ep.86 使ってきた形
その次の休日、優也がガレージへ着くと、ACROSSの右側玄関はすでに開いていた。車内からは湯の沸く小さな音が聞こえ、靴を脱いで上がれば、真琴がキッチンで二つのマグカップを並べている。予備の鍵を渡してから、こうして真琴が先に来ていることも珍しくなくなった。
「おはようございます。コーヒーでいいですか?」
「おはよう。ええよ。……何か、完全に先越された感じするな」
「何を競ってるんですか。鍵を渡したの、優也さんでしょう?」
「分かってるけどな。俺の車やのに、俺より先に中で普通におるから、まだちょっと変な感じする」
そう言いながらも、優也は嫌そうではなかった。
ACROSSがまだGRANZとしか呼ばれていなかった頃、自分がいない車内に誰かが先に入っていて、当たり前のように飲み物を用意している光景など想像もしなかった。今は真琴の靴が玄関脇に置かれ、キッチンには彼女が選んだ茶葉があり、予備室には仕事用の折りたたみテーブルを出すこともある。本人たちはまだ関係へはっきりした名前を付けていないのに、生活のほうが先に少しずつ形を作り、その形に二人が馴染み始めていた。
コーヒーを受け取りながら、優也が今日の予定を聞くと、真琴はすぐ実験を始めるつもりはないらしく、冷蔵庫の中身が思ったより減っていたので、まず買い物へ行こうと提案した。ACROSSを動かすほどの距離でもないため、二人はそのまま歩いて近所のスーパーへ向かい、野菜や肉、卵、飲み物を籠へ入れていく。
途中、真琴が少し高めのプリンを二つ見つけて迷わず入れたので、優也は値札を見て笑った。
「昼飯よりデザートのほうが気合い入ってへん?」
「たまにはいいじゃないですか。優也さんも食べるでしょう?」
「食べる。俺、こういうとこだけ真琴に甘いよな」
「自覚あるんですね」
「あるある。自分の分も入ってるから、結局俺も得してるけど」
大した話ではなかったが、優也には、こういう時間が以前よりずっと自然になったことのほうが印象に残った。
買い物袋を持ってACROSSへ戻ると、二人は玄関内側にできた小さな余白へ、いったん袋を置いた。朝まで降っていた雨のせいで路面が湿っており、持って出た傘の先にも少し水が残っているため、それも端へ寄せる。靴を脱いでから優也が荷物を持ち上げようとしたところで、何となくその場所を見回した。
「やっぱり、ここ使うようになったな」
「そうですね。最初は何に使うか決まってなかったのに、自然に一時置き場になってますし、それだけじゃなくて、前は待ってもらうときにも使いましたし、充電した機器の受け渡しにも使いました」
「棚でも付けて完成させたほうが便利かなって思ったことあったけど、固定せんかったから使えた場面も結構あるな」
「そう思います。便利にすることと、用途を決めてしまうことは同じじゃないですから」
前回の『可変性――維持』という表示が優也の頭をよぎったものの、二人はそこで《鑑定》を使わなかった。今その話をした直後に確認すれば、自分たちの考えや期待が条件へ混ざりすぎる。最近の二人は、何かが出ることより、出たときに何が違っていたかを見逃さないほうを重視するようになっていた。
◇
昼は簡単な焼きうどんにした。
真琴が野菜を切り、優也がフライパンを担当する。料理そのものは真琴のほうが上手いが、一人暮らしの長かった優也も、食べるための料理ならそれなりにこなせる。ソースを追加しようとしたところで、隣から覗いた真琴に「もう十分だと思います」と止められ、優也は手を止めた。
「やっぱり?」
「さっきも同じくらい入れてましたよ。これ以上やると濃くなります」
「見てたんかい」
「隣にいますから。研究じゃなくても、そのくらいは見えます」
結局、そのまま仕上げた焼きうどんはちょうどよく、食後には例のプリンまできっちり食べた。
片付けを終えてから、ようやく二人はリビングのテーブルへノートとスマートフォンを出した。前回までに確認できた追加表示を並べると、『共有――成立』『使用――継続』『可変性――維持』『可変運用――継続』の四つになる。
最初の一つは、鑑定結果の共有が初めて成立した直後に現れたもの。残る三つは、ACROSSが後から作った追加空間に関係していた。中でも前回の二つは、優也が予備室の使い方をどうするか考えていたときだけ現れ、真琴が声で質問しただけでは何も出なかった。
