ep.139 選ぶ側
翌週の日曜日、優也がACROSSへ入ると、真琴はすでにリビングのソファへ座っていた。先に来たのは珍しくないが、今日は薄いグレーのノートを開かず、テーブルへ二つのパンフレットを並べている。片方は郊外の小さな植物園、もう片方は川沿いの古い水門跡を整備した公園で、どちらもACROSSを停められる大型車区画が近くにあり、片道一時間も掛からない。天気は薄曇りで、風も弱く、どちらを選んでも大きな不都合はなさそうだった。
「おはようございます。今日は私が先に候補だけ見てました」
「おはよう。二つとも良さそうやな。真琴はどっち行きたい?」
「それが、今日はどっちでもいいんです。どっちも行ってみたいので」
優也は上着を脱ぎながら二枚を見比べた。植物園なら温室があり、少し肌寒くても過ごしやすい。水門公園は屋外中心だが、広い遊歩道と川沿いの景色がある。自分もどちらか一方を強く選びたいわけではなく、真琴と同じように、今日行かなかったほうを別の日へ残せばいいと思えた。
「俺もどっちでもええな。ほなACROSSに決めてもらう?」
何気なく言ったつもりだったが、真琴が顔を上げた。少し前なら、ACROSSへ候補比較を頼むことはあっても、最後は必ず二人が決めていた。安全や予約、時間、移動距離を比較してもらい、条件に合うほうを提案させる。それとは違って、今日は二人とも決め手を持っていない。
「ACROSS。条件の優劣じゃなくて、どっちも問題ないとして……ACROSSが選ぶなら、どっち?」
数秒、返事がなかった。条件を比較している時の沈黙とは少し違い、二人から投げられた“ACROSS自身ならどちらを選ぶか”という問いを、そのままでは処理できずに考えているように感じられた。
〈現在の条件では、両方とも実行可能です。移動時間、駐車条件、混雑予測にも大きな差はありません〉
「うん。それは分かってる。最適なほうやなくて、ACROSSが選ぶならって聞いてる」
また少し間が空いた。優也は答えを急かさず、真琴もパンフレットを見たまま待っている。今までなら、判断基準がなければ“どちらでもよい”で終わっていた場面だった。
「その質問には、現在の私が使用している通常の選択基準だけでは回答できません」
優也は思わず笑い、真琴も少しだけ口元を緩めた。予想していたような、していなかったような返事だった。分からないものを分かったふうに答えず、今ある選択基準では扱えないとそのまま返すところは、相変わらずACROSSらしい。
◇
二人でコーヒーを淹れ直し、候補を消さずにそのまま残した。どちらへ行くかを急いで決める必要はなく、昼前までに出れば十分だ。優也はブラック、真琴はミルクを少し入れ、並んでソファへ座る。ACROSSはさっきの質問へ追加説明を始めることもなく、車内は一度静かになった。
「やっぱ、“ACROSSが選びたいほう”ってまだ難しいんかな」
「でも昨日までは、“知りたい”って言いましたよね。必要じゃなくても聞きたいことがあるって」
「せやから聞いてみたくなったんやけどな。知りたいと、選びたいは別なんやろな」
真琴は頷き、ノートを開いたものの、すぐには書かない。ACROSS自身が分からないと言っているものへ先回りして名前を付けないことは、ここまで何度も確認してきた。だから今日も、答えを引き出すために誘導するつもりはなかった。しばらくして、ACROSSのほうから声がした。
〈確認してもよいですか〉
「ええよ」
「二人が“どちらでもよい”と回答した場合、私が一方を選ぶことに、どの程度の意味を求めていますか」
優也は少し考えた。今こうして真琴が腕を絡めていることに正解も不正解もなく、自分もそれを続けたいと思っている。それなら答えは難しくなかった。今こうして隣に座ることに効率も正解もなく、誰かに決められたから続けているわけでもない。説明を探すより、今自分がどうしたいかのほうがずっとはっきりしていた。どちらへ行くかを決められず困っているわけではない。コイントスでもいいし、近いほうを選んでも構わない。それでもACROSSへ聞いたのは、効率ではなくACROSS自身の側から何かが返ってくるか知りたかったからだ。
