10、騎士と鼻折りの花嫁(10)
海での仕事から三日。午後になると、船の経路が陸へ近付いてきた。
河が陸を削って出来た水路に入り、山から止めどなく滴る水に速度を奪われ、動力の黒洋碑の覇気を損なう。海面反発のような揺れはないが、水槽の水が完全に真水へ変わるとまた色を変える。白色となり、気泡を出さず、眠るようにただ静かに存在するだけとなる。
成空碇の出したガスはエンベロープを萎めるとき、タンクへ移す。それに船の動力を換えると、小さな島々の間を船は進む。
島には際まで生える木々があり、すくすくと育った森を背負っている。船が進む向こう、堂々と見下ろす山脈から流れる水は、海を押し除け島の木々に伝わっている。
やがて小高い崖下の岩穴に辿り着く。自然が作ったその洞穴は大口を開けて船を飲み込む。操舵室のある船頭から照らすライトを頼りに地底湖まで行くと、僕とジーリレはデッキに出た。
船のエンジンが消えた後、ライトや船内の灯りは全て消す。闇に沈んだ空間へ口の中で舌を打ち、音を反響させる。方向を見定めると、僕はジーリレを残してデッキから岩場へ飛ぶ。
岩場には水門を開ける絡繰のスイッチがあり、他の騎士には教えることはできない。だから灯りを付けず、作業を行う。
地面にある岩に模した扉を開けると、動作させるための鍵を差し込む。鍵は団長の僕と副団長のジーリレしか持ち得ない。レバーを引き、ハンドルを回す。ガチと音が鳴った。
鍵を抜いて扉を閉め、デッキに戻ると、水門が低い唸りを上げて開く。水が流れを変え、地底湖の水位が上がり、谷へのルートが開かれる。船は自然と流され、出口の眩い光が見えてくれば、騎士の里、谷はすぐそこだ。
またエンジンを付けて緑の生い茂る島々を進むが、その中には砲台と騎士が潜んでいる。つぶさにこちらを見ているのが何となくわかる。ジーリレと甲板で過ごしていると、フリアとサラが上がって来た。島の木々がザワッと蠢く。木の葉の間からいくつもの目が彼女を見ている。
「あれは注意した方がいいのか?」
「今日くらい良いのでは」
ジーリレは肩をすくめた。
やがて島の木々は少なくなり、砲台は物々しく姿を晒す。島は地続きの陸となり、両脇に田畑が広がる。
谷に街を築いたのは、史実だと僕のコジャド家、ジーリレのバルジャン家、マリーザの生家のサウセダ家が中心になったという。人知れず義を重んじ誅を成し、それに同調する者を加え、たった数十人だった谷は村となり街となった。田畑を広げ、家畜を飼い、学校をつくり、医者を招き、多くの物事はここで完結している。小さな城下町のように小高い丘に家々が建ち並び、食事処やパン屋、雑貨屋などが混じっている。
僕はやけに静かなフリアを見た。街には背を向けて彼女は過ぎる川を眺めているようだ。しかし海のような歓声はあげない。その様子をサラが心配する。
「ねえ、フリア。どうしたの?」
「同じ、国とは思えなくて……」
それがどういった意味なのか、サラも僕も聞く勇気は無かった。
船が河川港に近付くと、夕暮れ時になっていた。左手に並ぶ背の高い白い壁の倉庫の間から、二階建ての石造りの家々が見える。
ダニエル夫妻がデッキに顔を出すと、うずうずとしているのがわかる。マリーザの小さくまとめた荷物を背負うダニエルはデッキから街へ飛び込みたいのだろう、欄干を握りしめて目に涙を溜めている。倉庫が隔てる街の道を、ずっと船に並走している子供へと向けられている。
着岸して階段が用意されると、マリーザがスカートの裾を持ち上げて我先に降りて行った。最後の数段を飛び降りると、彼女は息を切らした息子と娘を強く抱きしめ、後に来たダニエルが三人を包み込んだ。
三年の仕事を終えた騎士を、故郷は賑やかな雰囲気で出迎えてくれた。沿道には百人ほど集まっており、労いの声がそこら中から上がる。
