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ACROSS  作者: ☆あんパンまん☆
第二章 広がる家
95/266

ep.95 届いた合図


 『確認――完了』が初めて表示されてから一週間、優也と真琴は、その変化を確かめるためだけにACROSSへ乗り込むことはしなかった。真琴が見ているあいだは『確認――待機』が残り、視線を外せば消え、もう一度条件を整えたときには、真琴が画面を見たあとで『確認――完了』へ変わった。三回の結果だけを見れば、共有された情報が受け手へ届いたかどうかを、何らかの形で扱っているように見える。


 ただし、それを「真琴が見たことをACROSSが理解した」と呼ぶには早い。二人ともそこは崩さなかった。


 土曜の午前、優也はACROSSの後部収納から折りたたみ式の電動アシスト自転車を引き出し、ガレージの前で空気圧を確認していた。気温は少し下がっており、夏の名残はあるものの、外で作業していても汗が止まらなくなるほどではない。


 真琴が到着したのは、その作業を終えた頃だった。


「おはようございます。今日は自転車ですか?」


「おはよう。乗るんやなくて、しばらく触ってへんから見といただけ。前に空気入れた時から結構経ってるし」


「じゃあ、今日は出掛けないんですか?」


「昼からちょっとだけ走るつもり。近場のスーパー寄って、川沿いまで行って帰るくらい。買い足したい物もあるしな」


 優也は自転車を収納へ戻しながら答えた。真琴も手伝おうとしたが、重いものではないので「大丈夫」と断り、その代わりに後部ハッチを閉めてもらう。こうした役割分担も、今ではいちいち相談するほどのことではなくなっていた。


 車内へ入ると、真琴はキッチン脇へ持ってきた小さな紙袋を置いた。


「何それ?」


 優也が紙袋を覗き込むと、真琴は中身を少し持ち上げて見せた。


「パンです。近くの店で新しいのが出てたので。半分は甘いやつですけど、優也さん、甘くないのも欲しいって前に言ってたでしょう」


「覚えてたんや。そこまで言うたこと自体、俺ちょっと忘れてたわ」


「それくらいは覚えてます」


 袋の中には総菜パンと小さな菓子パンが二つずつ入っていた。優也は冷蔵庫から飲み物を出し、昼食には少し早いので、ひとまずコーヒーだけ淹れることにした。


 テーブルへ座っても、二人はすぐに前回の話を始めなかった。仕事のことや、次に泊まりで出るならどこへ行くか、最近スーパーで値上がりしていた物のことまで、取り留めのない話が続く。以前なら、何か新しい現象が起きた翌週には、それだけで頭がいっぱいになっていたはずだが、今は少し違っていた。


 変化が起きても、それだけを追わず、必要なときに確認して、終われば普通に使う。そんな繰り返しが、二人の間ではもう自然になっていた。


          ◇


 昼前、優也は総菜パンを温め、真琴は持ってきたサラダを分けた。食べ終わる頃になって、ようやく真琴がノートを取り出した。


「前回の『確認――待機』と『確認――完了』ですけど、今日は一回だけ再現を見たいです」


「俺もそれくらいは思ってた。条件は前と同じ?」


「できるだけ。運転席で、私は助手席。スマートフォンはリビングに置いたまま。優也さんはACROSS全体を《鑑定》して、私にも同じものを見せたいとだけ意識する。追加表示が出なければ、今日はそれで終わりです」


「出たら、前と同じように最初は真琴が画面を見んと待つ。そのあと見て、変わるか確認する感じ?」


「はい。それで十分です。余計な条件は増やさないでくださいね」


「了解。そこまで念押しされると信用ないみたいやけど、今日は大人しくしとくわ」


「信用してるから先に言ってるんです」


 優也は笑いながら立ち上がった。


 運転席へ移る前に、二人はスマートフォンをリビングのテーブルへ置き、外部撮影用の端末だけを運転席の後方へ固定した。前回は自然に起きた現象だったため、映像として残っていない部分も多かったが、今回は再現確認なので記録を優先する。


