


 なぜなら、これらは自由社会が自分で現実を判断するための基盤だからである。


 言論が萎縮すれば、社会は問題を議論できなくなる。

 学問が萎縮すれば、事実を検証できなくなる。

 報道が萎縮すれば、現実を知ることができなくなる。

 人権活動が萎縮すれば、被害者の声が届かなくなる。


 その結果、外国政府にとって不都合な現実が、他国の社会の中でも語られにくくなる。


 これは、非常に危険である。


 中国民族団結法の域外適用に対してEUや米国が懸念を示したのは、この問題が単なる中国国内の少数民族政策にとどまらないからである。


 それは、国外の個人や団体の自由に関わる問題である。

 他国の主権に関わる問題である。

 国際的な言論空間に関わる問題である。


 中国が自国の国内法で、国外の個人や団体にも責任追及を及ぼすと示す。

 その対象が、曖昧な「民族団結の破壊」や「民族分裂の製造」である。

 この構造は、国際社会から見れば当然警戒される。


 なぜなら、それは中国政府に不都合な国外言論を、法的に危険なものとして扱う余地を持つからである。


 もちろん、中国側は、それを合法で必要な規定だと主張するだろう。


 国家統一を守る。

 民族団結を守る。

 社会調和を守る。

 外部勢力による分裂活動を防ぐ。


 そう説明するはずである。


 しかし、どれほど美しい目的を掲げても、他国の合法な言論や学問を中国の価値判断で縛ろうとするなら、その正当性は疑われる。


 国際社会で共存するためには、国家は自国の主張を他国に無制限に押しつけることはできない。


 中国には中国の法秩序がある。

 しかし、日本には日本の法秩序がある。


 中国には中国の政治的価値判断がある。

 しかし、日本の市民がそれに従う義務はない。


 中国政府が民族団結を重視することは、中国政府の政策である。

 しかし、日本国内の人々が中国政府の定義する民族団結を絶対基準として発言する義務はない。


 ここを曖昧にしてはならない。


 もし日本国内の言論が、中国政府の反応を基準に調整されるようになれば、日本の自由空間は外部権力に従属する。


 それは、対等な友好ではない。

 それは、相手国の国内秩序に合わせた沈黙である。


 友好とは、相手国を批判しないことではない。

 友好とは、相手国の国内法に自国の自由を合わせることでもない。

 友好とは、対等な主権国家同士が、互いの違いを認めながら関係を維持することである。


 対等な友好であれば、批判する自由も残る。

 研究する自由も残る。

 報道する自由も残る。

 相手国と異なる政治的意見を持つ自由も残る。


 それが失われるなら、友好は服従に変わる。


 ここで、本書の主題に戻る。


 団結という名の服従。


 中国民族団結法の問題は、単に国内で少数民族を統合しようとする点だけではない。

 その団結の論理が、国外の個人や団体にまで伸び得る点にある。


 中国国内では、民族団結という言葉が、少数民族、教育、言語、家庭、ネット、報道、研究を管理する。

 国外では、第63条によって、海外の言論や活動にも責任追及の可能性が示される。


 この時、団結は国境を越える。


 中国が定義する団結が、日本国内の言論にも影を落とす。

 中国が定義する分裂が、日本国内の研究や報道にも圧力をかける。

 中国が定義する友好が、日本国内の自己検閲を生む。


 これが危険なのである。


 中国法は、日本人を直接支配できるのか。


 法的には、できない。


 しかし、政治的・心理的・経済的な圧力を通じて、実質的に発言を萎縮させることはあり得る。


 だからこそ、日本側ははっきりと原則を持たなければならない。


 日本国内の合法な言論は、日本の法秩序によって守られる。

 日本国内の学問の自由は、外国政府の不快感によって制限されるべきではない。

 日本国内の報道の自由は、外国政府の国内法によって左右されるべきではない。

 日本国内の人権活動は、外国政府の政治的評価によって犯罪視されるべきではない。


 これは、中国に敵対するための原則ではない。


 自由社会として当然守るべき原則である。


 もし中国政府が日本国内の合法な批判を不快に思うなら、中国政府は反論することができる。

 外交的に抗議することもあるだろう。

 自国の立場を説明することもできる。


 しかし、日本国内の言論を中国法の基準で裁くことは別問題である。


 反論と支配は違う。

 抗議と処罰は違う。

 意見の対立と主権侵害は違う。


 中国政府が自国の立場を説明する自由はある。

 しかし、日本国内の人々が中国政府を批判する自由もある。


 対等な関係とは、そういうものである。


 相手の発言を完全に封じることではない。

 相手を従わせることでもない。

 互いに異なる法秩序と価値観を持つ存在として、境界線を守ることである。


 中国民族団結法の域外適用問題は、この境界線を曖昧にする。