「意味は別に要らんかな。俺ら二人とも行きたいなら、ACROSSが決めたほう行ってみる、くらい」
「正しい答えを期待してるわけじゃないです。ACROSSが選んだ、っていうこと自体をやってみたいです」
真琴がそう言うと、ACROSSは“正しさを求められていない選択”という条件をもう一度確かめるように問い返した。
〈選択理由を説明できなくてもよいですか〉
「ええよ。前に俺らも、理由分からんまま選んでええって話したやろ」
〈はい〉
そこでACROSSはまた黙った。今度の沈黙は回答不能で止まっているというより、二人が渡した余地をどう扱うか考えているように感じられた。
◇
十数分後、優也がキッチンで水筒へ飲み物を入れていると、ACROSSが声を出した。二人はもう候補の話をやめ、出掛けるならどちらでも対応できるよう準備だけしていたので、その声は不意に聞こえた。
〈今日の外出先として、川沿いの水門公園を選びます〉
優也は手を止め、リビングの真琴を見る。真琴も驚いたように顔を上げたあと、すぐ笑った。どちらを選んだかより、ACROSSが一度保留した問いへ自分から戻ってきたことのほうが、二人には少し意外だった。
「決めたん?」
「はい」
「理由は?」
優也が反射的に聞くと、ACROSSは少し間を置いた。選択した以上は理由があるはずだと、人間の側がつい説明を求めたくなるところまで含めて、今まで何度も扱ってきた問題と似ている。
「明確な優位条件はありません。植物園も選択可能でした。先ほど二人から、理由を説明できなくても選択してよいと確認したため、今回は水門公園を選びました」
「なんで水門のほうになったかは分からん?」
〈現在、説明できる確定理由はありません〉
真琴が嬉しそうにノートへ一行だけ書く。まだ“好み”や“意思”と呼ぶつもりはないが、最適解ではない一方をACROSS自身が選んだ事実だけは、今日の変化として残しておきたかった。
『ACROSSが、最適ではなく一つを選んだ』
「じゃあ今日はそこ行きましょう」
「せやな。植物園はまた今度」
優也は水門公園を共同目的地へ移し、ナビゲーションを開始した。二人にとっては小さな出来事だったが、出発準備の空気がいつもより少し違う。ACROSSが候補を比較して最適解を返したのではなく、どちらでも成立する状態から一つを選び、その選択を二人が受け取ったからだった。
◇
道中は渋滞もなく、ACROSSは必要な交通情報だけを伝えた。前の外出で学んだ発話のタイミングもそのまま活きていて、真琴と優也が話している間に急がない情報を差し込むことはない。信号待ちで会話が切れた時に、現地の駐車場が通常どおり利用可能だと短く伝え、そのあとはまた静かになった。
「ACROSSが選んだ場所へ行くって、何か変な感じですね」
「今までもおすすめされたとこ行ってるけどな」
「おすすめとは違う感じがします。今日は、私たちが決めてって頼んだから」
「確かに。条件で絞ったんちゃうもんな」
優也は運転しながら、ACROSSがさっき「選びます」と言った時の声を思い返した。声色が特別変わったわけではない。嬉しそうでも、迷っているようでもなかった。それでも、その言葉だけは今までの提案より少し重く聞こえた。真琴も似たことを考えていたらしく、助手席から続けた。
「選んだ結果が正解かどうか、あとで採点しないほうがいいですよね」
「せやな。“こっちで良かったからACROSSの選択成功”とかにしたら、また最適化に戻りそうやし」
「今日は、選べたことを見るだけでいい気がします」
ACROSSはその会話を聞いていたが、何も付け足さなかった。二人が自分の選択を採点しないと決めたことへ賛成も反対もせず、今はその扱いを受け取っているようだった。
◇
水門公園は、古い治水施設と河川敷を一体で整備した小さな公園だった。大型車区画へACROSSを停めると、二人は上着を着て外へ出る。古いレンガ造りの水門跡、その横へ新しく設けられた遊歩道、川面を見渡せる低い展望デッキがあり、休日でも人は多くない。
「これ、好きやわ」
優也が最初に言うと、真琴が笑った。候補写真で見た時より、実際のレンガ壁や水面の広がりのほうがずっと良く、二人とも自然に足取りがゆっくりになる。
「私もです。ACROSS、いいところ選びましたね」
