第6話 自由を駆ける雷
翌朝、梅田地下の駐車場に四人が揃った。
コンクリートの壁には、昨日までなかった青白い扉が浮かんでいる。周囲は見慣れた駐車場なのに、扉の前だけ空気が冷たく感じられた。
近づくと、視界に文字が現れる。
《硝子の回廊》
《難易度:初級》
《攻略完了まで途中退出不可》
《死亡した場合は安全区域で復活します》
《残機がない場合、復活は行われません》
「……初級、ね」
「その顔、ムカデを思い出してるでしょ」
リンが俺の横から表示を覗き込んだ。
「いや。誰が難易度を決めてるのか気になってさ」
「そんなに信用できない?」
「あれがチュートリアル扱いだったら、さすがに苦情を入れたい」
「どこに?」
「それを今から調べようと思ってた」
「後にして」
そう言って笑ったリンも、扉から目を離さない。
この世界に来てすぐ、俺たちは巨大なムカデと戦った。傷は消えても、牙が顔のすぐ横を通り過ぎた感覚は覚えている。
残機は、最初に与えられた二つだけ。
復活できるからといって、死んでいい理由にはならない。
この一週間、リンとは何度も魔法の練習を重ねた。最初は氷針を一本出すだけでも苦労していたのに、今では氷の壁や拘束も、少しずつ使い分けられるようになっている。
ただし、ムカデを止めたあの広域魔法――氷界封域だけは、一度も再現できていない。
俺も同じだ。焔銃剣の扱いには慣れてきたけれど、あのときの炎をもう一度出せと言われても、自信がなかった。
技が増えても、失った残機は戻らない。だからこそ、今日は四人で無事に帰りたい。
「タツヤ、今日は無茶しないでよ」
「善処します」
「約束して」
「……分かった。約束する」
リンが満足そうに頷くと、コトネがぴんと手を挙げた。
「コトネも約束します! いっぱい頑張ります!」
「コトネちゃんには頑張りすぎない方を約束してほしいな」
「ええっ! 頑張っちゃ駄目なんですか?」
「帰り道の体力も残しておかないとね」
「……それは難しいです!」
そこは自信を持って言わないでほしい。
「コトネ」
シュウゴがコトネの隣に立つ。
「俺の見えないところまで一人で走るなよ」
「はいっ! シュウゴさんも置いていかれないでくださいね!」
「……努力する」
真剣に答えるシュウゴを見て、リンが口元を押さえた。
「タツヤ」
シュウゴが俺を見る。
「中に入ったら、指揮はお前に任せていいんだな」
「はい。ただ、四人で戦うのは初めてです。俺が見落としたら、遠慮なく言ってください」
「ああ。俺も気づいたことは伝える」
「コトネも気づいたら言います!」
「頼りにしてるよ。走る前にも一声かけてね」
「はいっ!」
今の返事は頼もしい。……五分後も覚えていてくれるといいんだけど。
互いの戦い方は、まだ十分に知らない。それでも四人で戦うと決めた。
今日の目標は、敵を何体倒すかじゃない。帰って、また四人で笑うことだ。
「よし。行こうか」
俺は青白い扉に手をかけた。
重い扉が、ゆっくりと開いた。
◇ ◇ ◇
扉の向こうには、透明な柱が何本も並ぶ長い回廊が続いていた。
厚い硝子の床の下に、黒い岩盤が透けている。左右の柱も、壁も、天井さえ鏡のようだった。
前を歩くシュウゴが三人に増えて見えた。角度が変わると、今度はリンの姿が壁の奥へ消える。
足音だけは四人分。……目より耳を信用した方がよさそうだ。
背後で扉が閉まる。
《入場を確認しました》
《攻略完了まで退出できません》
「本当に閉まっちゃいました!」
「そう書いてあったからね」
「でも、ちょっとドキドキします!」
コトネが胸に手を当てて笑う。
俺は焔銃剣を呼び出した。
リンも氷話杖を手にする。
「そういえば、二人の武器って、ちゃんとは見せてもらってなかったわね」
シュウゴが手を開いた。
現れたのは、黒と金の大盾。岩を重ねたような厚い装甲が、肩から膝までを覆うほど大きい。
「大地盾だ」
「おお。頼りになりそうですね。元は何だったんです?」
「段ボール箱だ」
「……段ボール?」
「仕事で毎日のように荷物を運んでいた」
俺は大盾を見直した。
「ずいぶん出世しましたね、その箱」