 真琴は助手席へ座ると、最初からサイドウインドウのほうへ顔を向けた。


「見ません。出たら教えてください」


「了解」


 優也は一度呼吸を整え、ACROSS全体を意識した。


『鑑定』


 内側へ六行が現れる。


『対象――ACROSS』

『空間状態――安定』

『追加空間――維持』

『外部寸法――変化なし』

『接続状態――安定』

『魔素反応――微弱』


 数秒遅れて、運転席のモニターにも同じ六行が表示された。


 その下へ、白い一行が加わる。


『確認――待機』


「出たで。前と同じ」


「私はまだ見ません。十秒待ってください」


 優也は画面から目を離さず、心の中でゆっくり数えた。十秒を過ぎても『確認――待機』は残っている。十五秒を越えたところで、真琴へ声を掛けた。


「まだ出てる」


「じゃあ見ます」


 真琴が正面へ向き直り、モニターを見た。


 一秒、二秒。


 追加行が変わる。


『確認――完了』


 前回と同じだった。


 表示は数秒残ったあと、六行と一緒に薄くなり、通常の車両画面へ戻る。真琴はすぐには喋らず、固定していた端末の録画状態だけ確認した。


「残ってます。今回は待機から完了まで全部撮れています」


「これで再現二回目やな」


「はい。ただ、まだ『視線を検知した』とまでは言えません。私が正面を向いたことで、姿勢や顔の向きが変わった可能性もありますし、もっと単純に時間差だった可能性も完全には消えていません」


「でも、見んかったら十五秒残ってて、見たら二秒で変わったで」


「そこは強いです。だから“受け手の状態に連動している可能性が高い”までは上げていいと思います」


 真琴は慎重だったが、前回より少しだけ迷いが減っていた。優也もそれ以上押さず、運転席を離れた。


 今日の確認は一度で終わりと決めていたので、二人はそこで区切り、そのまま買い物へ出る準備を始めた。


          ◇


 午後、ACROSSは市街地を抜け、郊外の大型スーパーへ向かった。


 買う物は大したものではない。飲み物、保存の利く食品、キッチンペーパー、車内で使う小物。優也がカートを押し、真琴が必要な物を見つけるたびに籠へ入れていく。ACROSSの設備が増えたからといって、日常の補充まで消えるわけではない。


「これ、予備もう一個ありましたよね?」


 真琴が洗剤を手に取って聞く。


「たぶんある。けど半分くらい使ってた気する」


「じゃあ今日はやめておきます?」


「いや、腐るもんちゃうし買っとこ。前に切らしてコンビニで高いの買ったし」


「そういうのは覚えてるんですね」


「痛い出費は覚える」


 真琴が笑い、洗剤をカートへ入れた。


 会計を済ませ、荷物を車内へ運び込む。玄関内側の余白には、買った物を一時的に置くのにちょうどいいだけの広さがある。以前ならそのまま床へ置いていたかもしれないが、今は自然にそこを使うようになっていた。


 優也が冷蔵品を片付けているあいだ、真琴は玄関側で日用品を仕分ける。


「ここ、本当に便利になりましたね」


「固定せんかったの正解やったな。買い物の時も使えるし、人来た時も荷物置けるし」


「追加表示が『一時保管・受渡』って出したのも、今ならかなり分かります」


「せやけど、今日は見んで」


「分かってます」


 その返事があまりに早く、優也は笑った。


 片付けを終えると、そのまま川沿いの広い駐車場まで走った。特別な観光地ではないが、河川敷に遊歩道があり、天気のいい日は散歩する人や自転車が多い。ACROSSを大型車区画へ停め、二人はしばらく外を歩くことにした。