「今日は、昨日から一つ試したいことがあります」
真琴がノートを開きながら言った。
「追加表示が、優也さんが今考えていることだけじゃなくて、私たちがこれまで実際にどう使ってきたかにも関係しているか、見てみたいです。予備室の『使用――継続』もそうですし、玄関の余白も、用途未設定のままなのに何度か違う使い方をしていますよね」
「今の状態だけじゃなく、使った履歴を見るってこと?」
「そうです。もし《鑑定》の整理が、現在の設備状態だけじゃなく、積み重なった使われ方まで拾い始めているなら、今までとは少し違う表示になるかもしれません。ただ、さっき玄関で『使うようになった』って話をしたばかりなので、あそこは後回しにしましょう」
「ほな、別の場所からやな」
最初に選んだのはキッチンだった。
ここは納車時から存在する、普通の設備である。追加空間ではないが、二人で何度も使っており、単純な使用回数だけなら予備室より多い。
「これで何か出るなら、“よく使う場所だから”という可能性も残りますし、何も出なければ追加空間との差を見る材料になります」
優也はキッチン全体へ意識を向け、特に答えを求めず、ただ現在の状態を知るつもりで《鑑定》を使った。
『設備状態――正常』
『給水――正常』
『排水――正常』
『電力供給――正常』
『使用可能』
同じ内容がスマートフォンにも現れ、そのまま消える。追加表示はなかった。
続けてシャワー室、トイレ、冷蔵庫も試したが、どれも通常の鑑定結果が共有されるだけで終わった。そこで優也が「今のところ、ACROSSが後から増やした場所だけ怪しいな」と言うと、真琴も否定せず、次は予備室を見ようと提案した。
「ただし、最初は何に使ったか考えないでください。今ある状態だけを見るつもりで」
「了解。何も考えんなって言われると余計考えそうやけど」
「完全に空っぽにする必要はありません。用途を思い出そうとしなければ大丈夫です」
予備室へ移り、優也は室内を眺めた。折りたたみテーブルは壁際に寄せられ、必要なときだけ出す寝具も収納されている。今は誰も仕事をしておらず、泊まってもいない。
『鑑定』
『追加空間――維持』
『用途――可変』
『接続状態――安定』
『魔素反応――微弱』
四行だけがスマートフォンにも現れ、そのまま消えた。
「今回は何も足されへんな」
「はい。少なくとも、追加空間だから自動的に一行増えるわけではないですね。次は時間を置いて、今までここで実際に何をしたかだけ思い出してみましょう。質問はしません」
二人はいったんリビングへ戻り、実験とは関係のない話をしながら三十分ほど過ごした。
◇
真琴が研究室で試料の保存条件を一つ取り違え、途中で気付いて一部だけやり直したという話をすると、優也は「真琴でもそういうミスあるんやな」と妙に感心したような顔をした。
「ありますよ。だから記録を残すんです。人間は普通に間違えますから」
「何か今日のテーマにつながってへん?」
「つながってません。これは私の単純なミスです」
「そこは普通に認めるんやな」
「認めないと同じことを繰り返します」
そんな話をしているうちに、二人の意識も少し実験から離れた。
再び予備室へ入ると、今度は優也が、この部屋で実際にあったことだけを順番に思い返した。両親が泊まったときには寝る場所として使い、真琴が仕事をするときには作業部屋になった。荷物を一時的に置いたこともある。固定の用途は決まっていないが、決まっていないまま、必要に応じて何度も使ってきた。
その状態で《鑑定》を使う。
『追加空間――維持』
『用途――可変』
『接続状態――安定』
『魔素反応――微弱』
基本の四行が表示されたあと、少しだけ間を置いて、もう一行が増えた。
『利用――休息・作業』
二人は表示が消えるまで口を挟まなかった。
真琴が撮影を止めてから、優也へ確認する。
「今、頭の中では何を思い出してました?」
「両親が寝たことと、真琴が仕事してたこと。あと、荷物置いたこともあったなって」
「『休息・作業』という言葉は使いました?」
「いや。寝た、仕事した、荷物置いた、くらい。休息って言い方はしてへん」
真琴はすぐにノートへ条件を書き込み、追加表示が実際の利用履歴の一部を要約している可能性がある、と記した。
