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1 ロゼッタ、パンケーキを焼く

 とにかく少し心を落ち着けなければと、ロゼッタは屋敷内の庭園を散歩していた。生まれた時から決まっていた婚約者に婚約破棄を告げられ、階段から転落し、前世の記憶を思い出したロゼッタの心はもうボロボロだ。


(カミル殿下……、あんなにあっさり婚約破棄だなんて。今までの17年間は何だったんですの?)


 王太子の婚約者として恥ずかしくない振舞をしなさい、と常日頃から言われその通りに努力してきた。国の法律で決まっているとはいえ、こんなに簡単に婚約がなかったことになるとは。まるでお気に入りのおもちゃを取り換えるかのようにあっけなくロゼッタは放り出されたのだ。

 そんな風に考えていると胸の中からどす黒い感情があふれ出しそうになる。


「いけませんわ……! このままじゃゲームと同じ悪役令嬢で処刑ルートですわ」


 我に返ったロゼッタは慌てて両手で自分の頬をぱちんと挟む。前世のゲームでのロゼッタの顛末をもう知っているのだ。さすがに同じ道は歩みたくない。


「――なんてことだ! まさか聖女が現れるなんて」

「あなた、ロゼッタはどうなるのです?」


 ふと聞こえてきた声にロゼッタは足を止めた。この先はテラスのある居間に繋がっていた。なんとなく茂みに隠れて覗いてみると、父が城から帰宅したようだった。母と共に深刻そうな顔をしている。


「お払い箱だ。聖女が出現したということは国の危機なのだからな。……17年間王太子妃にするために育てたというのに」

「あの子がもう王太子妃になれないなんて……」

「カミル殿下の気持ちを繋ぎとめることもできないとは……。まったく情けない。これでは私の出世もアディノルフィ家の栄光もすべてが台無しだ。そのためにあのクソ王とも仲良くしてきたのに!」

「あの子の性格のキツさ考えたことあります? 無理に決まってるでしょう!」


(お、お父様、お母様……そんなことを考えていたんですの?)


 両親の本音の言葉にロゼッタの心はサーっと冷たくなった。

 二人ともヒステリックに叫んでいるがもうロゼッタの耳には届いていない。


「もう全部どうでもいいですわ……」


 無意識のうちにロゼッタは呟いていた。

 そしてふと思った。

 パンケーキが食べたい。

 今はもう顔も思い出せない前世のお母さん。お母さんの作ったパンケーキが無性に食べたかった。

 ロゼッタは頬を伝って来た涙をぬぐって、再びふらりと歩き出したのだった。



 曇り空の下、ロゼッタは一人街中を歩いていた。

 衝動的だったが屋敷を抜け出すのは容易だった。城下町にあるタウンハウスは貴族街にあり、現在は治安も良いので警備は手薄なのだ。

 街はそこそこにぎわっていて、たくさんの人々が行き交っている。

 ロゼッタは地味なワンピースに目立つ髪は一本の三つ編みにまとめて平民に変装していた。

 すべてが嫌になって屋敷を飛び出してきてしまったのだ。貴族街を出て下町へ行くと、空気は一気に変わる。なんとなく前世が懐かしくなるような賑わいだ。


(これからどうしましょう……)


 もうすべてを投げ出してしまいたかった。衝動的に飛び出してきてしまったけれど、貴族の娘が行く当てもなく彷徨い歩いたところで、何ができるだろう? しかし今のロゼッタには前世の記憶がある。だから働くことはきっと苦にはならないはずだ。とはいえ、一体何をしたらいいだろう。

 そのとき、ぽつりと雨が降って来た。


「……あら」


 最初はぽつりぽつりと降っていた雨は瞬く間にシャワーのように降り注いだ。行き交う人々も駆け足になる。ロゼッタも雨宿りできる場所を探して周囲を見渡した。

 街角にある寂れたレンガ造りの喫茶店が目に留まる。

 喫茶ビクトリア、という看板が出ていた。

 なんとなく店の作りが前世の実家に似ている気がした。


「営業しているのかしら……」


 ずいぶん古びているし、中は薄暗くてよく見えない。

 しかし雨は強くなる一方だったので思い切って入ってみることにした。


「お邪魔いたします」


 扉を開けるとカランカランと錆びたベルが乾いた音を立てた。

 天気が悪いせいもあり薄暗い店内にはカウンター席が4つと窓際にボックス席が2つの小さな店だった。カウンターの中にいた痩せた白髪の老紳士がちらりとこちらを見る。


「いらっしゃい」

「……あの、えっと、コーヒーとパンケーキをひとつおねがいしますわ」


 誰も客がいない。

 一瞬迷って立ち止まったロゼッタはいそいそとカウンター席に座った。


「かしこまりました」


 店主だろう老紳士は穏やかにそう言うと準備を始める。

 ロゼッタは最初こそ居心地悪くそわそわしていたが、段々と興味が出てきた。

 この世界でもコーヒーやパンケーキは存在している。一体この店ではどんなものが出てくるのか楽しみだった。この世界でパンケーキと言えば庶民の食べ物なのだ。焼き菓子やケーキはよく食べるがパンケーキはあまり食べたことがないのだ。


「おまたせしました」

「……これは」


 しかし出てきたパンケーキは茶色どころか黒に近かった。薄い焦げたぺらぺらのパンケーキと、無機質な銀のカップに淹れられたコーヒーに戸惑いつつロゼッタはまずコーヒーに口をつけた。


