ep.64 圏外の向こう
予備室の使い方がひとまず落ち着いてから、GRANZの中ではしばらく大きな変化が起きなかった。優也はそのことに少し安心していたし、真琴も「普通に使える時間が長いほうが、次に何か変わったとき比較しやすいです」と言っていたので、二人とも積極的に新しい現象を探すことはせず、次の休みもいつものように一泊の小旅行へ出ることにした。
今回の行き先は、これまでより少し山側だった。高速道路を降りてからしばらく走り、広い県道を使って山あいへ入る。大型車でも無理なく出入りできる施設を選んでいるため、GRANZで行くこと自体に不安はないが、市街地から離れるにつれて携帯電話の電波が弱くなる地域だということは、事前に案内で確認していた。
「ここ、場所によってはスマホ圏外になるらしいで」
前日の夜、車庫で荷物を積みながら優也が言うと、真琴は通信機器が収まっている上部区画へ目を向けた。
「じゃあ、やっとあれをちゃんと使う機会が来るかもしれませんね」
「あれって言い方すんなや。俺が散々悩んで全部載せた通信関係やぞ」
「今まで、ほとんど普通の携帯回線で済んでたでしょう?」
「それはそうやけど。使わんで済むならそれが一番やねん。ただ、せっかく特注したんやし、山入った瞬間に何も繋がらんのは嫌やったからな」
GRANZには、複数の携帯回線を切り替えて使える通信設備のほか、衛星経由で外部とつながるための装備や、将来的に無線設備を増やせるよう配線や電源にも余裕を持たせてある。優也自身、最初から災害救助や大げさな用途を想定していたわけではなく、山や海沿いを走っているときに携帯が圏外になったら困る、二億円を超える特注車なのだから後から付けにくいものは最初から入れておきたい、という程度の理由だった。
それでも納車後に実物を触っているうち、「装備はあるのに自分が分かっていない」という状態が気になり始め、最近は仕事の合間や帰宅後に通信や無線の勉強も続けている。西村から借りた資料や問題集も少しずつ読み進めており、まだ専門家にはほど遠いものの、画面に出る表示を見て何が起きているのかくらいは以前より理解できるようになっていた。
「今回は、圏外になったら慌てて触るんじゃなくて、普通に切り替わるか見るくらいやな。変なことはせえへん」
「そのくらいでいいと思います。通信設備まで『せっかくあるから全部試そう』って始めたら、旅行じゃなくなりますし」
「ほんま真琴、俺の扱い分かってきたよな」
「だいぶ」
二人で笑いながら準備を終えた。
◇
翌朝、GRANZはいつもより少し早い時間に車庫を出た。市街地を抜けるまでは交通量も多く、通信状態も何も変わらない。優也は運転に集中しながら、ときどき車内モニターの表示へ目を向ける程度で、真琴も助手席から景色を眺めていた。
山側へ入ってからしばらくすると、スマートフォンの表示が少しずつ弱くなり、トンネルを抜けたところで一度圏外になった。優也は思わず「あ、消えた」と声を出したが、車内のネット接続はそのまま維持されている。
「今、スマホは圏外やけど、こっちは繋がってるな」
「画面も切れてませんね。地図もそのまま動いてます」
「複数回線のどれか拾ってるんかな」
優也は停車できる場所までそのまま走り、広い休憩スペースへGRANZを入れた。運転席を離れて通信画面を確認すると、通常使っていた回線の一つは切れているものの、別の経路へ自動的に切り替わっているらしい。
「おお……ちゃんと仕事してる」
「言い方が家電を初めて動かした人みたいですよ」
「いや、実際そんな気分や。今まで家でWi-Fi繋がるんと変わらんかったから、この車の通信設備ほんまに必要やったんかなって一瞬思うことあったもん」
「必要かどうかは、使う場所次第でしょうね。街の中だけなら、ここまで要らないでしょうし」
「せやな。俺が欲しかったんは、どこ行っても絶対高速通信したいとかやなくて、『急に全部なくなる』のを避けたかったんやと思う」
言葉にしてみると、自分が当時なぜ通信関係を全盛りにしたのか、優也自身にも少し整理できた気がした。
◇
再び走り出し、さらに山へ入ると、道路の両側に建物が減っていった。外の景色は良く、空気も澄んでいるが、スマートフォンの電波は戻ったり消えたりを繰り返している。それでもGRANZ側の通信は完全には途切れず、地図や天気情報も更新されていた。
真琴が助手席で天気予報を確認しながら言った。
「午後から少し雨が早まるみたいです。到着したら先に外を歩いて、そのあと温泉のほうが良さそうですね」
「了解。こういうの普通に見れるだけで安心感ちゃうな。スマホだけやったら、圏外になった瞬間『まあ現地着いたらええか』で終わってたわ」