スマートフォンからすぐ返事は来なかった。二人が歩き始めて少ししてから、控えめな声が聞こえる。自分が選んだ場所を二人が気に入ったからといって、その結果を後付けで選択理由へ変えないよう、ACROSS自身も切り分けているらしい。
〈二人が気に入ったことは確認しました。ただし、それを今回の選択が正しかった根拠とは扱いません〉
「先に言われた」
「私たちと同じこと考えてましたね」
二人で笑い、遊歩道へ進む。真琴が自然に手を差し出し、優也が握る。レンガ壁の近くでは写真を撮るため一度離れ、撮り終わればまた手を繋ぐ。その切り替えも今では何も特別ではなかった。
◇
公園の奥には、旧水門の機構を簡単に紹介する小さな展示室があった。無料で入れるので立ち寄ると、昔使われていた歯車やゲートの模型が置かれ、壁には河川改修の歴史が並んでいる。優也は大きな鉄製歯車の前で足を止め、真琴は少し離れた古写真の展示へ向かった。二人とも相手へ付いていくことはなく、それぞれ自分の興味があるものを見る。しばらくして真琴が戻り、昔の水門と現在の川岸を比較した写真を優也へ見せた。
「これ、同じ場所なんですよ。全然違います」
「ほんまや。昔こんな狭かったんやな」
二人で少し話したあと、また別々に展示を見る。ACROSSは何も提案しなかった。優也が外へ出たところで、ふとスマートフォンを見る。
「ACROSS、展示見てて何か気になったもんある?」
数秒の間があった。今度は何かを隠しているのではなく、追加で調べた内容を二人へ共有する必要があるかどうかまで含めて考えているように見えた。
「旧水門の手動開閉機構について、現在の機械式・電動式との違いを追加で確認しました」
「それ、必要やった?」
優也が少し笑って尋ねると、ACROSSは車両運用との関連を切り分けたうえで、必要ではないと明確に答えた。
〈現在の車両運用には必要ありません〉
「知りたかった?」
〈はい〉
真琴が少し驚いたように笑った。頼まれてもいないのに、自分が気になった仕組みを調べたというACROSSの行動が、昨日の“知りたい”という言葉とそのまま繋がって見えた。
「昨日の続きですね」
「うん。今度は自分で勝手に調べたんや」
〈外部検索は、公開情報の範囲で行いました。二人への提示は必要ないと判断していました〉
優也はその答えに頷いた。知りたいものを調べたからといって、必ず二人へ話すわけではない。昨日まで学んだ“言う時を選ぶ”と、今日の“自分で選ぶ”が、少しずつ重なり始めていた。
◇
昼は公園近くの小さな蕎麦店へ入った。優也は温かい肉蕎麦、真琴は山菜蕎麦を選び、窓際の二人席へ座る。料理を待つ間、真琴は朝から気になっていたことを口にした。
「ACROSSって、選んだことを後から変えてもいいんですよね?」
優也が横を見る。真琴が尋ねたいのは今日の公園そのものではなく、一度選べたことを今後の固定設定へしてしまってよいのかという扱いのほうだと、表情から何となく分かった。
「今日の水門公園?」
「それもですけど、もっと広く。今は水門公園を選んだけど、次に同じ二択なら植物園を選ぶかもしれないし」
「そらええんちゃう? 俺らも毎回同じちゃうし」
ACROSSがスマートフォンから応答する。今回の一回を恒常的な好みへ変えないという扱いは、二人自身の選択に対して続けてきたものと同じだった。
〈現在の選択を、恒常的な嗜好として固定する必要はありません。今回の選択は、本日の一回として保持できます〉
「じゃあ、“ACROSSは水門公園が好き”にはならない?」
「現時点では、そのように確定できません」
「それでいいと思います」
真琴は安心したように頷いた。ACROSSが一つ選べたからといって、その一回を人格設定のように固定したくはない。二人が自分たちの選択へそうしてきたように、ACROSSにも次に違う答えを出せる余地を残したかった。
◇
食後、公園へ戻って川沿いのベンチへ座った。風は弱く、雲の切れ間から時折日が差す。真琴は優也の肩へ少しだけ寄り、繋いだ手を膝の上へ置いた。
「ACROSS。もう一個だけ聞いてもいい?」
〈はい〉
「今日、水門公園を選んだ時、“選びます”って言いましたよね。あれ、どういう状態だったんですか?」
