ep.137 言う時を選ぶ
次の土曜日、優也は真琴より少し早くACROSSへ入ると、コーヒーを淹れる前に運転席側のモニターを開いた。そこには、前の外出で自分だけの候補として残しておいた丘の展望施設が表示されている。高台そのものへACROSSで上がるのではなく、麓側にある大型車対応の駐車区画へ停め、そこから緩い遊歩道を歩いて展望台まで向かう形なら無理がない。夕方は西の空が開け、天気がよければ日没前後の景色がきれいらしい。
候補を保存した時点では、真琴へ見せるかどうかも決めていなかった。写真を見て「ここ、真琴好きそうやな」と思っただけで、それ以上はACROSSに大型車での進入可否と駐車条件だけ確認させ、共同候補へは出さずにいた。それから何度か見返すうちに、自分が行きたいというより、真琴を連れて行って景色を見せたいという気持ちのほうが強くなっている。
「ACROSS。今日ここ、行けそう?」
〈おはようございます、優也。候補地周辺は午後から晴れ間が広がる予報です。麓側の大型車区画は通常利用可能で、そこから展望地点までは舗装された歩行路があります。現時点で、車両進入に関する新しい制限は確認されていません〉
「ほな今日にしよかな。真琴には、着くまで場所内緒にしたいんやけど」
そこでACROSSはすぐに了承せず、少しだけ間を置いた。優也の意図だけで目的地を伏せるなら、真琴が自分で同行条件を判断する材料まで一緒に隠してしまう可能性があるため、その境界を先に確認する必要があるようだった。
〈真琴が、目的地を知らない状態で同行することへ同意する必要があります。また、目的地を伏せたままでも、服装、歩行量、帰着時刻、屋外滞在時間など、本人の判断へ必要な条件は共有できます〉
「ああ、それは言わなあかんな。サプライズしたいだけで、何も知らんまま乗せたいわけちゃうし」
〈承知しました。目的地名と画像は優也の個人情報として保持したまま、同行判断に必要な条件のみ共有可能です〉
優也は少し笑った。前なら「秘密にする」か「全部教える」かの二つしか思い浮かばなかった気がする。しかし今のACROSSは、内容を伏せたままでも相手が自分で決められる材料だけを渡せると考えている。秘密を守ることと、相手の選択肢を奪わないことは、同時に成立するらしい。
◇
真琴が来たのは、それから二十分ほどしてからだった。赤茶色の革キーホルダーが付いたバッグをいつもの位置へ置き、上着を脱いでリビングへ入ってくる。優也が用意していたコーヒーを受け取ると、モニターに何も目的地が表示されていないことへ気づいたらしく、少しだけ首を傾げた。
「今日はまだ決めてないんですか?」
「決めてる。俺が一個、行きたいとこある」
「この前の内緒ですか?」
「それ」
真琴の表情が少し明るくなる。前の帰り道で、優也が言いたくなるまで聞かないと決めていた候補が、ようやく表へ出てきたと分かったらしい。聞かないと決めて待っていたぶん、今度は自分から内容を尋ねられることが少し嬉しそうだった。
「じゃあ、教えてください」
「それなんやけど……着くまで内緒でもええ?」
真琴は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに拒む様子は見せなかった。ただ、楽しそうに笑う前に少し考える。知らないことを面白がるだけでなく、自分が本当にその状態で出掛けたいかを一度確かめている。
「何も分からないままですか?」
「いや、そこは違う。外歩く。坂はきつくないけど、少し歩く。たぶん夕方までおるから、帰りはいつもより遅め。寒なったら困るから上着はあったほうがええ。嫌やったら今言うてくれたら場所も全部言う」
ACROSSもそこへ必要条件を補う。目的地名を伏せても、服装や歩行量、帰宅時刻のように本人の選択へ直接影響する情報まで省く必要はない。
〈屋外歩行は往復で三十分前後を想定しています。休憩設備とトイレはあります。現在の予想では、帰着は通常より一時間から一時間半ほど遅くなります。途中で目的地の開示を希望した場合は、真琴の要求を優先します〉