「荷物置いたことは入ってへんな」
「そうですね。全部を列挙しているわけではなさそうです。回数が多い使い方を優先したのか、使っていた時間なのか、この空間にとって重要度の高いものをまとめたのか、その基準はまだ分かりません」
「でも今は誰も寝てへんし、仕事もしてへん。現在の状態だけ見てるんやったら出えへん情報やんな」
「そこは大きいです。少なくとも、今この瞬間だけでは説明しにくい」
その言葉を聞いて、優也の中で少しだけ見え方が変わった。
これまで追加表示は、優也が何を考えているかを短く言い換えているように見えていた。しかし『休息・作業』は、それだけでは収まりきらない。優也自身が過去を思い出したことがきっかけになっているとしても、表示された言葉は、彼が頭の中で使った表現とは違っていた。
「ほな、次は玄関の余白いこか」
「そうしましょう。ただ、さっき私たちが話した内容をそのまま言葉でなぞらないようにしてください。ここで何があったかだけ思い返してみてください」
「難易度上がってるなあ」
「無理に上手くやろうとしなくて大丈夫です。条件を揃えすぎるほうが不自然になりますから」
右側玄関の内側へ移る。
小さな余白には朝の傘だけが端へ寄せてあり、買い物袋はすでに片付いている。
優也は、ここで起きたことを順に思い返した。
雨の日、濡れた自転車用品を持ち込んだこと。突然の雨で困っていた家族を一時的に受け入れ、折りたたんだベビーカーや濡れた荷物を置いたこと。停電したキャンプ場では、管理用のスマートフォンや無線機、利用者の端末を充電するために、折りたたみテーブルを仮置きした。そして今日も、買ってきた物を一度ここへ置いてから中へ運んだ。
『鑑定』
『追加空間――形成済』
『接続――右側玄関』
『用途――未設定』
『外部寸法――変化なし』
『接続状態――安定』
『魔素反応――微弱』
いつもの六行が出たあと、ゆっくり一行が足された。
『利用――一時保管・受渡』
優也は思わず息を吐いたが、真琴は表示が消えるまで待ち、内部側に同じ行が存在しないことを確認してから記録へ移った。
「俺、受渡って言葉は考えてへんで。充電した機械を外へ渡したことは思い出したけど」
「そこが重要ですね。予備室でも、優也さんは“寝た”“仕事した”と思い出していただけなのに、『休息・作業』と整理された。今度は家族の荷物、雨具、買い物袋、充電機器というバラバラのものが、『一時保管』と『受渡』にまとめられている。単純に頭の中の単語を拾って表示しているだけでは説明しにくいです」
優也は玄関の余白を見下ろした。
最初にこの空間が増えたとき、《鑑定》は『用途――未設定』と示していた。そして今も、その基本結果は変わっていない。つまり、この場所が倉庫や受付として固定されたわけではないのに、追加表示だけが、自分たちの使い方を後から短く整理しているように見える。
「用途は未設定のままやけど、利用は積み上がってるってことか」
「そう見えます。“何のために存在するか”と、“実際に何へ使われたか”を分けて扱っているのかもしれません」
「それ、結構賢ない?」
「賢い、という言葉はまだ使いたくないです。ただ、整理の仕方が単純な状態表示より複雑なのは確かです」
慎重な言い方ではあったが、真琴の声にも少しだけ興奮が混じっていた。
◇
ここまで来ると、優也には試してみたいことがあった。
「なあ、ACROSS本体そのものはどうなんやろ」
「全体を鑑定するんですか?」
「うん。俺ら、もう結構いろんな使い方してるやん。旅して、泊まって、親も乗せて、人を待たせて、外に電気渡して。全体で見たら、何か出るんかなって」
真琴は少し考えたあと、条件を決めすぎないことを確認して頷いた。
「やってみましょう。ただ、“こんな言葉が出てほしい”とは考えないでください。今までACROSSでしてきたことを、順番も決めずに思い出すくらいで」
「分かった」
二人はリビングへ戻り、優也はソファへ座った。
納車された日のこと。最初に一晩泊まったとき、狭かった通路。外側を変えずに広がった内部。両親を乗せた旅。予備室が生まれたこと。圏外になった山道。海沿いの町で自転車を使ったこと。車椅子の人を安全に入れられず、できないこととして残した日。真琴が私物を置いて帰るようになったこと。鍵を渡したこと。突然の雨で家族を一時的に受け入れたこと。停電した施設へ電力を外から渡したこと。そして、《鑑定》結果を真琴にも見せたいと思い、何度も失敗しながら共有を成立させたこと。