「旅行ならそれでもいいですけど、道路情報や天候が変わる場所だと、あるに越したことはないですね」
「しかもGRANZ、この大きさやからな。普通車みたいに『適当に細い道入って戻ろ』ができへんし、道の情報切れるほうが怖い」
それが、優也にとって一番現実的な理由だった。圏外だから危険という単純な話ではなく、車体が大きいからこそ、予定外の道へ入り込んだときの修正が難しい。通信そのものを贅沢品として考えるより、道を選び、天候を知り、何かあったとき外と連絡を取るための保険と考えるほうがしっくりきた。
◇
目的地へ着くころには空が少し曇っていた。施設の区画へGRANZを収め、水平を取ってから外へ出ると、山の匂いが濃く、周囲はこれまで行った場所より静かだった。
優也はスマートフォンを見て笑った。
「完全圏外」
「私もです」
「でも車戻ったら普通に繋がるんやろな。なんか変な感じする」
「家ごと電波を持ってきてるみたいですね」
「それ、ええ表現やな」
二人は雨が降り始める前に周辺を散歩し、山の斜面を流れる細い川や、遠くの集落を眺めながらゆっくり歩いた。観光地というほど人が多い場所ではなく、派手なものもないが、だからこそGRANZで来た意味があるように感じられた。
昼を少し過ぎたころ、予報どおり雨が降り始めたため、二人は車へ戻った。扉を閉め、濡れた上着を玄関近くで乾かし、真琴が温かい飲み物を用意する。外では雨音が屋根を叩いているが、車内はいつもと変わらない。
「こういうとき、通信あると急に安心感増すな」
優也が言うと、真琴はカップをテーブルへ置きながら頷いた。
「外が見えにくくなると余計ですね。今のところ雨は強くないですけど、もし道路が通れなくなったりしたら、情報が取れるだけでもかなり違います」
「昔の俺やったら、スマホ圏外見た瞬間ちょっと不安なってたと思う。別に連絡する相手おらんでも、繋がらんってだけで妙に落ち着かへんやん」
「分かります。使う予定がなくても、使える状態であること自体が安心になるんでしょうね」
「それやな。たぶん俺、通信全部載せた理由それやわ。必要になったときに『ない』のが嫌やった」
◇
午後は雨が続いたため、二人は車内でのんびり過ごした。真琴は持ってきた資料に目を通し、優也は通信関係の問題集を少し開いたが、数ページ進めたところで窓の外を見て手を止めた。
「せっかく旅行来て勉強してるの、なんか違う気してきた」
「自分で持ってきたんでしょう?」
「持ってきたらやる気出るかなと思って」
「出ました?」
「三十分くらい」
「十分じゃないですか」
真琴が笑ったので、優也も問題集を閉じた。
「でも前より意味分かるようになってきたで。最初は用語見た瞬間に『知らん』で終わってたけど、今はこの車のどこに関係してる話か想像できる」
「実物があると覚えやすいでしょうね。ただ、分かった気になって勝手に操作しないようにしてください」
「そこまで信用ない?」
「優也さん、面白そうなボタンあったら押したくなるでしょう」
「……まあ、なる」
「なら正しい警戒です」
こうして真琴に釘を刺されること自体も、最近ではいつものことになっていた。
◇
夕方前、雨脚が少し強くなったころ、車内モニターに道路情報の更新が入った。帰りに使う予定だった県道の一部で、雨量の影響による一時的な通行規制が出ているらしい。
優也は画面を見て眉を上げた。
「これ、明日まで続いたら予定の道使われへんな」
「別の道あります?」
「あるけど、GRANZで通るなら幅確認したい。地図だけ見て『行けるやろ』は嫌やな」
二人で周辺道路を確認し、施設側にも翌朝の状況を聞いてから判断することにした。代替路はいくつかあるものの、道幅や勾配を考えると大型車で使いたくない道も混じっている。
「こういうときに通信切れてたら、明日の朝いきなり現地で知ることになってたかもしれんな」
「施設の人から聞けた可能性もありますけど、事前に分かるほうが余裕はありますね」
「せやな。今のうちに選択肢見れるだけで全然違う」
結局、その日は車を動かす必要もなく、通行規制も夜のうちに解除される可能性があるとのことだったため、二人は焦らず待つことにした。大げさな危機ではないが、優也にとっては通信設備を載せた意味が、初めて生活の中で具体的につながった瞬間だった。
その少しあと、母親からメッセージが届いた。山側で雨が強くなっているというニュースを見たらしく、『そっち大丈夫なん? 変な道入ってへんやろな』と書かれている。優也は思わず笑いながら真琴へ画面を見せた。
「この前まで『次どこ連れてってくれるん』言うてた人が、今日は心配してるわ」