真琴はカップを両手で包みながら、しばらく考えてから頷いた。歩く量も帰りが遅くなることも自分には問題なく、途中で気が変われば目的地を聞けると分かったので、内緒のまま出掛けることへ不安はなかった。
「それなら、内緒のままで行きたいです」
「ほんまに?」
「はい。優也さんが私に見せたい場所なんですよね?」
図星だった。優也は少し照れながらも、誤魔化さず頷く。自分が行きたいだけならここまで黙っておく必要はなかったが、真琴へ見せたいと思ったからこそ、伝える瞬間まで少し取っておきたかった。
「まあ……そうやな」
「じゃあ、着くまで知らないほうが楽しそうです」
その返事を受けて、ACROSSは目的地名を共同表示へは出さず、真琴側には『優也設定の目的地』『屋外歩行あり』『帰着遅め』という条件だけを残した。目的地を知っている優也と、知らないことを選んだ真琴。その二人が同じ外出へ参加するために必要な情報量が、最初から同じである必要はなかった。
◇
出発準備を終え、優也が運転席、真琴が助手席へ座る。ルートは運転席側へだけ詳細表示され、助手席側には到着予定時刻と休憩候補だけが出ていた。真琴はそれを見て少し面白そうに笑った。
「本当に場所、出てないですね」
「俺の画面には出てるで」
真琴は助手席側の表示をもう一度見てから、運転席側へ視線を向けた。見ようと思えば優也の画面を覗けそうな距離ではあるが、自分で“知らないまま行く”と決めた以上、そこへ踏み込む気はないらしい。
「見ません」
「ちょっとくらい気にならへん?」
「かなり気になります。でも今見たら、自分で内緒にしてって言った意味なくなるので」
優也は笑いながらACROSSを発進させた。秘密を守ってもらっている側が我慢しているのではなく、自分から知らない状態を選んでいる。そこが大事なのだろうと思う。しばらく市街地を走っていると、真琴は窓の外を見ながら目的地を推理し始めた。
「高速、乗らないんですね」
「それ言うたら絞れるやろ」
真琴は道路標識へ目をやり、地名から何となく方向を考え始めた。優也もそれに気づいているが、見えてしまう情報まで隠そうとするのは違うので、何も言わずその様子を見ていた。
「でも今見えました」
「見えるもんまで隠されへんわ」
「海じゃない?」
「答えません」
短いやり取りのあと、二人は笑った。優也は完全に何も言わないつもりではなく、真琴が道中そのものを楽しめる程度なら普通に話す。ただ、地名や目的地へ直結する情報だけは、自分から渡すタイミングまで取っておきたかった。ACROSSも同じ扱いをしていた。途中の渋滞や休憩施設は共有するが、目的地へ近づいたことを示す固有名詞は助手席側へ出さない。必要な情報を減らしているのではなく、真琴が「今は知らない」と選んだ範囲だけを守っている。
◇
一時間ほど走ったところで、ACROSSが運転席側へ新しい通知を出した。優也が信号待ちで確認すると、予定していた大型車区画の一部が臨時利用で埋まり、到着時に空きがない可能性が出ている。代替として、少し離れた公共駐車場なら大型車対応区画があり、そこから目的地までは歩く時間が十分ほど増えるらしい。
「真琴、ちょい変更ある」
「場所、ばれます?」
「まだばれへん。駐車場が混んでるかもしれんから、別んとこ停めたら歩く時間が片道五分くらい増える。合計で十分くらい増えるけど、大丈夫?」
真琴は自分の靴を一度見てから頷いた。今日は歩きやすい靴を履いており、往復で十分ほど増える程度なら無理なく受け入れられると自分で判断した。
「大丈夫です。今日これなら歩けます」
「しんどなったら途中で変えよ」
「はい」
ACROSSはその返答を受け、第二駐車場を優先候補へ切り替えた。目的地名は伏せたままでも、二人が合意した新しい歩行量と到着時刻だけは共有情報として更新される。
〈目的地名を開示せずに必要条件の変更のみ共有しました。真琴の同行条件は継続しています〉
優也はその言い方に少し感心した。サプライズを守るために、歩行量が増えた事実まで隠したら意味がない。真琴が最初に了承した条件が変わるなら、その部分だけは知らせて選び直してもらう必要がある。