 風は少し冷たく、歩くにはちょうどいい。


「こういうとこ、前より来るようになりましたね」


 真琴が川を見ながら言った。


「前は目的地ないと出掛ける意味ないと思ってたからな。今は走るだけでもええかなって」


「ACROSS買った意味、ちゃんと使ってますね」


「最初はもっと派手に旅行しまくるつもりやったけどな。毎回温泉とか観光地とか」


「それはそれで行けばいいと思います。でも、こういう日もあるから長く使えるんじゃないですか?」


「確かに。毎週旅行やったら疲れるわ」


 二人は笑い、しばらく川沿いを歩いた。


 ACROSSの変化や《鑑定》のことを考えない時間が、以前より大事になっていた。何か起きるたびに追いかけていた頃は、使うことより調べることが前に出る日もあった。今は、普通に出掛けた結果として確認できるものだけ拾えばいいと思える。


 そのほうが、ACROSSが何のためにあるのかを忘れずに済む。


          ◇


 ガレージへ戻ったのは夕方だった。


 買い物の残りを収納し、優也はキッチンで湯を沸かした。真琴はソファへ座り、午前中に撮った動画を見返している。


「待機、十五秒以上残ってますね」


「俺も見てた。前より長かった」


「そのあと私が正面を向いて、二秒くらいで完了。時間だけで変わるなら、少し不自然です」


「やっと真琴も強めに言うようになったな」


「強めと言っても、“視認に連動している可能性が高い”です。“私を認識している”ではありません」


「そこは分かってる」


 優也は二人分のコーヒーを置き、自分も向かいへ座った。


 真琴はノートへ今日の結果を書き足した。


『再現――成功』

『受け手非視認中「確認――待機」継続』

『受け手視認後「確認――完了」へ変化』

『映像記録あり』

『受け手状態との連動可能性――高』


 そこまで書いてから、ペンを止める。


「次に見るなら、視線以外でも“受け取った”と扱うかどうかですね」


 優也はコーヒーを飲みながら首を傾げた。


「視線以外?」


「例えば、画面を見ずに声だけ出すとか。ただ、それを今日やる必要はないです。むしろ、そこから先は条件を作りすぎると、何に反応したのか分かりにくくなります」


「声か」


「考えただけです。試すとは言ってません」


「分かってる。でも、もし声で変わったら結構でかいよな。見たかどうかやなくて、“届いたで”って言うたのを拾うことになるし」


「そう見える可能性はあります。ただ、音そのものに反応しているだけかもしれません。だから仮にやるなら、言葉の内容を変えたり、意味のない音と比べたりする必要が出ます」


「研究っぽくなってきたなあ」


「最初から研究してます」


「いや、前はもっと俺が試して真琴が止めてた感じやったやん」


「今もそんなに変わってません」


 優也が笑い、真琴もつられて笑った。


 その時、リビングのテーブルに置いた優也のスマートフォンが一瞬だけ暗くなり、二人とも同時に笑うのをやめた。画面にはまだ何も表示されていない。


「今、暗くなった?」


「なりました。触ってないですよね?」


「触ってへん」


 真琴は手を伸ばしかけたところで止まり、「そのままで見ましょう」と姿勢を戻した。優也も頷き、二人は触れずに画面を見守った。


 数秒後、スマートフォンに《鑑定》の通常結果ではない白い一行が現れた。


『確認――待機』


 優也は思わず真琴を見る。


「鑑定してへんで」


「分かってます。私も何もしてません」


 表示は消えない。


 午前中は、優也が《鑑定》を使ったあと、運転席モニターへ六行が出て、その下に追加された。今は六行がない。スマートフォンに、いきなり『確認――待機』だけが表示されている。