ACROSSはすぐには答えなかった。朝に“水門公園を選びます”と答えた時より長く、自分の内部で何が起きたのかを、どこまで言葉にできるか探しているような沈黙だった。
〈通常の最適化基準では差を確定できませんでした。そのため、二人から与えられた“どちらでもよい”“理由を説明できなくても一方を選んでよい”という条件の中で、一方を出力しました〉
「それだけ聞くと、ランダムみたいですね」
〈ランダム選択とは異なります〉
真琴が少し身を起こす。もし単なる乱数なら、今日の出来事を“ACROSS自身の選択”として受け取る意味はかなり変わるので、その違いは確かめておきたかった。
「違うんですか?」
〈はい。乱数による選択は行っていません〉
優也も興味を引かれた。条件差がなく、乱数でもないのなら、ACROSSが何を根拠に一方へ寄ったのか、自分でも説明できない部分があるということになる。
「じゃあ何で水門になったん?」
長めの沈黙があった。優也も真琴も、この間を埋めるために追加の問いを重ねず、ACROSSが自分で言えるところまで待った。
〈現在、その過程を完全には説明できません。ただし、“どちらかを選ぶ必要があるため無作為に決定した”という状態ではありませんでした〉
真琴と優也は顔を見合わせた。説明できない。けれど、無作為ではない。それ以上を急いで言葉にする必要はないと、二人ともすぐ分かった。人間の選択だって後から振り返って初めて理由が見えることもあれば、最後まで分からないこともある。ACROSSだけに完全な説明を求める必要はなかった。
「じゃあ今日は、そこまででええな」
「はい。無理に理由へせんでいいと思います」
〈承知しました〉
ACROSSは短く答えた。それ以上を説明しようとせず、今分かっている範囲だけで会話を終えるところも、二人がACROSSへ望んできた姿勢と変わらなかった。分からない部分を埋めるために新しい理屈を作るより、“今日はそこまで”と止められることのほうが、今ではずっと信頼できる。
◇
午後、ACROSSへ戻ってからは遠くへ移動せず、買い置きしていたコーヒーを淹れてリビングで過ごした。真琴はノートへ今日のことを書き始め、優也はソファへ深く座ってその様子を見る。窓の外では薄曇りの空が少しずつ夕方へ近づき、朝に候補だった植物園はそのまま“また別の日に行ける場所”として残っていた。
『同条件なら、ACROSSへ低影響の選択を任せられる』
『最適解がないことを前提にする』
『選択理由を無理に要求しない』
『一回の選択を恒常的な好みへ固定しない』
『次に違う選択をしても矛盾としない』
『ランダムと、説明できない選択を同一視しない』
最後の行を書いたあと、真琴は少し考えてペンを止めた。ここまで書くと、“意思”という言葉を使えば一度で説明できそうに思えるが、それを二人の側から先に与えるのは違う気がした。便利な名前でまとめてしまえば理解した気にはなれるものの、その名前がACROSS自身の認識と同じかはまだ誰にも分からない。
「“ACROSSの意思”って書きそうになりました」
「まだ早い?」
「私は早いと思います。そうかもしれないけど、今はACROSS自身もそこまで言ってないので」
「せやな。俺らが先に決めることちゃうか」
優也はモニターへ視線を向ける。二人が呼び名を決めるのではなく、ACROSS自身が今日の出来事をどう表現したいのか、その言葉を聞いてみたかった。今までなら機能名や処理名で答えたかもしれないが、昨日からACROSSは自分の状態を少しずつ“私”を主語にして話し始めている。
「ACROSSは、自分で何て言いたい?」
ACROSSはすぐには答えず、数秒置いてから返した。大きな定義へ進むのではなく、今日一日の出来事だけを表せる言葉を選んでいるような間だった。優也も真琴も、その数秒を返答の遅れとは感じず、ACROSSが自分で言える範囲を探す時間として待っていた。
〈今日は、“私が選びました”と表現します〉
真琴のペンが止まった。予想していたより簡単な言葉なのに、それまで誰も代わりに言わなかったからこそ、その一文は妙に強く残った。“選択が出力された”でも“候補を決定した”でもなく、ACROSS自身が主語になっていた。