「俺もそう思う」
この人、時々こちらが返事に困るくらい真顔だ。
「土や岩を動かせる。ただ、何もない空中に岩を作るのはまだ難しい。地面とつながっている方が力を使いやすいんだ」
シュウゴが盾の先で床の継ぎ目を指した。そこから小さな岩の突起がせり上がる。
「じゃあ、岩盤が見える場所なら有利ですね」
「ああ。逆に、硝子だけの場所では無理をさせないでくれ」
「分かりました」
「次はコトネです!」
少女が待ちきれない様子で右手を上げた。
黒と金の太刀が光の中から現れる。細い紫電が刃を走り、握っただけで小さく空気が鳴った。
「雷命刀です! 格好いいでしょう!」
「うん。すごく綺麗だね」
「えへへ! 元は病院で、いつも握っていた点滴スタンドなんです!」
「点滴スタンドから刀か……」
俺は自分の銃剣を見た。
「工具が銃剣、段ボールが盾、点滴スタンドが太刀。武器によっては現金が出るやつもあったのかな」
「そんなものあるわけないでしょ」
「リン、現実的すぎない?」
「タツヤほどじゃないと思うけど」
コトネが声を立てて笑った。
その笑い声を、硬い音が遮った。
かつん。
回廊の奥から蹄の音がした。
次いで、金属が床を擦るような音。
さらに、頭上から甲高い鳴き声が重なる。
「……敵が多そうだな」
正面の暗がりに、硝子の角を持つ鹿が現れる。
《硝角鹿》
鹿は十頭近い。さらにその背後には、槍を構えた透明な兵士が七体、横一列に並んでいた。
《硝子兵》
見上げると、天井の梁の間から十数匹の黒い蝙蝠が次々と飛び出してくる。
《残響蝙蝠》
「……いきなり全部乗せか」
「タツヤ、数が多い!」
「ああ。ちょっと予想外だね」
鹿が前列、槍兵が後列。蝙蝠は鏡の天井に映り込み、実際より何倍もいるように見えた。
左右の太い柱の間だけが狭い。ここで敵を受ければ、一度に相手をする数を減らせる。逃げれば蝙蝠に背を取られる。
……よし。中央に集めよう。
「シュウゴさん、中央をお願いします! リンは左右の通路を塞いで! コトネは俺の後ろ、まだ走らないで!」
「分かった!」
「はいっ!」
シュウゴが前へ出て、盾を床に打ちつけた。
「ここは通さん。大地錨!」
盾の下から岩の杭が伸び、硝子の継ぎ目を通って床下の岩盤へ食い込んだ。
先頭の鹿が、角を低く構えて突っ込んでくる。
――ガンッ!
巨体が盾にぶつかり、床を揺らした。
「……重いな」
「大丈夫ですか!」
「ああ。今のうちだ!」
「そこは通さないわ。氷棘壁!」
リンが杖を振り下ろす。
シュウゴの盾の左右に、鋭い氷の棘をまとった壁が立ち上がった。
回り込もうとした鹿たちが進路を塞がれ、足を止める。
「タツヤ! 今よ!」
「ナイス、リン!」
俺は銃口を向けた。
「散れ! 焔散弾!」
火弾が扇状に広がり、前列の鹿の角や脚に炸裂する。
何頭かがよろめき、砕けた角が床を滑った。
だが、その向こうで硝子兵が一斉に槍を構えた。
鹿の背後から、長い槍の穂先が突き出される。
「……まずい! シュウゴさん、頭を下げて! リンは右の柱へ!」
シュウゴが盾の陰に身を沈める。
直後、一本目の槍が盾の上端をかすめ、甲高い音を立てた。
二本目は右側へ伸びたが、リンが先ほど作った氷の障壁に突き刺さる。
「……危なかったな」
シュウゴが低く呟く。
「鹿の肩越しに槍を突いてくるのか。厄介ですね」
槍兵は突き終えた直後、穂先を引き戻すのに一拍かかる。
その隙なら届く。
「シュウゴさん、あと少しだけ正面をお願いします! リン、左側の鹿を止めて!」
「分かったわ!」
リンが杖を向ける。
「――そこまで。霜縛!」
左側の鹿の前脚が凍りつき、動きが止まった。
俺はその脇を抜け、左の柱に身を寄せる。
正面の盾に気を取られていた硝子兵が、慌てて槍を引き戻した。
「……遅い!」
銃剣を構え、一気に踏み込む。
「喰らいつけ! 焔牙斬!」
炎の牙が兵士の胴体を斜めに切り裂いた。
硝子の破片が飛び散り、青白い光へと変わっていく。
だが、安心する暇もなかった。
上から、耳を刺すような鳴き声が降ってきた。
鏡の壁いっぱいに黒い翼が広がる。どれが本物だ?