「これ、何の確認や」


「分かりません。触らないでください」


「見てるけど、完了にならへんな」


「私も見ています。なら、少なくとも午前中と同じ“表示を見たかどうか”だけではなさそうです」


 二人は黙って待ったが、十秒を過ぎても、二十秒を過ぎても『確認――待機』は消えず、そのまま画面に残っている。


 優也は少し身を乗り出した。


「なあ、これ……さっき声の話してた時に出たよな」


「はい。でも、それだけで関係があるとは――」


「分かってる。偶然かもしれん。でも、待機のままやで」


 真琴はスマートフォンを見たまま、考えている。


「今日はこれ以上試さない予定でした」


「うん」


「ただ、今の表示は私たちが条件を作って出したものじゃありません」


「うん」


「……一度だけ、自然な範囲で確認してもいいかもしれません」


「何する?」


 真琴は少し迷い、優也ではなく画面へ向かって、普段の声量で言った。


「見えています」


 五秒ほど待っても何も起きず、表示は『確認――待機』のままだった。


「変わらへんな」


「はい。声を出しただけでは変化なし」


 真琴はすぐにノートへ手を伸ばさず、そのまま続けた。


「次は優也さんが、何か普通のことを言ってください。画面に向けなくていいです」


「普通のことって何やねん」


「何でも。今日の買い物の話でも」


 優也は少し考え、スマートフォンから目を外してキッチンのほうを見た。


「キッチンペーパー、上の収納に入れたで」


 表示は変わらない。真琴は少し考え、「次は意味のない音を一回だけ」と提案した。優也は「そこまでやる?」と苦笑しながらも短く「あー」と声を出したが、それでも画面には何の変化もなかった。