「ACROSS、これ最初から覚えといて。内緒にする時も、相手が判断する条件変わったらそこは言う」
〈承知しました。非開示内容と、再確認が必要な条件変更を分離します〉
真琴が助手席から少し笑う。サプライズを守るために黙られるのではなく、自分が許容できる範囲だけはきちんと聞かれることが、むしろ安心に繋がっているようだった。
「サプライズなのに、ちゃんと途中で確認されるんですね」
「嫌?」
「逆です。安心して内緒にしてもらえます」
優也は前を向いたまま、少し嬉しくなった。秘密にしていること自体を楽しんでもらうには、相手がいつでも選び直せる余地を残しておくほうがいいと、真琴の反応から実感できた。
◇
昼は目的地へ向かう途中にある道沿いの小さな食堂で取ることにした。ここは最初から優也が休憩候補として共有していたため、真琴にも店名が表示されている。ACROSSを大型車区画へ停め、二人で店内へ入ると、優也は温かい蕎麦、真琴は小さな丼と味噌汁のセットを選んだ。
「この店から先、どれくらいですか?」
真琴が聞くと、優也はACROSSを見る。店から先の所要時間だけなら目的地を明かさず答えられるはずで、どこまでが“知らないままでいたい範囲”なのかを確かめるような視線だった。
「時間なら言える?」
〈はい。現在の代替駐車場まで約四十分です。目的地そのものの位置情報は含めません〉
真琴は残り時間だけ分かれば十分だと納得したように頷いた。目的地そのものを知らなくても、あとどのくらい車へ乗るのかが分かれば、今の自分の疲れや予定を判断するには足りる。
「四十分か。じゃあ結構近いですね」
「近い近い」
真琴はそこで地図を開こうとはせず、時間だけ分かったことに満足した様子でカップへ手を伸ばした。
「方角聞いたら怒ります?」
「怒らんけど、答えへん」
「分かりました」
真琴は笑い、それ以上は聞かなかった。食事をしながら、優也はふと自分がこの場所を選んだ理由を考えた。景色がきれいだからというのはもちろんだが、それだけではない。真琴が写真を撮るのが好きになってきたこと、静かな場所で一緒に過ごす時間を二人とも気に入っていること、少し歩いたあとに景色が開ける場所なら、到着した瞬間の反応を隣で見られること。いくつも理由は浮かぶが、結局は「見せたい」と思ったから選んだ。それで十分だった。
◇
食事を終え、再びACROSSへ戻る。目的地が近づくにつれて道は少しずつ郊外らしくなり、住宅の間に畑や低い丘が見え始めた。真琴はさっきまでのように推理を口へ出さず、窓の外を楽しんでいる。やがてACROSSは予定どおり代替の大型車区画へ入った。優也が車体を白線の中央へ収め、パーキングブレーキを掛ける。目的地まではここから歩くので、ようやく内緒にしていた部分を渡す時が来た。
「真琴」
「はい」
「もう言うてええ?」
「お願いします」
優也は助手席側のモニターへ目的地を共有する。朝から個人情報として伏せていた名前と写真が、ここで初めて真琴との共同情報へ切り替わった。
『丘陵展望公園』
表示された名前と写真を見て、真琴の目が少し大きくなった。緩い丘の上に小さな展望台があり、その先には町並みと遠くの山まで見渡せる。日没の少し前には、西側の空が大きく開くらしい。
「ここ……」
「真琴、こういうとこ好きかな思って」
真琴は画面を見たあと、今度は優也を見る。写真だけでも自分が好きそうな場所を選んだ理由が何となく伝わり、驚きより嬉しさのほうが先に表情へ出ていた。
「好きです。まだ行ってないけど、好きだと思います」
「良かった」
「これを内緒で調べてたんですね」
「うん。ACROSSに車停められるとこだけ先に見てもろてた」
真琴はしばらく画面を見てから、小さく笑った。場所そのものだけでなく、優也が自分へ見せたいと思って調べた時間まで含めて、今日の外出として受け取っているようだった。
「言う時まで待ってくれて、ありがとうございます」
優也は少し意外そうに眉を上げた。待つ時間にまで価値があると言われるとは思っておらず、自分が黙っていたことを単なる演出以上のものとして受け取られたことに驚いた。
「何で礼言うん?」
「私が楽しみに待つ時間も残してくれたからです」