頭上の空気が鋭く鳴った。そちらへ身を引いた瞬間――
「上!」
リンの声と同時に、蝙蝠が急降下してきた。
俺は身体を伏せた。尖った翼が頭上をかすめる。
正面を塞がれている間に、頭上から切り込まれる。敵に三種類いる意味が分かった。
「コトネ、俺たちの上を頼める?」
「任せてください!」
「ただし、離れすぎないで!」
「はいっ!」
コトネの足元で、小さく雷が弾けた。
「雷走!」
少女が、俺たちのすぐ右から飛び出す。
右の柱を蹴って跳び上がり、俺たちの頭上をかすめた蝙蝠を斬り上げた。
「まとめて、いきます! 雷環斬!」
太刀が円を描く。
紫電が頭上へ広がり、降りてきた蝙蝠をまとめて切り裂いた。
「……速っ」
思わず声が漏れる。
だが、コトネは止まらなかった。
着地した勢いのまま、兵士の背後へ駆け抜けようとする。
「コトネ、そこまで!」
俺が叫んだときには、遅かった。
柱の陰にいた別の兵士が、横から槍を突き出した。
「……っ!」
コトネが身体をひねる。
「――閃駆!」
紫電が床を走り、槍先が空を切った。
避けられた。けれど、着地したコトネの背後には鹿がいる。
俺は銃剣を握り直した。
「コトネ、伏せて!」
少女が身を沈める。
俺は足元に炎を走らせ、二人の間へ滑り込んだ。
「焔迅歩!」
鹿の角を刃で受け流す。
腕に強い衝撃が走った。踏ん張りきれず、靴底が床を滑る。
「くっ……!」
まずい。次の突進は受けられない。
「タツヤ!」
リンの杖から冷気が走った。
「――そこまでよ。霜縛!」
鹿の前脚が凍りつき、目の前で動きが止まる。
俺はその首筋を銃剣で斬り抜いた。
砕けた鹿の向こうから、シュウゴの声が飛ぶ。
「二人とも、戻れ!」
盾の前にはまだ鹿が残り、槍兵が柱の外側へ回り始めていた。頭上では蝙蝠がまた輪を作る。
このまま受け続けたら、先にこっちが尽きる。
「……分かりました。シュウゴさん、正面の床を崩せますか!」
「できる。だが、足場ごと失うぞ」
「全員、柱の手前まで下がります。敵が固まったところをまとめて!」
シュウゴが短く頷いた。
「リン、上の蝙蝠を引きつけて! コトネ、俺のところまで戻って!」
「分かった!」
「はいっ!」
リンが杖を上げる。
「――連なって、凍りなさい。氷晶連鎖!」
冷たい光が一匹の蝙蝠に触れ、隣へ、そのまた隣へと広がった。
群れの中央が凍りつき、翼を動かせなくなった蝙蝠が落下してくる。
コトネが戻る。シュウゴも盾の固定を解き、俺たちと同じ位置まで退いた。
追ってきた鹿が柱の間で詰まり、その後ろの槍兵も足を止める。角と槍がぶつかり合った。
……ここだ。
「今です!」
「割れろ。地裂衝!」
シュウゴの盾から衝撃が床下へ走った。
敵の足元だけ、硝子が大きく割れる。岩盤が盛り上がり、鹿の脚が取られ、兵士の槍先がばらばらに揺れた。
落ちてきた蝙蝠が折れ重なった鹿に衝突する。逃れた数匹も、リンが撒いた氷針に進路を塞がれた。
リンは右の柱の陰、コトネは俺の隣。シュウゴは中央。炎を振るう左側に、味方はいない。
「俺が左を片づける。コトネは右、リンは逃げる敵を止めて!」
「はいっ!」
俺は前へ踏み込み、銃剣を大きく振った。