「ちゃんと返してあげてください。場所によって雨が強いってニュースなら、ご両親からしたらどの辺にいるか分からないでしょうし」
「分かってる。『車停めて温泉入ってる。道路止まってるとこあるけど、今日は動かんから大丈夫』でええかな」
「それで十分だと思います。帰る道も確認してるって一言入れたら、もっと安心するんじゃないですか」
優也は言われたとおり短く状況を書き、車内から見える雨の様子を一枚添えて送った。すぐに『無理して帰ってこんでええからな』と返ってきて、そのあとに『真琴ちゃんにもよろしく』と続く。
「俺より真琴への挨拶のほうが丁寧やん」
「気のせいです」
「絶対ちゃうやろ」
二人で笑ったあと、優也はスマートフォンを伏せた。
たったそれだけのやり取りだったが、もし完全に圏外で何時間も連絡が取れなければ、母親は余計に心配していただろう。優也自身も「連絡つかんだけやから大丈夫」と思いながら、どこか落ち着かなかったかもしれない。
「結局、通信って情報取るだけちゃうんやな」
「連絡する相手がいるなら、それも大きいですね。自分が困ってなくても、外から見たら状況が分からないですし」
「前は『別に俺、誰かに逐一連絡するタイプちゃうし』って思ってたけど、親連れて旅行行くようになってから変わったんかもな。自分一人だけ無事なら終わりじゃないっていうか」
「それもあると思います。真琴さんから連絡がなかったら心配する人もいますよ、と言われる前に気づいたなら進歩ですね」
「今ちょっと真琴、母ちゃん側に寄ったやろ」
「少しだけ」
笑いながら交わした会話のあと、優也は上部の通信区画へもう一度目を向けた。高価な機材が入っていること自体に満足していたころとは違い、今はそこに「外との線を切らない」という具体的な役割が見える。道路情報を受け取ることも、天気を確かめることも、家族へ無事を知らせることも、全部同じ線の上にあるのだと思えた。
◇
夜になり、二人は施設の温泉へ入り、戻ってから簡単な夕食を取った。予備室には濡れた荷物や使わないバッグをまとめて入れてあるため、リビングは相変わらずすっきりしている。
優也はソファへ座りながら、上部の通信区画を見上げた。
「この辺、買うとき『全部盛りで』言うたら担当の人ちょっと引いてたもんな」
「そりゃそうでしょう。普通に旅行するだけなら、かなり多いですから」
「でも今日みたいなん経験すると、やっぱ外せへんかったと思うわ。通信って普段何も起きへんと存在忘れるけど、なくなった瞬間だけ急に困るやん」
「救急用品とか予備電源に近いかもしれませんね。日常では使わなくても、必要なときに使えることが価値になる」
「そう考えたら、俺の『念のため』もたまには役立つな」
「たまには、じゃなくて、こういう装備に関してはかなり合理的だったと思いますよ。ただし、全部載せたから全部自分で使える、とは別ですけど」
「はいはい。そこは勉強します」
優也は苦笑しながら答えた。
◇
寝る前に道路情報をもう一度確認すると、規制はまだ続いていた。翌朝まで解除されなければ、施設で少し待つか、広い道を使って大きく迂回するつもりでいたが、優也は以前ほど焦っていなかった。
情報が取れている。
外と連絡もできる。
GRANZの中には食事も水もあり、急いで帰らなければ困る予定もない。
それだけで、選べる余裕があった。
「こういうとき、この車ほんま強いな」
優也が言うと、真琴もリビングから外の雨音を聞きながら頷いた。
「無理に動かなくていいのが一番大きいかもしれません。普通の車なら、長く待つほどしんどくなりますけど、ここなら寝て朝まで待てますし」
「せやな。通信だけちゃう。電気も水も寝る場所もあるから、『今動かなあかん』が減るんやな」
「それが結果的に安全につながることもありそうです」
優也はその言葉を聞きながら、GRANZを買う前には考えていなかった価値が、少しずつ増えていることを感じていた。
◇
翌朝、優也が起きたころには雨はかなり弱くなっていた。真琴がコーヒーを淹れている間に道路情報を確認すると、夜明け前に規制は解除されており、予定していた広い道で帰れる状態に戻っている。
「解除されてる。ほな、朝飯食ってゆっくり帰れるな」
「よかったですね。迂回路を使わなくて済みます」
「ほんま。昨日の時点で無理に動こうとせんで正解やったわ」
朝食を取り、外の様子を見てから撤収を始めた。予備室からバッグを取り出し、忘れ物を確認する。追加空間そのものにも変化はなく、扉や照明もいつもどおりだった。
優也は出発前、通信画面を一度だけ確認してから運転席へ座った。
「なんか、今日からここ見る意味変わったわ」
「昨日までは?」