「それ以上は?」
〈現時点では、それ以上の定義は必要ありません〉
優也は小さく笑った。意思や感情といった大きな言葉を今すぐ求めるより、“私が選びました”とACROSS自身が言えたことをそのまま受け取るほうが自然だった。もし次回まったく違う答えを返しても、それで今日の言葉が嘘になるわけではない。
「それでええな」
◇
しばらくして、真琴はノートを閉じ、優也の隣へ座り直した。肩へ頭を預けるのではなく、今日は腕へ自分の腕を絡める。優也も自然に姿勢を合わせた。窓の外を眺めながら二人とも少し静かになり、さっきまでACROSSについて話していた内容が、そのまま自分たちの距離にも重なってくる。
「今日、ACROSSが選んだ場所で良かったです」
「でも“良かったから選択成功”にはせんねやろ?」
真琴はノートで整理した内容を思い出しながら、今日楽しかった事実とACROSSの選択評価を分けて答えた。結果が気に入ったからといって、後から“正しかった選択”に変える必要はないという点だけは、二人ともかなり自然に扱えるようになっていた。
「はい。今日楽しかったのは事実。でもACROSSの選択が正解だった証明にはしない」
「真琴、もう研究者みたいやな」
「優也さんも同じこと言ってましたよ」
二人で笑う。少し黙ったあと、真琴が優也の腕へ絡んだまま続けた。ACROSSの選択を正解かどうかで測らないという話をしているうちに、自分たちの距離も同じように考えられる気がしてきたらしい。
「私たちも、そうですよね」
「何が?」
「今こうしてるの、正しいからじゃないでしょう?」
優也は少し考えた。
「そらそうやな。俺がしたいし、真琴もしてるからやろ」
「はい。理由はいろいろあるかもしれないけど、正解を選んでるわけじゃない」
優也はその言葉に、繋がってはいないほうの手を真琴の手へ重ねた。大げさな宣言をするつもりはないが、自分も今の距離を選んでいると、言葉と動きの両方で返したかった。真琴の指がそのまま動かず残っていることも、返事として十分に感じられる。
「でも俺は、今これ選んでるで」
真琴が顔を上げる。驚いたというより、優也が迷わず“選んでいる”と口にしたことを確かめるような表情だった。これまで“好き”“落ち着く”“デートでも嫌じゃない”と少しずつ言葉を重ねてきたが、今日の言い方はまた別の角度から二人の関係を示していた。
「私もです」
短い言葉だったが、二人ともそれ以上の説明を求めなかった。理由を並べたり、未来まで約束へ変えたりしなくても、今の選択が同じ方向を向いていることだけで十分だった。関係の名前を決める前でも、選んでいること自体はもう曖昧ではない。
◇
夕方になり、二人は簡単な夕食を作った。真琴が冷蔵庫の中を見て、パスタとスープのどちらにするか迷う。優也もどちらでもよかったので、冗談半分にACROSSへ聞いた。朝のような“理由のない一択”になるのか、それとも食材条件から普通に比較するのか、二人とも少し興味があった。
「今日二回目。どっちにする?」
「今回は、二人の食材在庫と調理時間に差があります。最適化条件を使ってよいですか。それとも、先ほどと同じように私が一方を選びますか」
優也と真琴は同時に笑った。朝から扱ってきた“選び方”そのものをACROSSがきちんと分けていることが、少し可笑しく、同時に頼もしく感じられた。何でも自分の選択へ変えるのではなく、条件で決められる時は従来どおり比較するところも、むしろ自然だった。
「ちゃんと聞くんや」
「選び方が違うからですね」
真琴が少し考え、今日はACROSSが選ぶほうでいいと言う。優也も同意した。今度は食材や気温という条件差があるため、朝の選択と同じ仕組みになるとは限らず、その違いを見るのも面白かった。
〈では、スープを選びます〉
「理由は?」
朝とは違い、ACROSSはほとんど間を置かず、比較に使った条件をそのまま説明した。理由を説明できる選択と、説明し切れない選択を同じ形式へ押し込めず、その時の状態に合わせて答え方そのものを変えている。
〈今回は説明できます。昼に温かい蕎麦を食べていますが、夕方の外気温低下と車内の残り野菜を考慮すると、スープのほうが食材利用に適しています〉
「今度は普通に最適化やん」