「まとめて薙ぎ払う! 焔旋斬!」
炎の弧が左側へ広がり、足場を失った兵士たちをまとめて薙ぎ払う。
右では、コトネが雷をまとって駆け出した。
「今度はコトネの番です! 雷影乱舞!」
紫電の軌跡が、柱と崩れた床の間を縫う。
紫の軌跡が交差するたび、鹿の角が砕け、兵士の槍が折れた。
最後に逃れようとした蝙蝠をリンの氷針が射抜いた。
硬い音が途切れる。
目の前には砕けた床だけが残り、魔物たちは一体残らず光になって消えた。
「……終わった、かな」
俺がそう呟いた直後、コトネが両手を挙げた。
「やりましたー!」
「うん。すごかったよ」
「えへへ! コトネ、強いでしょう!」
「想像してたよりずっと強かった。特に速さは、ちょっと反則だね」
コトネが嬉しそうに笑う。
その笑顔を見てから、俺は声を落とした。
「でも、さっきの槍は危なかった」
「……はい」
「コトネが強いのは分かった。だからこそ、俺たちが追いつけないところまで行かないでほしいんだ」
少女は太刀を見下ろした。
「コトネ、走れるのが嬉しくて……つい」
さっきまでの勢いが、少しだけ弱まる。
俺はしゃがんで目を合わせた。
「怒ってるわけじゃないよ。助けに行こうとして、間に合わなかったら嫌だから」
「……分かりました。次はちゃんと戻ります!」
「……俺からも一つ」
シュウゴが口を開いた。
「戻ろうとした判断はよかった。あのまま進んでいたら守れなかったからな」
「本当ですか?」
「ああ」
コトネの顔がぱっと明るくなる。
コトネの肩が小さく上下している。強くても、疲れないわけじゃないらしい。
「無理は禁物よ。まだ終わってないんだから」
「はいっ!」
俺も壁にもたれた。
ほんの短い戦いだったはずなのに、腕が重い。
勝てたのは四人で位置を守ったからだ。コトネの速さだけでも、俺の炎だけでも足りなかった。
……まだ、息を合わせる練習は必要だな。
◇ ◇ ◇
しばらく休んでから、俺たちは先へ進んだ。
途中に魔物の姿はない。崩れた床の左右には、柱に沿って割れずに残った足場があった。俺たちはそこを一人ずつ慎重に通り、向こう側へ渡った。
その先には細い通路が一本だけ続き、奥に大きな扉が見えていた。
扉の表面は鏡になっている。
近づくと、映った四人の姿の奥で、赤い光が一度だけ瞬いた。
「……嫌な演出だな」
「中に何かいるのかしら」
「たぶんね」
シュウゴが盾を構え直す。
「体力はどうだ?」
「俺は大丈夫です」
「私も」
「コトネも行けます!」
俺はコトネの顔を見た。息は落ち着いているように見えた。
「コトネ。無理そうになったら、ちゃんと言ってね」
「はいっ!」
四人で扉を押す。
向こうには、円形の広間が広がっていた。
床一面に、靴底が濡れる程度の黒い水が張っている。壁には大小の鏡が並び、天井の高いところまで光を反射していた。
広間の中央には、鏡を貼りつけた巨大な岩の塊がある。
それが、ゆっくりと動いた。
岩が軋み、太い腕が持ち上がる。
人間の三倍ほどの高さを持つ巨兵が立ち上がった。
《BOSS:鏡晶巨兵》
胸の奥で、赤い光が脈打っている。
「……初級の基準、やっぱり聞いておきたいな」
「後にしなさい!」
