第十四話 突然のキス
「では、行こうか」
エスコートするためにエドガーが差し出した手に、セシリアは一瞬ためらいながらも、そっと自分の手を重ねた。
やわらかく手を取られ、自然と歩みへと導かれていく。
二人は王城の庭園へと、ゆっくりと歩き出した。
昼下がりの庭園は、柔らかな陽光に満ちていた。
手入れの行き届いた花々が咲き誇り、甘い香りが静かに漂っている。
その穏やかな空間の中で、エドガーがふと口を開いた。
「セシリア嬢、歩くペースは早くないか?」
「問題ございません、公爵様」
そう答えると、隣でわずかに、言いよどむような気配があった。
「……できれば、爵位ではなく名前で呼んでもらえないか?それから、私も敬称なしで、セシリアと呼びたい」
一瞬、言葉の意味を測りかねて、セシリアはわずかに目を瞬かせた。
だがすぐに、その意図を理解し、戸惑いを滲ませながらも小さく頷く。
「……はい。構いません」
そう答えたものの、いざ呼ぼうとすると、喉の奥で言葉がつかえる。
長年染みついた礼儀が、どうしても邪魔をする。
「エドガー公爵……」
名を呼びかけながらも、無意識に爵位を添えてしまう。
その瞬間、エドガーがわずかに声音を低くした。
「爵位はいらない」
静かながらも譲らない響きに、セシリアは一瞬だけ迷い、それから意を決したように言い直す。
「では……エドガー様」
するとエドガーは、ようやく目を細め、満足げに微笑んだ。
そして、そっと身体を寄せてくる。
「様もいらない。なあ、セシリア、……エドガー、と呼んでくれないか?」
どこか甘えを含んだ低い声で囁いた。
腰に響くようなその声音に、思わず肩が跳ねそうになるのを必死で堪える。
「さすがにそれは出来ないです……」
セシリアがなんとかそう断ると、エドガーは少しだけ肩をすくめた。
「まあ、仕方ないか」
どこか残念そうで、けれど、少し楽しげな声音にも聞こえた。
そのやり取りの中で、セシリアの心は、どうにも落ち着かなかった。
(……どうして、そんなにも嬉しそうに……)
名前を呼んだ時の、エドガーの嬉しそうな表情に、申し訳なさと気まずさが胸の奥に広がっていく。
脳裏に浮かんだのは、今朝、父から告げられた縁談の話だった。
胸の奥に、じわりと広がる居心地の悪さ。
このまま曖昧にするべきではないと思い、セシリアは小さく息を吸った。
「エドガー様、いただいた縁談のお話なのですが」
改まった声音で切り出す。
「私などには身に余る、大変ありがたいお申し出ではございますが、」
「待てっ、セシリア!頼む、待ってくれ……!」
お断りします、と言い切る前に、言葉を遮られた。
思わず目を見開く。
エドガーが、余裕を失ったように言葉を畳みかける。
「縁談の件は、こちらの意思を伝えておきたくて急ぎ、フィオナ王女を介して申し込んだんだが……答えを急いでいるわけではないんだ。だから、今、無理に答えを出さなくていい」
「……ですが、」
受けるつもりがない以上、長引かせるのはかえって不誠実だ。
それを口にしようとしたその時、彼が一度言葉を切り、わずかに息を整えた。
そして、今度は押しつけるのではなく、諭すような口調で語りかけてきた。
「そもそも私たちは、お互いのことをあまり知らないだろう?」
真っ直ぐに見つめてくる。
「まずは、あなたのことを知りたい。そして、私のことも知ってもらいたい。決断するのは、それからでも遅くはないはずだ」
一言一言を確かめるように、ゆっくりと続ける。
「頼む、セシリア。どうか、私にチャンスをくれないか……この通りだ」
そう言うとエドガーは、ためらいなく頭を下げた。
「……!」
思わず息を呑む。
公爵という立場の人間が、こんな風に頭を下げるなど、想像すらしていなかった。
互いにあまり知らないと言いながら何故縁談など申しこんでくるのか、とか、あれだけ外堀を埋める様な真似をしておいて何を言っているのか、などと、いろいろ思うところはあるけれど、何よりもまず、セシリアはこの状況が耐えられなかった。
「わ、分かりましたから……!頭を上げてください」
慌ててそう告げると、エドガーはぱっと顔を上げた。