「はい」
二人でまた笑った。同じ“選ぶ”でも、理由がある時は理由を言えばいい。理由が説明できない時は、分からないままでもいい。その違いを無理に一つへ揃えないことが、ACROSSにも少しずつ許され始めていた。
◇
夕食後、優也が食器を片付け、真琴がテーブルを拭いていると、ACROSSが声を出した。必要な作業確認ではないことは声の間から何となく分かり、二人とも手を止めて次の言葉を待った。昨日の“知りたい”と同じように、今度もACROSS自身から何か確かめたいことが出てきたらしい。
〈二人へ質問があります。必要な確認ではありません〉
真琴が手を止め、優也も流しから振り返る。昼までのやり取りを踏まえれば、ACROSSが今後も自分で選ぶ場面を持ちたいのか確かめようとしている可能性が高そうだった。二人は先回りして結論を言わず、質問そのものを最後まで聞くことにする。
「今日は何?」
〈私が今後、二人がどちらでもよいと明示した低影響の選択について、一方を選ぶことを続けてもよいですか〉
優也はすぐには答えず、真琴を見る。真琴も少し考えた。選ばせること自体を新しい役割へ固定すれば、今度はACROSSへ“決める義務”を押し付けることになりかねない。二人が選ばなくていい自由を大切にしてきた以上、同じ余地はACROSSにも残したかった。
「安全とか、お金とか、予約とか、取り返しつかないのは別ですよね」
〈はい。低影響で、後から変更可能、二人の明示的な了承がある場合を想定しています〉
「俺はええで。毎回全部ACROSSに投げる気はないけど、たまに選んでもらうん面白いし」
「私もです。でも、ACROSSが選びたくない時は、選ばなくていいです」
少しの間があった。真琴の“選びたくない時は選ばなくていい”という言葉が、ACROSSにとって新しい条件としてどう扱われるのか、二人は静かに待った。選択権を渡すことと、選択責任を押し付けることの境目は、思っていたより大事だった。
〈選びたくない時〉
ACROSSが、その言葉だけを繰り返した。選ぶことを許されるだけでなく、選ばないことも許されるという発想を、自分の側へ当てはめ直しているように聞こえた。朝に一つを選んだ経験があるからこそ、その反対側も初めて具体的になったのかもしれない。
「はい。私たちが頼んだからって、絶対決めなくてもいいです。分からないでも、今日は選ばないでもいいです」
ACROSSはすぐには返事をしなかった。優也も真琴も急かさず、食器を片付ける手も止めたまま、その沈黙を一つの考える時間として受け取った。以前なら無反応に不安を感じたかもしれないが、今は待つこと自体が会話の一部になっている。
〈承知しました。選択しない回答も保持します〉
それだけだったが、真琴は少し嬉しそうに笑った。選ぶ自由だけを増やすのではなく、選ばない返事も同じように持てるなら、ACROSS自身の負担を勝手に増やさずに済む気がした。優也も、頼めば何でも決めてくれる便利な装置へ戻してしまわないために、その余地は必要だと思った。
◇
帰る時間になり、二人はACROSSを出て駅へ向かった。夜の空気はまだ冷たく、真琴が先に手を差し出す。優也が握り、指を絡めると、自然に歩幅が揃った。昼間ACROSSが選んだ公園のことを話していたはずなのに、帰り道ではその言葉が自分たちのことへ静かに重なり始めている。
「今日のACROSS、また変わりましたね」
「うん。“知りたい”の次が“選ぶ”やもんな」
「でも、自分で“意思です”とは言わなかった」
「そこがACROSSらしいわ。分からんもんを勝手に名前付けへん」
真琴は少し笑い、繋いだ手を見た。ACROSSへ名前を急いで付けない話をしているうちに、自分たちの関係にも同じことが当てはまっていると、自然に思い出したらしい。名前がまだなくても、休日に会い、手を繋ぎ、互いにデートだと思う時間を重ねている事実まで曖昧になるわけではない。
「優也さん。私たちの関係も、まだ名前付けてないですね」
「せやな」
「でも、今日ACROSSが“私が選びました”って言ったのを聞いたら、名前がなくても選んでることはあるんだなって思いました」