リンが叫んだ直後、巨兵の拳が振り上げられた。
「散れ!」
四人が左右へ飛ぶ。
拳が床に叩きつけられ、黒い水が跳ね上がった。
割れた硝子が雨のように散る。
俺は広間の左側へ着地した。シュウゴは中央で盾を構え、リンはその後ろ。コトネは右側にいる。
距離は十分だが、この配置を崩したら互いの援護が届かなくなる。
「シュウゴさん、正面を! リンはその後ろから援護! コトネはまだ待って!」
俺は左から焔銃剣を構えた。
巨兵の胸で赤い光が脈打っている。
いかにも弱点らしい。こういう分かりやすいものほど、まず確かめるに限る。
「穿て! 炎弾!」
炎弾が胸へ一直線に飛ぶ。
だが、赤い光へ届く直前、鏡の装甲がそれを弾いた。
火弾が斜め上へ跳ね、天井の鏡に赤い反射を残して消えた。
「……反射するのか」
巨兵の右腕が青白く光る。
次の瞬間、光の刃が俺へ飛んできた。
「タツヤ、左!」
リンの声で身を投げ出す。
光の刃がすぐ横の鏡へ当たり、角度を変えて戻ってきた。
「危ない! 氷盾!」
薄い氷の盾が俺の前に現れる。
光の刃が氷を砕き、勢いを失って床へ落ちた。
「助かった!」
「鏡に跳ね返るみたい。気をつけて!」
「了解!」
ただでさえ巨体なのに、部屋そのものまで武器にしてくるらしい。
巨兵が再び拳を振り下ろした。
「シュウゴさん!」
「止まれ。土壁!」
床下から岩が盛り上がり、巨兵の拳の進路へ斜めに壁を作った。
拳がぶつかり、土壁が砕ける。
だが、わずかに軌道がずれた。
シュウゴのすぐ脇を拳が通り過ぎる。
「……まともに受けるのは無理だな」
「ですね。逸らすだけで精一杯です!」
俺は巨兵の足元を見た。
水の下には岩盤がある。シュウゴの魔法が通るのは分かった。
問題は、攻撃を当てる場所だ。
鏡を正面から撃っても駄目だ。動くための継ぎ目なら、どうだ。
巨兵が一歩踏み出した。
その瞬間、右膝の裏側に黒い隙間が見えた。
もう一歩。
今度は左膝の裏が開く。
関節の隙間までは、鏡で覆いきれないらしい。
「リン、左足の着地点を凍らせられる?」
「できると思う!」
「シュウゴさん、右膝の外側を押してください! 巨体を傾けたい!」
「分かった」
俺はコトネを見る。
「コトネは右側で待機。俺があの赤い部分を露出させるから、トドメは任せた!」
「はいっ!」
リンが床へ杖を向けた。
「足元、見てる? 冷紋!」
巨兵の左足が踏み出される先で、水面が白く凍りついた。
巨兵がその氷を踏む。
つるりと足が滑り、上体が左へ傾く。
「突き上げろ。岩槍突!」
床下から岩の槍が伸び、右膝の外側を押し上げた。
巨兵が膝を折り、肩から床へ傾く。
引きつれた胸の鏡の間に、細い黒い継ぎ目が現れた。
「今だ!」
俺は左から走り込んだ。
「焔迅歩!」
炎の勢いを足に乗せ、一気に距離を詰める。
銃剣の刃を、露出した継ぎ目へ斜めに振り下ろした。
「割れろ! 焔牙斬!」
炎の牙が胸の装甲に食い込み、一本の亀裂を走らせた。
「よし!」
だが、赤い核までは届かない。
巨兵が膝を起こす。
俺が退こうとした瞬間、左腕が横から迫った。
「タツヤ!」
リンの声が聞こえる。
回避するには遅い。
俺は銃剣を横に構えた。
――ゴンッ!