 真琴は小さく息を吐いた。


「少なくとも、音が入れば何でも反応するわけではなさそうです」


「ほな何待ってるんやろ」


 優也は再びスマートフォンを見る。


 『確認――待機』


 その文字が、妙に長く残っている。


 午前中の表示とは違い、二人が見ても変わらず、声を出しても変わらない。何を確認しようとしているのか、今の二人には見当もつかなかった。


 優也はしばらく画面を見たあと、ふと笑った。


「何か、こっちが勝手に難しくしてる気するな」


「どういう意味ですか?」


「午前中は、真琴が見たら完了したやろ。今は俺ら二人とも見てるのに終わらん。じゃあ、見たかどうか以外の確認なんちゃう?」


「それはそうかもしれません。でも、何を――」


「さっき俺ら、声で届いたって返せるかみたいな話してたやん」


 真琴が黙った。


 優也は画面へ向かって問い掛けるような言い方はせず、いつもの調子で続けた。


「もし、これが“届いたか”待ってるだけやったら……届いてるで。ちゃんと見えてる」


 表示は変わらない。


 優也は肩をすくめた。


「ほら、ちゃうかった」


「待ってください」


 真琴が言った。


 白い文字の下に、ごく細い線が現れている。


 以前、何かが表示される直前に何度か見たものと同じだった。


 二人とも動かない。


 線は数秒だけ残り、ゆっくり文字の形へ変わった。


『受領――確認』


 『確認――待機』の下。


 二行目として現れた。


 優也の表情から笑みが消えた。


「……受領?」


「はい」


「俺、鑑定してへん」


「分かってます」


「真琴、今なんかした?」


「何も」


 二人の声が自然に低くなる。


 表示は二行のまま残っている。


『確認――待機』

『受領――確認』


 その組み合わせだけでは、何を意味しているのか断定できない。けれど、『受領』という言葉が、優也の「届いてる」という発言のあとに出たことは無視しにくかった。


 真琴はすぐに結論を出さなかった。


「まず時間を見ます。今の発言から表示まで、動画で確認できます」


「撮れてる?」


「午前中の確認から、スマートフォン側は継続で録画しています。念のため止めてません」


「助かった」


「まだ喜ばないでください」


「分かってる。さすがにこれは俺も慎重になるわ」


 真琴は頷いた。


 その間にも表示は残っている。


 さらに数秒後、『確認――待機』だけが薄くなり、先に消えた。


『受領――確認』


 残った一行も、少し遅れて消える。


 スマートフォンは通常のホーム画面へ戻った。


 二人はしばらく何も言わなかった。


          ◇


 録画を確認すると、順番ははっきり残っていた。


 スマートフォンに『確認――待機』が表示されてから、真琴が「見えています」と言う。変化なし。優也が買い物の話をする。変化なし。意味のない声を出す。変化なし。


 そのあと、優也が「届いてるで。ちゃんと見えてる」と言った。


 約三秒後、細い白線。


 さらに二秒ほどして、


『受領――確認』


 が追加されている。


「タイミングだけ見れば、かなり近いですね」


 真琴は動画を何度も戻さず、一度通して確認したところで止めた。


「でも、まだ“言葉の意味を理解した”とは言えません。たまたまそのタイミングで別の状態変化が起きた可能性は残っています」


「うん。けど、真琴の『見えています』では何も出んかった。俺のどうでもいい話でも出んかった。『あー』でも出んかった。で、“届いてる”のあとに『受領――確認』やろ」


「そこが強いです。もし再現するなら、次は言い回しを変える必要があります。同じ『届いてる』という音に反応しただけなのか、意味の近い別の言葉でも反応するのか。それから、誰が言っても同じなのか」


「真琴が『受け取った』とか言う?」


「例えば。でも今日はやりません」


「俺も今日はええわ」


 優也は即答した。


 真琴が少し意外そうに見る。


「珍しいですね」


「いや、これは続けたらあかん気する。今までみたいに、もう一回もう一回ってやったら、何か無理やり答えさせてる感じになるやん」


 言ってから、優也自身が少し驚いた。


 相手がいると決めたわけではない。


 返事が来たとも思っていない。


 それでも、「無理やり答えさせる」という言葉が自然に出た。


 真琴もそこを指摘しなかった。


「私も今日は止めたほうがいいと思います。現象としては、十分大きいです。再現確認は必要ですけど、今すぐである必要はありません」


「記録はどう書く?」


「かなり慎重に書きます」


 真琴はノートを開き、ゆっくりと書いた。


『《鑑定》未使用時、スマートフォンへ「確認――待機」が単独表示』

『受け手二名が視認しても状態変化なし』

『無関係な発話・単純音声に反応なし』

『優也発話「届いてるで。ちゃんと見えてる」後、数秒で「受領――確認」追加』

『音声内容との因果関係――未確定』

『意味理解・応答と断定しない』

『発話内容と表示変化の関連可能性あり』


 最後の一行を書いて、真琴はペンを止めた。


「今書けるのはここまでです」


「十分やろ」


「はい。むしろ、この先は一つずつ分けないと危ないです。音声に反応しているのか、言葉の意味に反応しているのか、優也さんの意図に反応しているのか、それとも発話とは関係なく、別の条件がたまたま重なっただけなのか」


「俺の意図って?」


「優也さんが“届いたと伝えよう”と思ったことです。声そのものではなく、その意識を《鑑定》側かACROSS側が拾った可能性もあります」


「それやったら、声出さんでも同じこと思えば出るかもしれん?」


「可能性としては。でも、それも今は試しません」


「はい先生」


 優也は笑ったが、いつもの軽さだけではなかった。


 『受領――確認』


 その二文字の組み合わせが、頭に残っている。


 受け取った、確認した――言葉だけならそう読めるが、誰が何を受け取ったのかは分からない。


 それでも、ただの状態表示として片付けるには、出たタイミングがあまりに合いすぎていた。


          ◇


 夕方になっても、二人はすぐに帰らなかった。


 新しい確認をするためではない。


 むしろ、少し時間を置きたかった。


 優也はキッチンで夕食を作り、真琴はリビングのテーブルに広げていたノートや端末を片付ける。今日は買い物をしたので、冷蔵庫には使える食材が増えている。豚肉と野菜を炒め、簡単なスープを作り、炊いてあったご飯を温めた。


