EPISODE 0.1
床に転がった大地に指を近付けて、つかもうとするとさっと避ける。ジャージのままでそんな遊びをしている夫はふぬけた顔をしていた。
「せっかくの行楽日和なのに穴の底の仕事なんてまっぴらだ。連休中はずっと家にいる」
「行楽日和ならどこかに行こうよ。井の頭公園なんかどう」
公園なんか行ってもしょうがないという顔をしていた夫は、大地の顔を見て失礼なことを思い付いた。
「あそこの動物園にはサルがいたよな。美智子は行ったことあるの」
「子供の頃に両親と行ったよ」
じゃあそうしようか、と夫は遠い目をして言った。
翌日、車ではなく電車で数駅、あっという間に吉祥寺。涼しい朝の空気の中をのんびりと歩いて目的地に向かう。
「どこのお店も閉まってるね」
「まだ早いから。帰りはおしゃれな人でいっぱいになるだろう」
おしゃれな人もそうでない人も、人はすでにいっぱい歩いている。みんなどこに行くのだろう。シャッターの閉じたお店を眺めながら、エスニックな柄のエプロンが欲しいとなんとなく思った。
親子は公園に入って池のまわりの新緑の桜を眺める。両親を亡くしたのもこんな季節だった。頼れる親族はなく姉だけが家族だった。あのときはお姉さんも就職したばかりでちゃんと仕事をしたかっただろうに。私はずっと負い目を感じている。
井の頭自然文化園に到着すると開園したばかりの時間だったので並んでいる人はいなかった。入場料はふたりで800円で大地は無料。
「何から見よう。サル山は最後がいいな」
「アジアゾウのはな子がいるでしょう。あとは有名なリスとメリーゴーランド」
どれにするか決めかねて、そのまままっすぐ歩いたら突き当りがリスの小径。
「いるいる。走りまわってる」
何匹ものニホンリスが木の上や足元を活発に走っていた。手に何かを持ってこちらを気にしているのもいた。大地が腕から降りようと手足を動かすが、こんなところを匍匐前進させるわけにはいかない、と夫ががっちりホールドして、そのまま外に出る。大地は巣箱を気にしていた。その先には誰もいない、止まったままのさびしいメリーゴーランド。
水筒を取り出してカップの口を除菌ティッシュで拭く。水筒の中は湯冷ましの水だ。大地はちょっとだけ飲んで顔を背けた。
「水なら飲み残しを足元に捨ててもあまり迷惑にならない。ダンジョンではみんな水を持ち歩くんだよ」
「そんなこと大地に教えないで」
「どうして。地上でも役に立つ知識だよ」
「そんなことより、はな子はこっちだって書いてあるよ。行ってみよう」
アジアゾウのはな子は朝ごはんを食べていた。
「りんごを選んで食べてるみたい。おいしいのかな」
「本当だ。バナナをどかしてる」
いつまでも食べてばかりで、はな子が歩かないので、ふたりはだんだん飽きてきた。
「あ、バナナも食べてるよ」
「好きなものを先に食べる主義か。美智子と同じだ」
「哲夫さんは計画的にだもんね。ケーキを半分食べてから苺を食べて、それからまたケーキ」
大地がもぞもぞと動き出したのを合図にアカゲザルのサル山に向かうことにした。
低いところにあるそれはたしかに山だったけれど、木を模したコンクリートの柱が林立する殺風景なところだった。東南アジアから来た猿たちはところどころで群れていて、夫は何かを思い出すようにその風景を見ていた。ダンジョンに似た場所があるのかも知れない。
「こんなところでも親は親らしくて、子供は子供らしい」
「そうだね」
太陽が明るくて、風がすこし冷たかった。