重い衝撃が腕を突き抜ける。
身体が床を滑り、黒い水を跳ね上げながら柱の手前まで転がった。
「……っ、痛いな」
息を吸うと、胸がずきりとした。
骨は折れていない。……そういうことにしておきたい。
「タツヤ、大丈夫!?」
「何とか! ちょっと大きめの平手打ちをもらっただけ!」
「冗談言ってる場合じゃないでしょ!」
怒っている。
……心配をかけたのは俺だから、言い返せない。
巨兵の胸を見る。
亀裂は残っている。
また膝をつかせても、俺一人であの装甲を割り切る前に腕が来る。
そのとき、巨兵の胸の赤い光が強くなった。
壁の鏡が、順番に青白く点灯していく。
「……リン、壁!」
俺が叫ぶより早く、光の刃が放たれた。
壁で跳ねた光が、別の鏡へ移り、さらに折れ曲がる。
真正面から撃ったはずの刃が、いつの間にか背後から迫っていた。
「みんな、シュウゴさんへ!」
シュウゴが大盾を立てた。
「任せろ。岩砦!」
岩の壁が盾の左右にせり上がり、四人の前に短い防御陣地ができる。
光の刃が岩壁を削る。
一撃、二撃。
砕けた石が水面を叩いた。
コトネが俺の隣に滑り込んでくる。
「タツヤさん、大丈夫ですか!」
「うん。少し痛いけど、まだ動けるよ」
「よかった……」
返事をしたコトネが、すぐに膝へ手をついた。肩が小さく震えている。さっきの混戦から雷を使い続けていた。
「コトネ、無理なら――」
「大丈夫です!」
声は元気だ。でも、額に張りついた髪と浅い呼吸まではごまかせていない。
俺はもう一度、巨兵を見た。
鏡の攻撃が止み、赤い光が少し弱まる。
……ん?
胸の亀裂が、さっきより開いている。
赤い光が強くなるたび、亀裂が内側から押し広げられる。攻撃の直後、わずかに戻る。
……核が力を使う瞬間に装甲が緩むのか。
次の攻撃が来れば、確かめられる。
「シュウゴさん、もう一度だけ片膝をつかせられますか!」
「できる。ただ、同じ手は警戒されるだろう」
「ですよね」
巨兵がこちらを向く。
右足を引いて、拳を振り上げた。
さっきと同じ動き。
いや、違う。
狙いが、盾の正面より少し内側にずれている。
あれは盾を砕くためじゃない。壁ごと、後ろの俺たちを押し潰すつもりだ。
「全員、左へ!」
俺は叫んだ。
「シュウゴさん、受けずに逃げて!」
シュウゴが盾を引き抜き、岩壁の左端から離れる。
直後、巨兵の拳が防御陣地を叩き潰した。
岩が砕け、水が天井近くまで噴き上がる。
もし、あそこに残っていたら。
考えたくもない。
「……助かった」
シュウゴが短く言った。
「いえ。たまたま気づいただけです」
「その『たまたま』が大事なんだろう」
コトネを右側へ回し、シュウゴとリンには左の岩盤近くを取ってもらう。俺は二人より半歩前へ。
巨兵の足を見る。
拳を床へ叩きつけた反動で、右足に大きく体重が乗っている。
胸が前へ傾いた。核の赤い光が一段と強まり、さっき撃ち込んだ亀裂が広がる。
……やっぱり。攻撃の瞬間、鏡の装甲に隙ができる。
今なら、いける。
「リン! 右足だけ止めて!」
「――そこまで。霜縛!」
凍った霜が右足首へ絡みつく。
巨兵が足を抜こうとするが、ほんの一瞬だけ動きが止まった。
「シュウゴさん、左膝!」
「持ち上がれ。地脈隆起!」
床下の岩盤が盛り上がり、巨兵の左足を押し上げる。
右足は凍りつき、左足は持ち上がる。
体勢を崩した巨兵が、片膝をついた。
胸の亀裂が大きく開く。
今度は俺も無理に正面へ飛び込まない。
巨兵の左腕が届かない位置から、銃剣の銃口を亀裂へ向けた。
焔銃剣の銃口へ炎を絞る。
鏡が緩んだ一瞬を待って、引き金を引いた。
「炎弾!」
炎弾が亀裂へ入り、内側で弾ける。