その言葉に、優也は以前、真琴が自分からデートの行き先を伝えた時のことを思い出した。情報を渡すことだけが大事なのではなく、自分から言いたい時まで持っておく時間と、相手が待つ時間の両方がある。今日のサプライズは、その延長だった。
◇
外へ出ると、午後の空は朝より明るく、雲の切れ間から西日が差していた。遊歩道は舗装され、勾配も急ではない。二人は上着を着て歩き始め、少し進んだところで真琴が自然に優也の手を取った。
「今日はこっち?」
「はい。坂なので腕組むより歩きやすいです」
「理由あるやん」
「今日はあります」
二人で笑い、そのまま歩く。道の両側には低い木と春の草が広がり、途中には小さな休憩所がいくつかあった。急ぐ必要はないので、真琴が写真を撮りたくなれば止まり、優也も気になった景色があれば一緒に立ち止まる。目的地を教えたあとは、もう秘密にしておくものはなく、ACROSSも二人のスマートフォンへ帰路や気温の変化を普通に表示していた。
途中で真琴が振り返り、駐車場の方角を見下ろす。大きなACROSSは離れていてもすぐ見つけられ、遊歩道を進むほど“戻る場所を置いて歩いている”という感覚が強くなる。
「ACROSS、結構遠くに見えますね」
「八輪やから余計目立つな」
「でも、あそこに戻れるって分かってると安心します」
「家置いて散歩してる感じやな」
真琴がその言い方に頷く。巨大な車を旅先へ持っていくという非日常は、いつの間にか二人にとって、帰る場所ごと出掛けるという日常へ変わっていた。知らない場所へ向かう日でも、ACROSSが戻る場所として待っているだけで、外出全体の安心感はかなり違う。
◇
展望台へ着いた頃、日没まではまだ三十分ほどあった。真琴は手すりの近くまで行き、広がる町並みを見た瞬間に足を止めた。西側には雲が少し残っているものの、その下から光が長く伸び、家々の屋根や遠くの川を淡い橙色へ変え始めている。
「……きれい」
その一言を聞いただけで、優也はここへ連れてきてよかったと思った。真琴は何枚か写真を撮り、それから優也のところへ戻ってくる。今度は景色ではなく、二人の繋いだ手とその向こうの空を画面へ入れた。
「また手の写真?」
「今日は撮りたいです」
「理由は?」
真琴は少し考え、優也を見上げた。今撮りたい理由を一つに決める必要はないが、今日に限っては“ここへ連れてきてもらったことを残したい”という気持ちだけははっきりしていた。
「今日ここへ連れてきてもらったこと、あとで見たら思い出せそうだから」
「それなら俺にも送って」
「もちろん」
真琴は一枚撮り、すぐにはスマートフォンをしまわず、今度は優也の横顔まで入るように画角を変えた。景色だけではなく、その場所を選んだ人まで一緒に残したいという意図が分かり、優也は少し照れながらもそのまま立っていた。
「俺も入れるん?」
「この場所を選んだ人なので」
優也は少し照れたが、逃げなかった。写真を撮り終えると、二人は少し離れたベンチへ座り、持ってきた温かい飲み物を分けて飲む。風は冷たくなり始めていたが、日が落ちるまでの短い時間を急いで終わらせたいとはどちらも思っていなかった。
◇
日が傾くのを待ちながら、真琴がぽつりと口を開いた。到着してからしばらく景色を楽しんだことで、今度は“知らないままここへ来たこと”そのものをどう感じたのか整理できたらしい。
「今日のサプライズ、すごく好きです」
「場所が?」
真琴はすぐに答えず、さっきまで見ていた景色をもう一度見渡した。場所が良かったことと、知らないまま連れてきてもらった時間の両方を思い返してから、どちらも今日の楽しさに入っていると感じたらしい。
「場所もです。でも、着くまで知らなかったのも」
「不安ちゃうかった?」
「最初に条件を教えてもらったので。歩くこととか、帰りが遅くなることとか。あと、途中で知りたくなったら言っていいって分かってましたし」
真琴はカップを両手で包み、少し考えて続ける。もし本当に何も知らされず、途中で質問することもできない状態なら同じようには楽しめなかっただろうと、自分でも分かっている。