「さっきのあとに普通に晩飯作ってると、何か現実戻るな」


 優也が皿を並べながら言う。


「戻るというより、ずっと現実ですよ。変なことが起きても、お腹は空きます」


「前も似たこと言うたな」


「そうでした?」


「たぶん。最近こういうの増えたからな」


 二人は向かい合って食べ始めた。


 しばらくは味の話や、今日買った物をどこへ収納するかといった普通の会話が続いた。あえて避けているわけではない。むしろ、一度記録した以上、食事中まで同じ話を繰り返す必要がなかった。


 半分ほど食べたところで、真琴が箸を置いた。


「優也さん」


「ん?」


「今日の表示、怖くないですか?」


 優也は少し考えた。


「怖くないって言ったら嘘やな。でも、前みたいな怖さではないかも」


「前?」


「最初に勝手な一行出た時。あの時は、何か知らんもんが急にこっちへ出てきた感じあったやん。今は……何やろ。こっちがずっと見てきた流れの続きに見える」


「共有が成立して、使い方の記録が出て、見る場所が変わって、受け取ったかどうかまで表示されるようになった。その延長に、今日の『受領――確認』がある?」


「うん。いきなり知らん声がしたとかやったら怖いけど、今までの続きやから、驚くけど逃げたい感じではない」


 真琴は静かに頷いた。


「私も近いです。ただ、今日から少し注意したいです」


「何を?」


「私たちが、表示を“意思”として扱い始めないことです。意味が合う表示が増えるほど、そう見えやすくなります。特に今日みたいに、こちらの発言と近い内容が出ると」


「分かる。何でも返事に見え始めたら終わりやもんな」


「はい。だから、次に何か出ても、まず状態表示として説明できないかを見る。そのうえで再現する。今までと同じです」


「ただし、無理に再現させない」


「それも大事です」


 優也は味噌汁を飲み、少し笑った。


「何か俺ら、ACROSSに気遣い始めてない?」


「今の言い方だと完全に相手扱いです」


「せやな」


「でも、壊したくない現象を扱うときに、条件を乱しすぎないという意味なら、研究としても普通です」


「先生、うまいこと戻したな」


「戻さないと優也さんがすぐ人格つけるので」


 二人は笑った。


 こうして冗談を挟める余裕が残っているうちは、二人ともまだ変化だけに引きずられずに済んでいた。


          ◇


 食後、真琴は帰る前に今日の記録をもう一度確認した。


 午前中の『確認――待機』から『確認――完了』への再現。


 午後、何もしていないスマートフォンへ突然出た『確認――待機』。


 そして、優也の発言後に追加された『受領――確認』。


 同じ一日で起きたため、どうしても一本の流れに見えてしまう。けれど、真琴はノートの最後に、あえて線を引いて分けた。


「午前と午後は別現象として残します」


「つながってるかもしれんのに?」


「つながっている可能性はあります。でも、最初から一つの仕組みだと決めると、あとで違った時に全部崩れるので。午前は“表示を見た状態との連動”。午後は“発話または意図との関連が疑われる追加表示”。今は分けます」


「なるほど」


「次に同じことが起きたら、そこで初めて線をつなげればいいです」


 優也はノートを覗き込みながら頷いた。


 真琴の字で書かれた記録は、最初の頃よりかなり増えている。それでも、余白は残されていた。分からないことを分からないまま置いておくための余白だった。


「次、いつ試す?」


「決めません」


「やっぱり?」


「普通に使って、同じような表示が出たら確認します。今日の『確認――待機』も、私たちが出そうとして出したわけではありませんでした。それなら次も、無理に呼び出さないほうが条件としてはきれいです」