ぱきん、と高い音がした。
胸の鏡が大きく割れる。
赤い核が、むき出しになった。
「見えた!」
俺は右側にいる少女を振り返った。
「コトネ!」
コトネが雷命刀を握り直す。
脚はまだ震えている。それでも、俺から目を逸らさなかった。
「……はい」
「行けそう?」
コトネは一度だけ、自分の足元を見た。
水面に、紫電が小さく走る。
「コトネ、ずっと……こんなふうに走ってみたかったんです」
さっきまでとは違う、静かな声だった。
「なら、もっと走ろう。俺たちが道を作る」
「……はいっ!」
点滴スタンドから生まれた刀。病院での日々を、俺はまだ知らない。
でも、走るのがどれほど嬉しいかは、あの笑顔を見れば分かる。
今日だけの自由には、したくなかった。
巨兵の胸が赤く輝いた。
装甲の破片が動き、核を隠そうとする。
「リン! 胸の周りを止めて!」
「任せて!」
リンが杖を高く掲げた。
「咲きなさい。氷華散撃!」
花弁のような氷片が広がり、核の周囲へ集まっていた鏡の破片を打ち据えた。
閉じかけた装甲が止まる。
巨兵の左腕が、コトネの進路を塞ぐように振り下ろされた。
「シュウゴさん!」
「止まれ。土壁!」
岩壁が腕の内側から突き上がる。
拳の軌道がわずかに外へずれ、コトネの前に道ができた。
だが、巨兵はまだ動ける。
右腕が持ち上がり、コトネへ伸びようとした。
「俺が止める!」
俺は巨兵の正面左側から、コトネへ伸びかけた右腕の下へ駆け込んだ。
銃剣の刃が炎をまとい、低く下がった肘の継ぎ目へ突き刺さる。
「焔刃!」
炎の刃が関節の隙間を焼き、腕の動きを一瞬鈍らせた。
「コトネ、今だ!」
コトネが小さく息を吸う。
右足を引き、雷命刀を低く構えた。
その姿を見て、俺は気づいた。
最初の戦いでは、見えた敵へそのまま飛び込んでいた。
今は違う。コトネは核だけを見ている。俺たちが作った道を確かめ、戻る先に一度だけ目をやった。
もう、ひとりで走っていない。
「コトネ、もっと走りたいです。明日も、その先も……みんなとずっと一緒に!」
紫電がコトネの足元へ集まる。
一瞬、広間が静かになった。
「無影雷閃!!」
――紫電が、走った。
コトネの姿が視界から消える。
黒い水面に紫の亀裂が走り、次の瞬間、その光は巨兵の胸を真横に貫いていた。
次に姿が見えたとき、コトネはもう巨兵の向こう側へ着地していた。
一拍遅れて、赤い核に一本の亀裂が走る。
その亀裂が、内側から一気に広がった。
鏡の鎧が割れる。
岩の身体が軋む。
巨兵は何かを掴もうとするように腕を伸ばし――そのまま、無数の光となって崩れ落ちた。
《BOSS:鏡晶巨兵撃破》
《硝子の回廊をクリアしました》
《ドロップアイテムを各メンバーの所持品へ収納しました》
《帰還用ゲートが開放されました》
広間の奥に、淡い青色のゲートが現れる。
誰も、すぐには動かなかった。
「……終わった?」
リンが呟いた。
「たぶん。二段階目が始まらないことを祈るよ」
俺は銃剣を下ろした。
コトネは巨兵の向こうで片膝をついている。
「コトネ!」
駆け寄ると、コトネが顔を上げた。
「……えへへ。どうでした?」
「すごかった。最後、全然見えなかったよ」
「本当ですか!」
「うん。あれはちょっと、速度違反かもしれない」
「ええっ!? コトネ、捕まっちゃうんですか!?」
「タツヤ!」
後ろからリンに睨まれた。
「……冗談です」
コトネがほっとしたように笑う。
けれど、立ち上がろうとした瞬間、膝が折れた。
「……あれ?」
倒れるより先に、シュウゴが身体を支えた。
「無理するな」
「ちょっとだけ、頑張りすぎちゃいました……」
「ちょっとには見えんがな」