「何も知らないのと、知らないことを自分で選ぶのは違うんですね」
優也はゆっくり頷いた。相手が知らないことを選べる状態と、知らせてもらえない状態は外から見れば似ていても、中身はまるで違うとようやく実感できた。
「せやな。俺も今日分かった。内緒にしたいからって、何も言わんのは違うわ」
「ACROSSもそれ覚えました?」
スマートフォンから落ち着いた声が返る。今日の外出で実際に条件変更と再確認まで経験したため、ACROSS側にも扱い方がかなり具体的に整理されていた。
〈はい。本人が非開示を選択した内容と、本人の判断に必要な条件情報を分離して扱います。また、条件が変化した場合は、非開示内容を維持したまま必要部分のみ再確認します〉
「そこやな」
優也は笑った。ACROSSはさらに、本人が途中で「やはり知りたい」と希望した場合、最初の非開示選択より現在希望を優先すると付け加えた。一度サプライズへ同意したから最後まで秘密にされるのではなく、途中で気が変わればいつでも終わらせられる。優也にとっても、そのほうが気楽だった。
◇
真琴は薄いグレーのノートを取り出し、風でページがめくれないよう膝の上へ置いた。今までなら共有するかしないかだけで整理していた内容へ、“いつ共有するか”という新しい軸が加わったため、今日のうちに書き残しておきたかった。
『共有するかどうかだけでなく、共有する時を選べる』
『本人が“今は知らない”を選ぶこともできる』
『非開示でも、判断に必要な条件は共有する』
『条件が変われば、必要部分だけ再確認する』
『途中で知りたいへ変わったら、現在希望を優先する』
『サプライズを理由に、相手の選択肢を減らさない』
『伝える側のタイミングと、待つ側の同意を分ける』
書き終えると、真琴は最後の一行を見ながら少し笑った。秘密を守るためのルールではなく、伝える側と待つ側の両方に選択肢を残すための整理になっていることが気に入ったらしい。
「これ、前の“知っていても言わない”より一歩進みましたね」
「黙っとく理由がある時も、相手が待つって決めてるか確認せなあかんってことやな」
「はい。勝手に秘密にするのと、二人で“今は秘密”にするのは違います」
優也もその言葉に納得した。自分が真琴へ見せたいからと勝手に行き先を伏せるだけなら、相手へ自分の楽しみを押し付けていたかもしれない。しかし真琴は、条件を聞いたうえで「知らないまま行きたい」と選んだ。だから今日のサプライズは二人のものになった。
◇
日没が近づくにつれ、空の色は少しずつ濃くなった。雲の隙間から落ちる光が赤く変わり、遠くの建物には一つずつ灯りが付き始める。真琴はノートを閉じ、また優也の隣へ少し寄った。
「優也さん」
「ん?」
真琴は少しだけ身を起こし、今度は自分も“連れて行く側”をまたやってみたいと考えたようだった。今日の楽しさが優也だけの役目ではなく、二人の間で行き来していいものだと感じている。
「私も、次また内緒で連れて行く日作っていいですか?」
「もちろん。俺、今日待つ側もおもろかったけど、連れてく側もええな」
「じゃあ、交代制じゃないけど、たまにお互いやりましょう」
「それがええ」
真琴は小さく笑い、そのまま優也の肩へ頭を預けた。ベンチの上で手を繋ぎ直し、二人で日が沈むところを見る。告白でもなければ、関係の名前を決める話でもない。それでも優也には、今日のほうが以前より少しだけ「二人でデートを作っている」という感覚が強かった。どちらかが連れていくだけではなく、秘密にするかどうかまで相手と選び、その結果を一緒に楽しんでいる。
「真琴」
「はい」
「今日、デートって言うてええ?」
真琴は肩へ頭を預けたまま、少し笑った。自分の中ではすでに今日をデートとして受け取っていたので、優也がようやく同じ言葉を使ったことが少し可笑しく、同時に嬉しかった。
「もう私はそのつもりでした」
「先に言われた」
「この前、私も言いましたから」
優也は照れながらも、否定する気にはならなかった。以前なら言葉の定義を気にしていたかもしれないが、今は二人とも同じつもりで一日を過ごしているなら、その呼び方を避ける理由はなかった。
「ほな今日もデートで」