ガスパルは母や兄妹の元へ行くと、写真の中の父に膝を付いて報告し、妻のクラリッサは義理の兄夫妻の抱く子供におもちゃを渡す。
僕も港に降りる。沿道にいる人々がそわそわとしたが、顔の怪我を見て察し、歓声はあげないでくれた。それでもキョロキョロとみんなフリアを探す。彼女は港とは反対の甲板で、ずっと川を見ている。
僕とジーリレはセブリアンを待つ家族の元へ向かう。父母の目の前に立つと、彼らは互いに強く抱きしめ合った。僕が感謝か称賛か、どちらを言うのか待っている。
「セブリアン・ガルソン騎士に感謝申し上げる」
そう言うと、父母はいくらか安堵して、止めていた息を吐いた。それから静かに経緯を聞き、僕は家族を船へ案内する。
セブリアン夫妻のいる船室をノックすると、義足にアニタがブーツを履かせているところだった。
「どうにも上手くいかなくて、不恰好になってしまうんです」
セブリアンは肩をすくめて笑う。
僕は家族を廊下で待たせ、それをしばらく手伝うことにした。親父殿から習った方法で、アニタにタオルをいくつか丸めさせ整える。
それから廊下の父母を招き入れた。扉を閉めると、すぐに母親の泣く声が響く。
胸がじりじりと疼くまま、甲板に戻ると、若い技師たちがエンベロープを広げ、傷や汚れの箇所を確認していた。
ジーリレが港にいる者に荷下ろしの指示を始めたし、怪我をした家族への説明も終わった。後は自分の荷物を持って、フリアを連れて館に帰るだけだ。でも、その前に彼女を抱きしめたい衝動に駆られる。
ダニエル、ガスパル、セブリアン夫妻が携わった仕事は、三年前、親父殿と一緒に始めた。仕上げはお前がやれ、と後を任された仕事でもある。
僕がもっと上手くやれば、セブリアンの母親は絶叫せずとも良かったのではないか。もっと早く切り上げる作戦があった。でも多くの反対があったからやめた。僕は早く切り上げても上手く出来たのではと、最後まで、いや、今も思っている。
これを驕りと言うのだろうか。何をもって驕りや確信を取り分けるのだろうか。焦るから驕るのか。老いれば確信に近付くのか。経験が驕りにも確信にもなるのに、どう棲み分けているのだろうか。
とにかく、フリアに触れたくなる。この振り子のように揺れる感情を、彼女をきつく抱き締めて止めたい。
彼女はまだ川を見ていた。技師たちが翻す布のバサバサという音にも目もくれない。しかしデッキに木箱がドスンと置かれると、肩が震えた。やっと意識が戻ったのか、背中越しに彼女の声が聞こえる。
「こんなに水があるの……。全部、飲めるの?」
そう隣のサラに問う。
「北の川の水は飲料よ。あっちの、ちらほら紅葉してる林の川よ」
「ねえ、大きなタンクがあるわ。パイプが付いてるのは水道? 普通の家にあるの?」
「ええ。お風呂もあるわ」
「……信じられない。もしかして、全部の家に蛇口があるの?」
「もちろんあるわ」
「すごい、なんてすごいの……こんなに家があるのに繋げるなんて、見境なく、どうしたらできるの。羨ましい、この谷は美しい……」
彼女はぽろぽろと涙を流し、サラの方を向いた。その横顔を夕陽が照らし、金色の目を輝かせる。
僕は衝動を殺す。彼女の褒め言葉を腰に紐で括り付けたスパナを握らせて、台無しにしたくない。だからギリギリとグローブを握りしめる。
サラも谷を褒められたのが嬉しいのだろう、笑っている。フリアを見る若い職人たちの目線に気付かない。ディバの溶けた自制心にも気付かない。作業の手を止め、身体の向きを変え、惚ける彼はすぐ近くにあった宝石に今更ながら気付いたのだろう。
僕は自慢するように腰を抱き、体を寄せて影を一つにすることはできない。他の男たちと一緒に見つめることしかできない。
グローブが破れるほど拳を握り締めないと、頭がおかしくなりそうだった。