シュウゴが膝をつき、コトネの顔を確かめる。
「痛むところは?」
「どこも痛くないです。脚がふにゃふにゃするだけで……」
「なら、しばらく休め」
コトネが小さく頷く。
シュウゴは少し間を置いてから、言った。
「……よくやった」
その一言で、コトネの顔がぱっと明るくなった。
「はいっ!」
リンもそばへしゃがむ。
「次は、倒した後もちゃんと歩けるくらいにしようね」
「はい! コトネ、もっと上手に戦います!」
俺は三人を見た。
シュウゴが盾で攻撃を逸らし、リンが足場と装甲を止め、コトネが核を貫いた。
俺も少しは仕事をした。……吹き飛ばされる役だけじゃなくてよかった。
誰か一人だったら、届かなかっただろう。
四人で勝ったんだ。
「……俺たち、結構いいチームですね」
思わず口にすると、シュウゴが頷いた。
「ああ。悪くない」
「そこは『最高だ』くらい言ってくれてもいいですよ」
「……調子に乗るな」
「ほらね」
リンが楽しそうに笑った。
「タツヤにはそれくらいでちょうどいいのよ」
「味方がいないなあ」
「いますよ!」
コトネが手を挙げた。
「コトネ、タツヤさんの味方です!」
「ありがとう。救われたよ」
「でも、リンお姉ちゃんの味方でもあります!」
「……うん。それが一番いい」
シュウゴまで小さく笑った。
◇ ◇ ◇
帰還用ゲートを抜けると、俺たちは梅田地下の駐車場に戻っていた。
壁にあった扉は消え、いつものコンクリートだけが残っている。
武器をしまい、地下街へ向かう。
コトネはシュウゴに肩を貸してもらい、ゆっくり歩いていた。リンはその隣で、何度もコトネの顔を覗き込んでいる。
「……今日も、ちゃんと帰ってこられたね」
リンが俺の袖を軽くつまんだ。
「約束したからね」
「ふふ。次もよろしく」
「もちろん。でも次は、もう少し穏やかな場所がいいな」
「例えば?」
「工具売り場とか」
「……どうしてそうなるのよ」
「見てるだけで落ち着くんだよ」
「私は別の場所がいい」
即答だった。
そのとき、前を歩くコトネが振り返る。
「あの、コトネ、お願いがあるんですけど……」
「ん? どうしたの?」
「ケーキが食べたいです!」
リンが目を丸くした。
「さっきまで立てなかったのに、大丈夫?」
「はいっ! いっぱい頑張ったら、甘いものが食べたくなっちゃいました!」
「何のケーキが食べたいの?」
「チーズケーキです!」
「もう決めてるんだ」
「えへへ。ダンジョン入る前からずっと食べたかったんです!」
リンがコトネの髪をそっと撫でた。
「じゃあ、いつものカフェに行きましょうか」
「やったー!」
コトネが一歩だけ速く歩いて、すぐにふらついた。
シュウゴが慌てずに支える。
「……走るな。今は歩け」
「はーい!」
「でも、座ってケーキを食べるくらいならいいでしょう?」
俺が聞くと、シュウゴは小さく息を吐いた。
「……それなら構わん」
「よかったね、コトネ」
「はいっ!」
少女が笑い、リンも笑った。
少し後ろから三人を見る。
つい昨日まで、隣を歩いていたのはリンだけだった。今日は四人分の足音がある。
誰がこの世界を作ったのか、まだ何も分からない。
でも、一人じゃ届かなかった場所へ、四人なら行けるかもしれない。
「タツヤ?」
リンが振り返った。
「また考えごと?」
「いや。四人って、いいなと思って」
リンは少しだけ驚いた顔をして、それから柔らかく笑った。
「……そうね。私もそう思う」
前では、コトネがシュウゴにチーズケーキの話をしている。
せめて明日、誰と歩くかくらいは、俺たちで決めたい。
俺は三人の背中を追い、カフェ《Keybell》の灯りへ向かった。
――第6話 完――