「はい」
短い返事のあと、二人はまた景色へ視線を戻した。関係の名前までは決めていなくても、今日の外出を二人ともデートと呼べること自体が、少し前より自然になっている。
◇
完全に暗くなる前に展望台を離れ、来た道をゆっくり下る。帰りは上りより楽だったが、足元が見えにくくなり始めているので、ACROSSがスマートフォンへ照明の弱い区間を知らせた。真琴は途中で「少し寒くなりました」と言い、優也も同じだったので、休憩せず駐車場まで戻ることにする。ACROSSの側面玄関を開けた瞬間、暖かい空気が二人を迎えた。上着を脱ぎ、靴を整え、リビングへ戻ると、さっきまで外で見ていた夜景が急に遠く感じる。
「帰ってきた感じしますね」
「車やのにな」
「もう車だけじゃないです」
真琴がそう言ってソファへ腰を下ろす。優也も隣へ座り、二人で温かいスープを作ることにした。夕食は外で済ませる候補もあったが、景色を見終えたあと急いで店へ移動するより、ACROSSの中でゆっくりしたくなったからだ。最初の予定では「展望施設のあと、帰路で夕食」まで候補にしていた。それを車内の簡単な食事へ変えても、今日の目的は何も損なわれない。サプライズを成功させるために、残りの一日まで最初の形へ固定する必要はなかった。
◇
スープとパンを食べ終え、二人は木製トレーへコーヒーを載せてソファへ戻った。真琴は今度は肩へ頭を預けず、優也の腕へ自分の腕を絡める。外で手を繋いでいた時より近い距離になり、優也は少しだけ姿勢を直して座りやすくした。
「今日、私が途中で“場所教えて”って言ったら、がっかりしました?」
「ちょっとは残念やったかもしれん。でも言うたと思う」
「本当に?」
「サプライズ成功させるために真琴が我慢するんやったら、そっちのほうが嫌や」
真琴は少し考え、腕を絡めたまま頷いた。自分がサプライズをする側になった時にも、相手が途中で気持ちを変えられる余地を残したいと、その場で同じように考えた。
「私も、今度内緒にする時そうします。途中で知りたいって言われたら、ちゃんと言います」
「それがええな」
ACROSSがそこで静かに確認した。最後まで秘密を守れたかどうかだけを成功条件にすると、参加者の現在希望より演出の維持が優先されるため、その扱いを明確にしておく必要がある。
〈サプライズや非公開予定について、“成功”を最後まで非開示にできたことではなく、参加者が現在の希望を保ったまま楽しめたこととして扱ってよいですか〉
優也は思わず笑った。楽しい外出を一つしただけなのに“成功条件”まで言われると少し大げさに聞こえたが、意味としては自分たちが話してきたことそのものだった。
「そこまで言うと大げさやけど、まあ合ってる」
「私もそれがいいです」
〈承知しました〉
ACROSSの返答は短かったが、優也には今日の一日がきれいにまとまった気がした。目的地を伏せたことではなく、真琴が知らないまま楽しみたいという選択を最後まで尊重できたことが、今日のサプライズの中心だった。
◇
帰る時間はいつもより遅くなった。ACROSSをガレージへ戻し、後片付けを済ませてから二人で駅へ向かう。夜の空気は昼より冷たいが、手を繋いで歩けば気にならない程度だった。
「真琴、今日ほんまに場所知らんままで良かった?」
「良かったです。途中で分かりそうになった時も、ちょっと楽しかったです」
真琴は帰り道まで含めて今日の一日を思い返し、途中で目的地を推理していた時間さえ楽しかったと感じているようだった。優也も、その気持ちを聞けるならサプライズにしてよかったと思える。
「推理してたもんな」
「でも、最後は考えるのやめました」
「何で?」
「優也さんが見せたい場所なら、着いてから見たほうがいいかなって」
優也は少し照れ、前を向いたまま繋いだ手を握り直した。場所の良し悪しだけで期待されているのではなく、自分が一緒に行きたいと思ったこと自体を受け取ってもらえたのが嬉しかった。
「そこまで信用されると次のハードル上がるな」
「上げてません。もし次が普通の公園でも、優也さんが一緒に行きたいなら行きたいです」
「それ言われたら、逆に楽やわ」