振り返れば、この車でしてきたことは、最初に思い描いていた「豪華なキャンピングカーで旅をする」だけでは、もう説明しきれなくなっていた。
それでも優也は答えを求めず、ただ今のACROSSを知るつもりで《鑑定》を使った。
『対象――ACROSS』
『空間状態――安定』
『追加空間――維持』
『外部寸法――変化なし』
『接続状態――安定』
『魔素反応――微弱』
いつもの六行が、優也の内側と真琴のスマートフォンへ同じように現れる。
二人は待ったが、文字は増えなかった。
「……今回は何もなしやな」
「はい。全体だと情報が広すぎるのかもしれません。予備室や玄関は、対象となる空間と実際の使い方がかなり近かったですから」
「ACROSS全部やと、何にまとめたらええか分からんのかな」
「もし本当に何かを整理しているなら、そういう可能性もあります。でも、出なかったこと自体も大事です。何でも意味ありげな言葉を足してくるわけではない、ということなので」
そこで終わらせるつもりだった。
優也がスマートフォンを受け取ろうと手を伸ばした瞬間、画面がほんのわずかに明るくなる。六行の表示はすでに消えており、ホーム画面へ戻る直前、その上に白い文字が一度だけ浮かんだ。
『記録――継続』
数秒も残らず、表示は消えた。
優也の手が止まり、真琴もすぐには動かなかった。
「……今の見た?」
「見ました。動画にも残ってると思います」
「俺の中には何も出てへん。六つで終わり」
「私のほうも、通常表示が消えたあとに出ました。まず動画を確認します」
真琴は声を落ち着かせながら撮影を戻した。そこには確かに、『記録――継続』という一行が残っている。
たったそれだけの短い表示なのに、今までのものとは少し性質が違った。
何の記録なのか。誰が記録しているのか。「記録を続ける」という意味なのか、それとも「記録が続いている」という状態を示しているだけなのか。優也が考えたACROSSの使い方を分類した言葉にも見えず、予備室や玄関で出た『利用――』の続きとも違う。
「これ、今までの“利用”とはちゃうな」
「はい。さっきの二つは、過去の使われ方を短く分類したように見えました。でも『記録――継続』は、利用方法を表す言葉ではありません」
「俺、記録のこと考えてへんかったで。思い出してただけやし」
「私も何も言ってません。だから、今すぐ意味を決めないほうがいいです」
真琴は時刻と条件を書き、映像を保存し、優也が内部で見た六項目を改めて確認した。そのうえで、今日の結果を一度すべて並べる。
『通常設備――追加表示なし』
『追加空間――過去利用と一致する分類表示あり』
『予備室――「利用――休息・作業」』
『玄関内余白――「利用――一時保管・受渡」』
『ACROSS全体――通常六項目の共有後、「記録――継続」』
『追加表示は内部鑑定結果に存在しない』
『優也の意図整理だけでは説明できない可能性』
「見方を少し変えたほうがいいかもしれません」
真琴はノートへ視線を落としたまま続けた。
「前回までは、追加表示が優也さんの考えを短く要約している可能性を中心に見ていました。でも今日の二つは、実際に使ってきた内容を整理しているように見える。最後の『記録――継続』まで偶然でないなら、優也さんの意図だけじゃなくて、ACROSS側に残っている何かを整理している可能性も出てきます」
「ACROSS側に残ってるって……覚えてるみたいな?」
「そう見える場面はあります。でも、“記憶”と呼ぶのはまだ早いです。空間の変化や使用状態が、何らかの形で保持されているだけかもしれませんし、それを《鑑定》が拾って整理しているだけかもしれない。人間みたいに思い出している、と考える根拠はありません」
「せやけど、使ったことが何も残ってへんかったら、『休息・作業』とか『一時保管・受渡』って出しにくいよな」
「そこは私も同じです。だから、何らかの履歴が残っている可能性までは、今なら言っていいと思います」
二人はそこで一度、実験を終えることにした。
