プロローグ
「女性が当主!?」
「はい。すでに大気の国セイチョウには、存在すると噂がありま……」
「あーはははは!」
ここは、水の国スイメイ。
その国の貴族が通う「国立スイメイ学院」では、授業の一環で「貴族の世襲制度」について、身分・性別・年齢の垣根を越えた討論会が行われていた。
「そんな噂を真に受けたのかよ? 男爵令嬢殿。女性は魔力が弱い。魔法学の授業だって受けられないじゃないか。そんなのが当主になって、どうやってモンスター達から領土を守るんだ?」
「それは……」
そこまで言いかけて、アガパンサス=ブリッソー男爵令嬢は言葉に詰まってしまった。
淡い桃色のドレスを震わせ、肩まで伸びた栗色の髪の下で悔しそうに唇を噛む。
その様子を見て、伯爵令息はますます得意そうに笑った。
「大体、女は守られる方が幸せだろう? なあ、ブルーム辺境伯令嬢もそう思うよな?」
伯爵令息は、隣の席に座る裏葉色のドレスを着た辺境伯令嬢に声をかける。
彼女の名前は、アガベ=ブルーム辺境伯令嬢。
流れるような美しい金髪を持つこの女性は、成績優秀で、女性にしては魔力が強く、気遣いの出来る、かなり人気のある生徒だ。
「ええ。全く、その通りでございますわ」
アガベは大きく頷き、伯爵令息に微笑みかける。
この純粋無垢な笑みに、ときめかない男性はいない。
伯爵令息も思わず、胸が高鳴るほどだ。
しかし、このアガベ=ブルーム。
実は内心、とんでもない毒を吐いているのである!
(は? 何言っているの? この頭空っぽのボンボンは! 座学の成績は、私より悪いクセに偉そうに! デルフィニウム教授の本すら読んでなさそうなアホ面君に、誰が守ってもらうか! バーカ! くたばれ! 〇ね!!)
そんな事を思われているとは露知らず、伯爵令息は「そうだろう、そうだろう」と首肯を繰り返していた。
この世界は、魔法が絶対である。
少しでも人の手の届かないところにいけば、狂暴なモンスター達が命を狙ってくるからだ。対抗できる魔法こそ全てであり、それ以外の成績は重要視されなかった。
魔法は、貴族のみが使える神業。
しかも、男性の方が魔法の力、すなわち「魔力」が強いため、女性が魔法学の授業を受ける事は許されていない。この為、女性は男性に守ってもらうしかなく、意見を述べる事も許されなかった。
「そうですか……」
男爵令嬢は、もはや何も言わなかった。
アガベ辺境伯令嬢はチラリと彼女を一瞥する。
今にも泣きだしそうな表情に、少し同情した。
(この男爵令嬢は、少しも間違った事は言っていません。女性の当主が現れてもいいのではないか。その意見、大変、素晴らしいと思いますわ。しかし……)
アガベは扇子を広げる。
(正しい意見が称賛されるような、そんな単純な世界ではありませんのよ、ここは。それよりも、いかに周囲に合わせるかが肝要です。吠えるのではなく、柔軟に対応出来ているフリをする。フリですわよ、フリ! フリならいくらでもできますわ! 私はブルーム辺境伯が第一子、アガベ=ブルーム! 私が私である限り、どんなルールの中でも幸せになってみせますわ! おーっほっほっほっほ!!!)
この強かな令嬢アガベ=ブルームが……。
◎◎◎
「私に楯突くのか!」
どこかの安宿屋で、肉と肉がぶつかる音が響いた。
上質なブラウスを着崩した四十歳前後の男が、顔を赤くして怒鳴り散らしている。どこか足取りがおぼつかないのは、酒で酔っているせいだろう。ロングジュレがヒラヒラと不規則に揺れている。
彼の前には、十歳の女の子が立っていた。男と違って、穴の開いた薄汚い服を着ている。長い黒い髪はボサボサで、毛玉だらけだ。
「……」
少女は、頬を赤く腫らしていた。それでも泣かずに、黙って男を睨みつける。
「今までの動物実験では失敗しましたが、そろそろ人間でやりたかったのです。それを嫌だ、だと! お前は誰に養ってもらっているんだ!?」
男の大きな手が少女の頬に炸裂した。
ぼろ雑巾のように、少女は床に倒れ込む。
しかし、男に心配している様子はない。
「何度も改良したのですから、今度は成功します! ……たぶんね」
男は少女の腕を掴み上げる。
痛みで、少女は顔を歪めた。
「っ!」
「さあ、実験だ」
男は側に置いてあったトランクに手を伸ばした。
それはとても大きい、革製の滑車の付いたトランクだった。そのトランクの取っ手のそばに、筒状のものがくっ付いていた。まるで、煙突のようだ。
「嫌っ!!」
長すぎる前髪の下から、少女は懸命に叫び、男の要求を拒絶する。
それでも、男は容赦しなかった。強引に少女の腕を掴み、トランクの取っ手に近づける。
「トランクよ。新しい主人だ! 盛大に迎えるがいい!」
「いやぁぁぁ!!!」
月の輝く夜に、少女の悲鳴が響きわたった。
◎◎◎
……この憐れな少女と出会い、世界の価値観をひっくり返してしまう事になる。
だが。
それはもう少し先の話だ。