 中国側は、自国の民族団結を守るためだと言う。

 しかし、その論理が国外の合法な言論にまで及ぶなら、他国は自国の主権と自由を守るために警戒しなければならない。


 これは、国際法と主権の問題である。

 同時に、表現の自由と学問の自由の問題でもある。


 中国国内法が、どれほど中国国内で有効であっても、それが日本国内の自由を当然に縛るわけではない。


 日本にいる人間は、中国共産党の定義する民族団結に従う義務はない。

 日本の研究者は、中国政府が望む歴史観に従う義務はない。

 日本の報道機関は、中国政府が不快に思う問題を避ける義務はない。

 日本の市民は、中国政府の政治的価値判断に合わせて沈黙する義務はない。


 この原則を忘れてはならない。


 もちろん、冷静さは必要である。


 中国政府批判が、中国人差別に変わってはならない。

 制度批判が、民族への敵意に変わってはならない。

 法の問題が、個人への攻撃に変わってはならない。


 しかし、差別を避けることと、政府批判を避けることは違う。


 中国人個人を尊重することと、中国政府の法律を批判しないことは違う。

 国際友好を大切にすることと、中国法に沈黙することは違う。

 外交的配慮と、自由の放棄は違う。


 この区別を守る必要がある。


 中国法は、日本人を支配できるのか。


 この問いへの答えは、単純なようで深い。


 日本国内の法秩序において、中国法は日本人を直接支配できない。

 しかし、中国法の域外適用の主張は、日本国内の言論に萎縮効果を与え得る。

 だから、直接支配できないから安心だと考えるのは甘い。

 同時に、中国法の存在だけで日本国内の自由を自分から差し出す必要もない。


 必要なのは、境界線を明確にすることである。


 中国国内法は、中国国内の法秩序である。

 日本国内の自由は、日本の法秩序によって守られる。

 外国政府が不快に思う言論であっても、日本国内で合法なら、それは守られるべきである。

 国際友好は必要だが、それは服従ではない。

 主権の尊重は必要だが、それは他国の国内法に従属することではない。


 この境界線を守れなければ、自由社会は外部の権威主義的な法秩序に浸食される。


 第63条が危険なのは、中国国内法がそのまま日本で執行されるからではない。


 そのような直接執行は、日本の主権と衝突する。


 本当の危険は、中国が自国の民族団結の定義を国外にまで広げ、それによって他国の言論、研究、報道、人権活動に圧力をかけ得ることである。


 つまり、法律が国境を越えるのではない。

 法律の影が国境を越えるのである。


 その影が広がれば、人々は自分の国にいながら、外国政府の価値判断を気にして発言するようになる。


 それは、自由社会にとって深刻な問題である。


 だからこそ、私たちは明確に言わなければならない。


 日本国内の合法な言論は、中国法によって裁かれるべきではない。

 日本国内の学問の自由は、中国政府の民族団結概念に従属すべきではない。

 日本国内の報道の自由は、中国政府の政治的都合によって萎縮すべきではない。

 日本国内の市民は、中国共産党が定義する「正しい友好」を義務として受け入れる必要はない。


 対等な国際関係とは、相手国の主権を尊重しながら、自国の主権も守ることである。


 中国が中国国内の秩序を守ると言うなら、日本も日本国内の自由を守らなければならない。


 その自由を守ることは、敵対ではない。

 それは、自国の法秩序と自由権を守るための当然の態度である。


 団結という名で国外にまで伸びる法律に対して、自由社会が守るべきものは明確である。


 それは、主権である。

 表現の自由である。

 学問の自由である。

 報道の自由である。

 そして、外国政府の価値判断に従属せず、自分たちの社会で自分たちの議論を行う権利である。


 中国法は、日本人を支配できるのか。


 答えは、できない。


 しかし、私たちが恐れて沈黙すれば、事実上その影響を受け入れたことになる。


 だからこそ、必要なのは冷静な理解と明確な線引きである。


 中国の法律がどこまでのものなのかを理解する。

 日本の主権と自由がどこにあるのかを確認する。

 制度批判と民族差別を分ける。

 国際友好と服従を分ける。

 外交的配慮と自己検閲を分ける。


 この区別を守ることが、自由社会の自制である。


 中国民族団結法の域外適用問題は、単なる中国法の問題ではない。


 それは、日本を含む自由社会が、自分たちの言論空間を誰の価値判断で守るのかという問題である。


 その答えは明確でなければならない。


 日本国内の自由は、日本の法秩序の中で守られる。

 中国国内法の影によって、その自由を自ら狭めてはならない。


 それが、国際法と主権を考える上での基本である。


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