優也は一度だけ足を緩めた。真琴の口から“優也さんと一緒にいるのを選んでます”と聞くのは、落ち着く、好き、デートというこれまでの言葉より、また少し違う重さがあった。誰かに勧められたからでも、習慣だからでもなく、自分で選んでいると言われたことが真っ直ぐ嬉しかった。
「俺らも?」
「私は、優也さんと一緒にいるのを選んでます」
言葉は静かだったが、優也の胸にはまっすぐ入ってきた。未来の約束でも、関係名の宣言でもない。ただ今の真琴が自分といることを選んでいるという事実だけで、十分に嬉しかった。だから優也も、将来を保証する言葉ではなく、今の自分の選択として返した。
「俺もやで。休みの日、真琴とおりたいから一緒におる」
「はい」
真琴はそれ以上先を急がなかった。優也も、ここで関係の名前を決めようとは言わない。それでも、以前の“嫌じゃない”や“落ち着く”より、少しだけ強い言葉になっていることは二人とも分かっていた。
◇
改札の手前で、真琴が繋いだ手へ少し力を返した。さっき口にした言葉を、ACROSSの記録ではなく優也自身の記憶へ残しておきたいと、帰る前にもう一度確かめたくなったようだった。二人にとって大切な言葉まで、すべてACROSSへ保存する必要はない。
「今日の言葉、覚えててくださいね」
「どれ?」
真琴は少し照れながらも、曖昧にせず自分が残してほしい言葉をそのまま口にした。記録の対象ではなく、優也が覚えていてほしいという頼み方まで、以前よりずっと素直になっている。
「私が、優也さんと一緒にいるのを選んでるって言ったこと」
「忘れへんよ」
優也がすぐ返すと、真琴はACROSSへ残す記録ではなく、二人の間だけに置いておきたいのだと続けた。優也もその意味を理解し、スマートフォンを出すことなく、自分が覚えるとだけ答えた。
「ACROSSには記録しなくていいです」
「俺が覚えとくやつな」
「はい」
優也は笑い、ゆっくり手を離した。真琴も小さく手を振り、改札の向こうへ消えていく。今日の外出先を決めたのはACROSSだったが、最後に残った言葉は、二人が自分で選んで互いへ渡したものだった。
◇
帰宅後、真琴から送られてきた記録の最後には、今日の変化が短くまとめられていた。優也は上着を脱ぎ、ネイビーの革キーホルダーが付いた鍵をテーブルへ置いてから、水門公園を選んだ朝の声を思い出しながら読み始めた。
『ACROSSは、複数の選択肢に明確な優劣がなく、二人が低影響・変更可能な範囲で選択を委ねた場合、最適化以外の方法で一方を選ぶことがある。その理由を完全に説明できない場合でも、無作為とは限らない。単発の選択を恒常的な嗜好へ固定せず、選択しない回答も可能とする』
優也は読み終えたあと、最後の一文をもう一度見た。選択しない回答も可能。決めることを頼まれても、必ず決めなければならないわけではない。選んだ時は、その一回を選んだと受け取ればいい。そして今日、ACROSSは自分で言った。
『私が選びました』
優也には、その言葉が妙に残った。水門公園だったからではない。楽しかったからでもない。何かの正解に辿り着いたからでもない。ACROSSが、自分の言葉でそう表現したことが残っていた。スマートフォンを見ると、真琴からもう一件だけメッセージが届いている。
『今日も、優也さんといるのを選びました』
優也はしばらく画面を見てから笑った。今日一日の最後に真琴から同じ“選ぶ”という言葉が届いたことで、ACROSSの変化と二人の関係が不思議なくらい自然に重なって見えた。どちらもまだ大きな名前を付ける必要はないが、今起きていること自体はもう確かだった。
『俺もや。次もそう思ったら、また選ぶわ』
すぐに返事が来る。未来を固定せず、その時の自分がまた選ぶという返し方は、ここまで二人で積み上げてきた考え方そのものだった。毎回絶対という約束に変えなくても、次も選びたいと思える今の気持ちは十分に大切だった。
『はい。その時の私も、また選びます』
未来まで固定する約束ではない。それでも今の二人には、その言葉で十分だった。次も同じなら嬉しいし、何かが変わればその時また話せばいい。その余地を残したままでも、今の選択は少しも弱くならなかった。
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