優也は「もう一回ACROSS全体やったら、また出るかもしれへんで」と少し未練を見せたが、真琴は首を振った。最後の表示は意味が分からないからこそ、同じものを出そうとして条件を変えないほうがいい。期待し始めれば、どんな文字でも意味があるように見えてしまう。その説明に、優也も素直に引いた。
「俺もう、『何記録してんねん』って聞きたいけどな」
「聞いても、今はたぶん答えませんよ。前回、声で質問しても何も出なかったでしょう」
「分かってる。せやから聞かへん。……聞きたいだけ」
「それなら私も同じです」
真琴も少し笑った。
◇
夕方、真琴が帰る支度をしていると、玄関の余白に朝の傘が残っていることに気付いた。もうすっかり乾いており、優也は畳んで収納へ戻しながら、昼間に出た『一時保管・受渡』という言葉を思い出す。
確かに、この場所はそう使われてきた。
必要があって荷物を置き、別の日には濡れた物を一時的に逃がし、人が少し増えたときには靴や荷物がぶつからないように役立った。停電したキャンプ場では、中へ人を入れずに物と電気を外へ渡すための境目にもなった。
最初から誰かがそう決めたのではない。使った結果が積み重なり、今になって短い言葉で整理されて見えただけだった。
「なあ、真琴」
靴を履いていた真琴が振り返る。
「もし、これがほんまに“使ってきたこと”を何かの形で残してるんやったら、俺らが普段どう使うかって、結構大事なんちゃう?」
「大事、というのは?」
「ACROSSが勝手に何でも決めるんやなくて、俺らが使った結果が残って、それが次に何か変わるときの元になるなら、普段の使い方がそのまま先につながるんかなって。今までの空間拡張も、困ったことが先にあったやろ」
真琴は少し考えてから、ゆっくり頷いた。
「そう考えると、今までの流れには合います。通路が広がったときも、四人で泊まって予備室ができたときも、玄関の余白が増えたときも、先に実際の不便がありました。必要が積み重なって、そのあとで変化した。今回の追加表示も、全く別の現象というより、その延長にある可能性はあります」
「ほな、便利そうやからって何でも試すんやなくて、普通に使うほうがええんやな」
「それがいいと思います。わざと困る状況を作って変化を促すようなことは、しないでくださいね」
「せえへんわ。俺、そこまで研究熱心ちゃう」
「優也さん、面白そうだと時々やりそうなので」
「失礼やな。……ちょっとは否定できへんけど」
二人は笑い、そのまま真琴は帰っていった。
玄関の扉が閉まったあと、優也は一人でリビングへ戻り、テーブルに残ったノートを開いた。
『利用――休息・作業』
『利用――一時保管・受渡』
『記録――継続』
前の二つは、まだ分かる。
最後だけが、どうにも引っかかった。
記録とは、自分たちがノートや動画へ残しているものを指しているのか。それとも、《鑑定》やACROSSの側にも、別の形で何かが蓄積されているという意味なのか。もし後者だとしても、それを「覚えている」と呼んでいいのかは分からない。
だから、優也は勝手に答えを決めないことにした。
ノートの最後へ、
『覚えている、とはまだ言わない。だが、使ってきた形は残っているかもしれない』
と書き足す。
これまでACROSSの変化は、いつも形として現れていた。狭かった通路が広がり、何もなかったところへ予備室が生まれ、玄関の内側には小さな余白ができた。見れば分かる変化ばかりだった。
けれど今は、外から見ても何も変わっていない。設備が増えたわけでもなく、声が聞こえたわけでもない。それでも、自分たちが何をしてきたのか、その積み重なりだけが短い言葉になって表へ滲み始めている。
優也はしばらくノートを眺めたあと、スマートフォンをテーブルへ置いたまま立ち上がった。《鑑定》はもう使わない。今日は、出た言葉を増やすより、この程度で止めておくほうがいい気がした。
照明を落とし、玄関へ向かう。
「ほな、またな」
返事はなかったし、スマートフォンも光らない。
それでも優也は、車外へ降りて扉を閉めたあと、一度だけACROSSの車体を振り返った。
何も答えないまま、自分たちが使ってきた形だけが、どこかに残っているのかもしれない。
今はまだ、それ以上の意味を付ける必要はなかった。
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