「高い装備ちゃんと付いてるなあ、くらい」
「正直ですね」
「でも今は、『これが生きてたら慌てんで済む』って分かった。使うためというより、選択肢なくさんための装備やな」
真琴は少し考えてから、「それ、優也さんらしい考え方かもしれませんね」と言った。
◇
帰り道は雨上がりで、山の斜面に薄い霧が残っていた。昨日圏外だった区間へ入ると、スマートフォンの電波はまた弱くなったが、優也はもう気にしなかった。車内の通信が維持されていることを確認し、あとは道路と周囲へ集中する。
途中の休憩で、真琴が何気なく聞いた。
「無線の勉強、もう少し続ける気になりました?」
「なった。昨日までは資格取れたらええなくらいやったけど、装備ある以上、何ができて何ができへんかくらいは自分で分かっときたい。災害とか大げさな話抜きでも、山で何かあったとき『これ触ってええんかな』から始まるの嫌やし」
「そのくらいの動機のほうが続くと思います。必要になったときのために、普段から少しずつ知っておく感じで」
「仕事でもそうやもんな。誘導灯持って立ってるだけに見えても、何見てどこで止めるか分かってへんかったら危ないし、道具あるだけじゃ意味ない」
優也自身、その例えが一番分かりやすかった。
装備があることと、使えることは違う。
そして使えることと、使う必要があることも違う。
必要なときだけ確実に使えるようにしておく。そのくらいが、自分にはちょうどいいのだと思えた。
◇
屋内車庫へ戻るころには空も明るくなっていた。車体をいつもの位置へ収め、外周とタイヤを軽く確認してから、二人はリビングへ戻った。
今回の旅では、空間拡張に新しい動きはなかった。予備室もそのままで、鑑定を使う理由すらない。代わりに、今まで「特注だから付けた豪華装備」の一つだった通信設備が、GRANZの性格を形作る重要な部分だと分かった。
真琴が荷物をまとめながら言った。
「今回、何も広がりませんでしたね」
「それ言う? 俺も今ちょうど思ってたけど、なんかそれでええ気してる。毎回何か起きたら落ち着かへんし」
「私もです。普通に使って、普通に役立つものが分かる回も必要ですよ」
「回って言い方すんなや」
優也が笑うと、真琴も笑った。
ただ、言っていること自体には完全に同意していた。
◇
真琴が帰ったあと、優也はノートを開いた。今回は空間変化の記録ではなく、旅の中で感じたことを中心に書いた。
『山間部一泊』
『スマホ回線――区間によって圏外』
『車内通信――別経路へ切替、接続維持』
『天候・道路情報の確認に使用』
『雨量による道路規制――夜間に解除』
『無理に移動せず、車内待機で対応』
『予備室――変化なし』
そこまで書いたあと、少し考えてから一行を加えた。
『通信設備――使うためというより、選択肢を失わないため』
優也はその言葉をしばらく眺めた。
GRANZには、普通の旅行だけなら過剰に見えるものがいくつもある。大きな電源設備、水、生活空間、通信、予備の寝場所。どれも毎回限界まで使うわけではなく、むしろ普段は余っているくらいでちょうどいい。
けれど、その余裕があるからこそ、天候が崩れても急いで帰らなくてよく、道路が止まっても待つことができ、携帯が圏外でも外の情報を失わずに済む。優也は、そういう「何もしなくても残っている余裕」こそ、自分がこの車へ求めていたものなのかもしれないと思った。
予備室が空いたままでも価値を持つように、通信設備も普段使わないから無駄なのではない。必要な瞬間に使える状態で残っていること自体に意味がある。
それなら、次に自分がやることも見えていた。さらに装備を増やすことではなく、今載っているものを理解すること。資格の勉強も、格好をつけるためではなく、自分が何を扱えて、どこから先は専門家へ任せるべきなのかを知るために続ければいい。
今回の雨は大きな災害でも事故でもなく、翌朝には道も開いた。それでも、何も起きていないときに装備の意味を実感できたことは、むしろ良かったのかもしれない。非常時になって初めて説明書を開くより、普通の旅の中で少しずつ扱い方を知っていくほうが、優也にはずっと現実的だった。
優也はノートを閉じると、机の端へ置いていた問題集を手に取った。今夜一気に何十ページも進めるつもりはない。西村に言われたように、少しずつでいい。
それでも、山の中で通信表示が切り替わった瞬間を思い出すと、昨日までより文字が少しだけ現実に近く見えた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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