「本当か……!よかった。ありがとう、セシリア」
エドガーのその表情が、先ほど以上に隠しようもなく嬉しそうで、セシリアは、どうにも落ち着かないまま、わずかに視線を逸らした。
「では早速だがセシリアのことを聞かせてほしい」
そう言って、彼が嬉しそうに再び口を開いた。
「先程は流れてしまったが……あなたの好きなものを教えてはくれないか?」
その言葉に、セシリアはわずかに息を整え、気持ちを切り替える。
好きなもの、と考えた時、ふと、先程のお茶会で飲んだお茶の味が脳裏に浮かんだ。
そして同時に、今朝夢で見た、前世の記憶も思い出され、懐かしさが胸をかすめる。
「先程飲んだ、この国の茶葉を使ったお茶が好きです。少し渋いですけれど、後味がすっきりしていて……」
少し間をおいて、ゆっくりと言葉を続ける。
「ずいぶんと昔にも、今日のように、あのお茶をある方とご一緒したことがございます。……その時の穏やかなひとときは、今でも心に残っている、大切な思い出です」
かつての自分が、アレクサンダーと共にここで過ごした穏やかな時間を思い出し、セシリアは懐かしむように、ふわりと微笑みを浮かべた。
その時、エドガーが小さく息を呑む音がした。
そちらに視線を向けると、彼はくしゃりと顔を歪め、堪えきれないものを押し殺すように、目をわずかに潤ませていた。
え……、と思った瞬間、視界に影が落ちた。
何が起きたのか理解する前に、エドガーに強く引き寄せられ、唐突に唇が重なった。
「……っ」
突然のことに、思考が真っ白になる。
反射的に剣に手を伸ばそうとして、自分の今の姿がドレスであることを思い出した。
(しまった……!完全に油断した……!)
身体を捻ろうとするが、びくともしない。
逃れようとするほど、抱き寄せる腕の力が強くなる。
やはりどんな状況であっても剣は帯刀しておくべきだったと深く後悔するが、もう遅い。
長く続く口付けに脳がぼうっとしてきた時、舌で唇をなぞられて、少し開いた口にエドガーの熱い舌が入ってきた。
「……んっ」
と高い声が出た。
それに煽られたかの様にエドガーの手がそっと背中を撫で、さらに口付けを深めようとしてきた時、セシリアは渾身の力を振り絞って、彼の胸を突き飛ばした。
「……!」
はっとしたように、エドガーの動きが止まり、ゆっくりと唇が離れた。
見上げた先で、エドガーは我に返ったように青ざめ、見るからに焦っていた。
「私はなんてことを……!すまない、セシリア……!」
血の気の引いた顔で、勢いよく頭を下げた。
「いえ、もう結構です。……ですが、もう、二度と私の前に姿を見せないでください」
謝られたところで、最早、何の意味もない。
冷たくそう言うと、エドガーは泣きそうに表情を歪めた。
「それだけは、どうか勘弁してほしい。お前と会えないと私は、生きている意味がないんだ。頼む、許してほしい。好きなんだ、お前のことが……」
余裕も威厳もない、必死な声音で懇願してくる。
「狂おしいほどに……」
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れる。
先ほどまであったはずの嫌悪が、不思議と薄れていった。
小さく息を吐く。
「……そこまで言うなら、分かりました。ですが、これからは勝手にこんなことはしないと約束してください」
「分かった……!約束する!ありがとう、セシリア……」
顔を上げたエドガーは、今にも泣きそうな顔で、それでも心から嬉しそうに笑った。
その表情に、思わず毒気を抜かれてしまった。
彼は先程から、セシリアのことをいつものあなたという呼び方では無く、お前と呼んでいる。
焦りのせいか、取り繕うことも忘れているらしい。
普段の洗練された物腰からは想像もつかないが、もしかすると、本来は少し不器用な気質なのかもしれない。
そんな素の部分が透けて見えて、なんだかそれが少し可笑しかった。
庭園には、相変わらず穏やかな風が吹いていた。
花々は静かに揺れ、何事もなかったかのように、美しい景色が広がっている。
けれど、セシリアの胸の奥には、先ほどまでとは違う、微かなざわめきが残っていた。




