エピローグ
雲のようにふんわりと泡立てた生地をフライパンに流し入れると、じゅわっという音と共にバターの香りが広がる。
しっかり生地に火が通るように、慌てず騒がず、やがて甘い香りが厨房に満ちていく。形を崩さないように器用にひっくり返せばきつね色の綺麗な焼け目が見えて、ロゼッタは一人小さく頷いた。
「皇妃様、皇子様がいらっしゃっております」
「ははうえー! ちちうえがもうおしごとおわったって」
「まあ、もういらしたの? あの人、ちゃんと公務を終わらせてきたのかしら」
可愛らしい声と共に、黒髪のテオドール似た男の子が走ってきてロゼッタのスカートにしがみついた。
外を見れば今日も曇り空。来たばかりの頃は驚いたが、それも今はもう慣れてしまった。常時この城周辺の地域は天気が悪いのだ。
ここはローレンツ帝国の王宮、その奥にある皇妃専用の厨房だ。
ロゼッタが皇帝テオドールと結婚してから数年が経っていた。
両親は最初反対したものの、テオドールに何度か屋敷へ訪問してもらい、なんとか許しを得ることができた。両親ともにちょっと涙目になっていたが、孫が生まれてからはそれはもう大喜びで頻繁に手紙やおもちゃを送って来るようになった。里帰りも催促されているが立場上なかなか難しいところが悩みだ。
エストレイア王国とローレンツ帝国は長い和平協議の結果、今は同盟関係になっている。エストレイア王国も数年前にカミルが正式に国王として即位していた。その隣ではフィオナが彼を支えていた。もちろん大小さまざまな問題はあるが、今のところ両国の関係は順調だ。
ちなみに結婚当初、ロゼッタはエストレイア王国から友好の懸け橋のためにやってきた花嫁……つまり政略結婚と周囲には思われ同情されていた。しかしテオドールが表でもまったく溺愛を隠さなかったためすぐに誤解は解けたのだった。
「あ、皇妃様! 皇帝知りません? あの野郎またサボ……じゃなかった。休憩を取られているようで」
「はいはい、見つけたらそちらに突き出しますわ」
「お願いします!」
厨房の入り口にザシャが顔を出す。どうやら捜しまわっているらしい。これもすでに慣れっこだった。
(人を信じることを怖がっていらしたのに……ずいぶん変わりましたわね)
テオドールの周囲は確かに信用ならない者も多くいたが、ロゼッタが見る限り、ザシャやアロイスをはじめ彼を信じ敬ってくれる者達も多いのだ。そもそもテオドール自身が昔は周囲に心を開かず信用していなかった。けれど、和平協議をするために周囲に協力を仰いだのをきっかけに少しずつ臣下達とも信頼関係を築いていった。
それも、ロゼッタや子供達を守るために彼が努力してくれていることだ。
「それで? いつまでそこに隠れていらっしゃるのかしら?」
「……ばれてた?」
「ちちうえ!」
ロゼッタの声に、食器棚の影からぬっと黒い影が現れた。
テオドールだ。長男が嬉しそうに駆けていきまるで虫のように長い脚にしがみついた。
まったく、とため息をついてロゼッタは焼きたてのパンケーキを皿に移す。今日もとてもいい出来だ。
「あんまり皆さんを困らせないでくださいませ。また反乱を起こされますわよ」
「だってロゼッタと皇子に早く会いたくて。あと姫にも」
「姫はお昼寝中ですわ」
長男の下には昨年生まれたばかりの娘がいるのだ。テオドールは二人の子供をそれはもう溺愛していた。
息子を足にくっつけたままやってきたテオドールが背後からロゼッタにもたれかかる。
「昨日も一昨日も深夜まで会議だったろう? ちょっとは充電しないと皇帝の威厳が保てないよ」
「威厳なんて元々ありましたかしら……」
少なくとも足にミノムシのごとく皇子をくっつけロゼッタにしがみついているテオドールには威厳のかけらもなかった。そんな姿を見ても可愛いとしか思えないのだから、大概ロゼッタも彼に弱いのだ。
「ちゃんとお昼を食べたら公務に戻ってくださいね」
「わかってるよ、ロゼッタ。今日はひさしぶりにパンケーキを焼いてくれるって言ってたから楽しみにしてたんだ」
焼きあがったパンケーキを運んで今日は家族だけで昼食をとることになった。
わあい、と皇子が喜びゆりかごに寝かされた姫はまだ眠そうにしている。
ロゼッタは今でもたまにパンケーキを焼いている。もちろん皇妃としての務めもあるので時々しかできないが、テオドールが作ってくれた専用の厨房で時折腕を振るっていた。皇妃が料理をするなんて、と周囲は驚愕するけれどテオドールが喜んでくれるので。
「このパンケーキを食べていると君と出会った頃のことを思い出すよ」
「そういえば、来月にでもマルシオ様に会いに行こうと思いますの。そろそろお店を畳むとおっしゃっていたから」
「そうだね……。それなら僕も一緒に行くよ」
マルシオはまだエストレイア王国の城下町で喫茶ビクトリアを営んでいた。今でも年に一度ほどだが、ロゼッタとテオドールはお忍びで顔を出しに行っていた。高齢になったマルシオはそろそろ引退するのだという。
喫茶ビクトリアで働いていたあの日、雨の中テオドールを助けて彼にパンケーキをふるまった。暗かった赤い目がきらきらと輝いて涙を流したときのことをロゼッタは昨日のことのように思い出すことができる。
「テオドール様は本当にわたくしのパンケーキが好きですわよね。ごく普通だと思うのですけれど」
前世の記憶にある母のレシピから作ったパンケーキは確かに美味しいけれど、ごく普通のものだ。特別な何かを入れているわけでも、ロゼッタに特別な力があるわけでもない……と思う。ふと結婚前に考えた聖なる力のことを思い出したが、それも不確定なことだ。
テオドールは切り分けたパンケーキを皇子に与えながら笑った。
「ロゼッタのパンケーキは僕にとって幸せの味なんだよ。あの日、僕の心を救ってくれたんだ。何を食べても美味しいなんて思ったことのなかった僕を」
「まったく、大げさですわね。……でも、そうですわね。わかりますわ」
まるでふわふわの綿菓子か雲のようにやわらかいパンケーキ。
温かくて甘い、それはロゼッタにとってもどこか懐かしくて優しい。
そして目の前ではいつでもロゼッタを溺愛してくれるテオドールと可愛い王子と姫。婚約破棄されたあの日、未来など何も考えられず自棄になっていた自分には想像できなかった未来がそこにあった。
切り分けたパンケーキをひと切れ、フォークに刺してテオドールの口に入れた。
「パンケーキは幸せの味ですわ」
この先もずっと、甘くて温かくて優しい世界が続くように。
そんな祈りを込めて、ロゼッタは微笑んだ。
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