(うん、こちらは美味しいですわ)


 香ばしくて酸味の控え目な飲みやすいコーヒーだ。食器の無機質さはともかくとして、薫り高くとてもおいしい。さて次にお待ちかねのパンケーキへとフォークを差す。

 しかし薄いパンケーキをナイフとフォークで切り分けて、一口食べたロゼッタは座った眼をした。


「……これは、これはどういうことですの?」

「は? 何かありましたかな」

「このパンケーキはなんですの、と聞いているのです!」


 ぺらぺらに薄く、記事は固くてぱさぱさ。しかも焦げている。バターの風味もない。


「これではただの小麦粉を水と卵で溶いて焼いただけの代物ですわ! こんなのパンケーキとは呼べませ……あ」


 前世の温かい記憶を求めて食べたパンケーキのあまりのまずさにロゼッタは憤慨した。前世でロゼッタの実家だった喫茶店では人気商品がパンケーキだった。前世のロゼッタもそのパンケーキが大好きだったのだ。

 けれどさすがに初対面で料理をけなすなんて失礼だと我に返って椅子に座りなおす。


「失礼いたしました。パンケーキには少しこだわりがありまして……」

「いいんですよ、お嬢さん。うちの料理がまずいのは本当ですから」

「ええ?」

「うちはもともと私がコーヒー、妻が料理担当だったんですよ。しかし妻が一年前に亡くなりましてね。私が料理も作るようになったんですが、経験がない人間ではこのありさまです。おかげで客もほとんど来ないんですよ」

「そ、そうだったのですね」

「まあもともと老後の道楽で始めた店ですから」


 もう店も閉め時ですかねえ、などと店主は遠い目をしている。

 申し訳ないことを言ってしまったと、ロゼッタは気まずい気持ちになった。それと同時に期待していたパンケーキを食べ損ねてさらにパンケーキが恋しくなってしまった。


(おいしいパンケーキが食べたいですわ……。あ、そうですわ)


 俯いていたロゼッタはふと思いついたことがあって顔を上げた。


「あ、あのもしよろしければ、わたくしがパンケーキの焼き方を教えましょうか?」

「え?」


 そうだ、なければ自分で焼けばいいのだ。

 ロゼッタの提案に店主はぱちぱちと小さな目を瞬いて首をかしげたのだった。



「本当に大丈夫なんですか? お嬢さん、失礼ながらとても料理なんてしたことないように見えますが」

「おほほほ、大丈夫ですわ。まあ見ていてくださいませ」


 喫茶ビクトリアの店主、マルシオは心配そうにエプロンの紐を結んでいるロゼッタを見ていた。

 確かにロゼッタは彼の言う通り、今世では料理など一度もしたことがない。侯爵令嬢なのだから当然だ。しかし今のロゼッタのは前世の記憶がある。

 前世では店の手伝いでパンケーキも焼いていた。

 卵を卵黄と卵白に分けふわふわになるまで泡立てて、粉類をさっくりと混ぜる。

 材料はほぼ前世と同じものが使われているようで内心ほっとした。


(なんだか……こうしていると、すっごく楽しいですわ)


 もったりとした生地を薄く油を塗った鉄板の上に流していくと、やがて懐かしい香りが鼻をくすぐる。

 自身の手で次々と焼きあがっていくパンケーキを見ているとなんだか心が癒えていくようだった。カミルとの婚約破棄や、前世の記憶を急に思い出したことでずいぶんと心が疲弊していたのだと自覚する。


「これはまるで雲のようですなあ」

「そろそろいいですわね」


 きつね色に焼けたパンケーキを皿に取り粉砂糖をかけてバターとメープルシロップを添えれば出来上がりだ。

 興味深そうに見ていたマルシオの前に皿を出す。


「さあ、完成ですわ。召し上がれ」

「おお……では二人で食べましょうか」

「そうですわね。いただきますわ」


 そしてロゼッタはマルシオと一緒に試食してみることになった。

 上手くできたと思うが大丈夫だろうかと、少し緊張しながら見ているとひと切れパンケーキを食べたマルシオが瞳を輝かせた。


「これは……! こんなおいしいパンケーキ食べたことがありません。口の中に入れると雲のように溶けてしまう」

「それはよかったですわ。では、わたくしも……。ええ……ええ、これですわ。わたくしが食べたかったのは!」


 食べた瞬間、思わず涙がこぼれた。

 それは前世のロゼッタが大好きだったパンケーキの味だ。今世では初めて食べたがちゃんと味も食感も覚えている。


(ああ、お母さん。もう会えないけれど……)


 もう帰れない場所や、会えない人を思うと胸がチクリと痛む。けれど今のロゼッタはもうゲームの世界の住人なのだ。

 ロゼッタは意を決して顔を上げた。


「あの……マルシオさん、お願いがあるのです。わたくしをこのお店で雇っていただけませんか?」

「しかし貴女は貴族のお嬢さんではないのですか?」

「色々とわけがありまして……それにわたくしはパンケーキを焼きたいのです。お願いします」


 パンケーキを焼くことはロゼッタの心を癒すことだ。

 それに、今はどうしても家に帰る気になれなかった。これは逃避だとわかっていたっけれど、せめて少しの間でも忘れていたかった。深々と頭を下げるロゼッタに、マルシオは少し困っていたけれどやがて頷いてくれたのだった。

ここまでお読みいただきありがとうございました!

少しでも面白い、続きが気になると思ってくださったらブクマや下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると嬉しいです。

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