「了解。俺もそのほうがええ気する」


「珍しく素直ですね」


「今日二回目やで、それ言われるの」


「前にも言いました?」


「たぶん」


「覚えてないです」


「ひど」


 真琴が笑い、ノートを閉じた。


 玄関へ向かい、靴を履く。


「じゃあ、今日は本当に何もしないでくださいね」


「せえへんって。さっき自分で止めたやろ」


「それでも念押しです」


「はいはい」


 真琴は扉を開ける前に、一度だけリビングのテーブルを見た。優也のスマートフォンは、何事もなかったように充電器の横へ置かれている。


「……でも、少しだけ楽しみではあります」


 優也は目を丸くした。


「真琴が言うんや、それ」


「少しくらいは。怖いだけなら、ここまで続けてません」


「そらそうか」


「ただし、急がないです」


「分かってる」


 二人はそこで笑い、真琴は帰っていった。


          ◇


 一人になった車内で、優也はいつもの片付けを始めた。


 食器を洗い、使った調理器具を戻し、買い物で増えた日用品の位置を確認する。玄関内側の余白には何も残っていない。予備室も、リビングも、主寝室も、見た目はいつもと変わらなかった。


 最後にテーブルへ戻り、スマートフォンを手に取る。ホーム画面はいつもどおりで、履歴を見ても見覚えのないアプリが動いた形跡はなく、通知にも何も残っていない。優也は《鑑定》を使わず、声も掛けないまま、今日出た二つの文字だけを思い返した。


『確認――待機』


『受領――確認』


 意味を決めるにも、向こうに相手がいると考えるにも早い。真琴の言うとおり、表示がこちらの発言を理解しているとは限らず、優也の意図を拾っただけかもしれないし、別の条件が重なっただけかもしれなかった。


 それでも、以前とは違っていた。最初は優也の中にあるものを真琴へ見せたいだけで、外へ出た情報も同じ内容を複製するだけでよかった。そこへ使われ方の記録らしきものが加わり、真琴が見える場所へ表示先が変わり、ついには真琴が見たあとで『確認――完了』へ変化するようになった。そして今日、何も出していないのに『確認――待機』が現れ、優也が「届いてる」と口にしたあとには『受領――確認』まで追加された。


 もし全部が同じ流れの上にあるなら、共有は少しずつ形を変えている。最初はただ「見せる」だけだったものが、「届く」、そして「受け取られる」という段階まで進んだようにも見えたが、その次に何があるのかはまだ分からない。


 優也はスマートフォンを伏せ、ソファへ背を預けた。


「……急がんでええか」


 誰かへ言ったわけではない。


 自分に言い聞かせるような独り言だった。


 返事はなく、画面も光らなかったが、それでよかった。


 もし今日の『受領――確認』が本当にこちらの言葉と関係しているのなら、次はまた、必要になったときに現れるかもしれない。関係がないのなら、再現しないまま終わる可能性もある。


 どちらでも、今すぐ答えを出す必要はなかった。


 優也は立ち上がり、運転席と主寝室のモニターが暗いままであることを横目に、照明を一つずつ落としていく。玄関へ向かう途中、いつもの癖のように車内を振り返って「ほな、またな」と声を掛けたが、もちろん返事はなく、そのまま扉を開けた。


 だが外へ出る直前、リビングのテーブルに伏せたスマートフォンが、ごく短く白く光った。


 優也は足を止めて振り返った。画面はもう暗く、近づいて確認しようとして一歩だけ戻りかけたところで、その足も止めた。


「……今日は終わりや」


 優也は小さく笑ってそのまま車外へ降り、扉を閉めて鍵を掛ける。ガレージの中には、いつもの静けさが戻った。


 確かめれば何かが残っていたかもしれないし、何もなかったかもしれない。けれど今夜の優也には、それを追いかける必要がなかった。


 届いたかどうかを確かめるだけだった共有は、少しずつ、こちらから返す合図まで拾い始めているように見える。


 まだ声ではなく、会話とも呼べない。それでも、ただ表示するだけだったものの向こう側に、こちらから返した合図まで届く可能性が初めて残った。


 優也はガレージの照明を消し、ACROSSを暗闇の中へ残した。


 次に確かめるべきなのは、何を言えば返ってくるかではなく、こちらが返した合図を本当に受け取っているのかという一点だけで十分だった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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