真琴は笑った。場所そのものの価値だけで二人の時間が決まるわけではない。どこへ行くかを考えた時間、言うまで待った時間、知らないまま乗った時間、その全部が今日の外出に含まれていた。
◇
改札が近づく頃、真琴が少し歩幅を落とした。今日の景色だけでなく、その場所を自分のために優也が探していた時間についても、帰る前に一度きちんと伝えておきたいことがあるようだった。
「優也さん。今日、私に見せたいって思ってくれたの、嬉しかったです」
「景色?」
「景色も。でも、“ここ真琴好きそう”って思って調べてくれたことが」
優也は何と返すか少し迷った。照れ隠しに冗談へ逃げることもできるが、今日はそうしたくなかった。真琴が自分の言葉で嬉しかったと伝えてくれた以上、自分も同じくらい素直に返したかった。
「また見せたいとこ見つけたら、連れてくわ」
「はい。楽しみにしてます」
真琴は“次は自分の番”と決められることには少しだけ違和感があったらしく、優也も言った直後にそれへ気づいた。今日まで積み上げてきた二人なら、順番よりも“見せたい時”のほうが自然だ。
「でも次は真琴の番かもな」
「交代制じゃないんでしょう?」
「せやった」
二人で笑う。真琴は少し間を置いてから、繋いだ指へ力を返した。順番を決めるのではなく、自分が見せたいと思った時に相手へ渡すほうが、二人の今の距離には合っている。
「順番じゃなくて、見せたい時に見せる、でいいです」
「それええな」
優也も同じだけ握り返した。誰が次に担当するかを決めるより、どちらかが“見せたい”と思った時に自然に誘うほうが、ずっと楽しそうだった。
◇
帰宅後、真琴から送られてきた記録の最後には、今日のACROSSの変化が一文でまとめられていた。優也は上着を脱ぎ、鍵へ付いたネイビーの革キーホルダーをテーブルへ置いてから、朝に目的地を伏せたところから展望台の景色までを順番に思い返しながら読み始めた。
『ACROSSは、情報の共有可否だけでなく共有時点を分離して扱い、本人が現在“知らないこと”を選択した場合でも、同行・安全・時間・負担など判断に必要な条件は共有する。条件変化時は非開示内容を維持したまま必要部分のみ再確認し、本人が途中で開示を希望した場合は現在希望を優先する』
優也はその文章を読みながら、朝からの流れを思い返した。真琴へ目的地を言わなかったのは、自分が驚かせたかったからだけではない。真琴自身が「知らないまま行きたい」と選んでくれたから、最後まで秘密にしておけた。途中で駐車場の条件が変わった時は、歩く時間が増えることだけ伝えた。真琴がそこで嫌だと言えば、別の駐車場を探すか、目的地を明かして相談すればよかった。
サプライズを壊さないために黙るのではなく、相手が知らない状態を楽しめる範囲だけ守る。その違いは、思っていたより大きかった。そして、展望台で真琴が見せた顔を思い出すと、やっぱり内緒にしてよかったとも思う。優也はスマートフォンを開き、真琴から送られてきた写真を見返した。二人の繋いだ手、その向こうに広がる夕方の空、少し端へ入った優也の横顔。最後の一枚には、展望台から見た街の灯りだけが写っている。
その下に、短いメッセージが続いていた。ノートの整理とは別に、今日一日の感想だけを優也へそのまま渡すような一文だった。
『今日のデート、好きでした』
優也は少し笑い、返信する。デートという言葉が真琴から自然に届くようになったことへ、少し前とは違う嬉しさを感じながら文字を打った。
『俺も。次も、言いたくなった時に言うわ』
少しして返ってきた。待つかどうかまで自分で選ぶという返事は、今日の真琴らしく、ACROSSが覚えた内容ともきれいに重なっていた。
『はい。待つかどうかは、その時の私が決めます』
優也は画面を見て、思わず笑った。それでいい。伝える側だけがタイミングを決めるのではなく、待つ側にも選ぶ権利がある。言う時を選べることと、聞く時を選べること。その両方があるから、今日の秘密は二人にとって楽しいものになったのだと思えた。
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